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純粋経験から絶対無の場所へ

* 日本哲学のはじまりと『善の研究』

日本における哲学の歴史は一般的にはPhilosophyを「哲学」という日本語に訳したことでも知られる西周が行った哲学講義によって始まったとされています。江戸幕府の洋学研究機関であった蕃書調所(のちの東京大学)の教授手伝並であった西は1862年(文久2年)に軍艦発注のために派遣された幕府の使節に随行し、オランダで法学や経済学と共に哲学を学び、明治維新後「育英舎」という私塾を開き1870年(明治3年)から「百学連環」という題目で哲学を含む学問全体を論じる講義を行っています。

やがて1877年に東京大学が創設された際には文学部に「史学、哲学及政治学科」が置かれ、1881年には独立した形での「哲学科」へと改編されました。この哲学科での教育に大きな役割を果たしたのがフェノロサやブッセやケーベルらの外国人教師であり、彼らの下からは近代日本を担う多くの人材が輩出されました。そして、このような受容期間を経て日本の哲学はついに自らの足で歩き始めます。そのことを示す記念碑的著作が1911年(明治44年)に公刊された西田幾多郎の『善の研究』です。

同書は西田の存命中も繰り返し版を重ねましたが、戦後も特に1950年に岩波文庫版が出て以来、幅広い層に読み継がれて多くの研究書も出され、現在では英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、中国語、韓国語など多くの言語にも翻訳されています。

* 実在としての純粋経験

では、この『善の研究』において西田は何を論じたのでしょうか。同書の「序」で西田は「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たいというのは、余が大分前から有って居た考であった」と述べています。ここでいう「実在」とは「実際に存在するもの」「物事の真の姿」「最も確かなもの」といった意味で用いられています。こうした意味での「実在」を西田は「純粋経験」として捉えたということです。

西田によれば常識的な意味での「経験」には常にその「経験」をした当事者の先入観や判断といった「思慮分別」が入り込んでいるとされます。これに対して「純粋経験」はそのような「思慮分別」が少しも加えられていない「経験そのままの状態」をいいます。

我々の常識的なものの見方では主観と客観との二分法に立っています。すなわち、まず「私」という個人がまず存在して、その外側に「私」を取り巻く世界が存在していると考えます。しかし西田はこうした主観と客観の二分法という反省が加えられる以前の主客未分の状態である「純粋経験」こそが「実在」にほかならないといいます。

* 純粋経験と「善」

このように主客未分などというと何か神秘体験のような特異な体験を連想してしまいますが、西田のいう「純粋経験」は日常生活からかけ離れたものではなく、むしろ生活の至るところに生じるものであるとさえいえます。そして、こうした「純粋経験」から「私」という自己が生まれてきます。つまり、西田が「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである。個人的区別よりも経験が根本的である」と述べるように「私」という意識は「純粋経験」に主観と客観の区切りを入れることで生じるものであるということです。

この点『善の研究』で論じられる「純粋経験」には一見すると雑多とも思える多様な意識状態が含まれています。これらの意識状態は大きくいえば三つに分けられます。まず⑴新生児の場合のような子どもの発達初期の自他未分化な意識の状態です。次に⑵「色を見、音を聞く刹那」といわれる様な判断以前の直接的な意識の状態です。そして⑶芸術家や宗教家の「知的直感」といわれるものや熟達した技能を演じる際の高度に統一された意識の状態です。

こうした様々な純粋経験を総合すると我々の意識の発達プロセスは次の様に考えることができます。第一に主観と客観が別れていない⑴や⑵のような意識状態があります。第二に主客未分の純粋経験が発展して主観と客観が別れた意識状態が生まれます。第三にこうした主客分離の状態のさらに先に主観と客観が再び一つになった⑶のような理想的な意識の状態が考えられます。そして、こうした理想的な意識の統一の状態としての純粋経験において現れる「自己」ないし「人格」こそが西田のいう「善」に他なりません。

*「自覚」から「場所」へ

その後、西田はこの「純粋経験」をさらに追求していくことになります。1917年に公刊された『自覚に於ける直感と反省』においては『善の研究』における「純粋経験」に相当する状態を「直感」と呼び、この直感を外側から主観と客観の二分法で捉えた状態を「反省」といい、この両者の関係を「自己の中に自己を写す」という「自覚」という概念で捉えています。

