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センスとアンチセンス

* 世界と自由をつなぐものとしての「判断力=センス」

近代哲学を確立した18世紀の哲学者イマヌエル・カントは『純粋理性批判』において普遍的な自然法則に基づく世界のあり方を論じたのちに『実践理性批判』で普遍的な道徳法則に基づく自由のあり方を論じ、さらに『判断力批判』においてこうした世界と自由はどのように結びつくかを論じました。

ここでいう「判断力」とは個別的なものを普遍的なものと結びつけることをいいます。そして「あの花は向日葵である」というように普遍的なものが与えられている場合の判断力を「規定的判断力」といい