そしてこのような「自覚」における「自己の中に自己を写す」というイメージとして西田は英国にいて「完全なる英国の地図」を写すという例を挙げています。英国にいる人間が英国の完全な地図を写すには、地図を写している当の自分自身も地図の中に書き込む必要があり、そして何より自分が写してる地図自体もそこに書き込む必要があり、さらにその「地図の中の地図」もやはり「完全な地図」でなければならないことから、地図の中に地図を写す作業が果てしなく続いていく事になります。

すなわち、一つの直感が反省され、その状態からさらに新たな反省が生まれてくるというプロセスはどこまでも続いていく可能性があります。「自覚」とはこのように「直感」と「反省」の両方ともに含んで無限に発展していくプロセスをいいます。

そしてこの「自覚」の探求を突き進めた先に西田の哲学的思索は一つの完成を見ることになります。1927年に公刊された『働くものから見るものへ』において西田は「有」を根本とする西洋文化に対して、東洋文化の根底にはいわば「無」の考え方が潜んでいるとした上で、この「無」という考え方を「場所」という概念に結びつけて論じています。

まず西田によれば我々の世界を構成する事物はもちろん、我々が生きている時間や空間も「有」です。つまり形あるもの、対象化できるもの、意識できるもの、これらはすべて「有」です。これに対して、形もなく、対象化もできず、意識もできないものが「無」です。そして西田の考え方は「有」であるすべてのものの根底に「無」を考える立場であり、その極限に想定されているのが「絶対無の場所」と呼ばれます。

* 述語の論理

ここで西田は「あらゆる物事は何らかの場所に於いてある」と考えます。ここでいう「場所」とは空間に位置を占める物理的な場所にとどまらず「AはB」であるといった判断が成立する論理的な場所、さらにそれら物理的な場所や論理的な場所を意識する際の意識という場所など、多様な意味を含んでいます。

この点、西田は物理的な場所に還元できない判断が成立する論理的な場所について「述語の論理」と呼ばれる判断の形式から説明します。つまり「SはPである」という判断においてS(主語)はP(述語)に対して特殊なものでありP(述語)はS(主語)に対して一般的といえます。つまり「SはPである」という判断はSという特殊なものがPという一般的なものによって包摂されることを意味しています。西田はこのような包摂判断において述語Pは主語Sがそこにおいて存在する「場所」という意味を持っています。

このような西田の「述語の論理」はアリストテレスによる「主語の論理」にヒントを得て考えられたものです。アリストテレスは「主語となって述語とならないもの」を「基体(個物)」と考え、述語は主語に所属する様々な性質として捉えらていました。これに対して西田はこのアリストテレスの発想を逆転させ「述語となって主語にならないもの」を考えたということです。

* 純粋経験から絶対無の場所へ

我々の思考内容は例えば「『◯◯』というのは私の意識である」というようにことごとく「私の意識」を述語として判断することができます。つまり「判断」という立場から「意識」を定義するなら、それはどこまでも「述語となって主語とならないもの」ということができます。

こうした意味で「『◯◯』というのは私の意識である」という「意識された意識」を「意識する意識」はどこまで行ってもたどり着くことができません。「「「『◯◯』というのは私の意識である」というのは私の意識である」というのは私の意識である・・・」というメタレベルの判断が無限に反復されるだけに過ぎません。そして、このような包摂判断における一般的方向、述語的方向をどこまでも押し進めていった先に想定される極限的なメタレベルである「述語となって主語にならないもの」こそが西田のいう「絶対無の場所」に他なりません。

西田はこのように「意識する意識」は「絶対無の場所」だといいます。つまりそれはどこまでも「有」として対象化することはできないものであるということです。このように西田が「純粋経験」の先に辿り着いた「絶対無の場所」は単なる思弁ではなく、さまざまな「判断」とはいつも「反省の中断」に過ぎないことを教えてくれます。換言するとさまざまな「判断」にはつねに「絶対無の場所」という名の他者性の泡立ちがあるということです。その意味で西田哲学からは正解なきポストモダンにおける倫理を読み出すことができるのではないでしょうか。








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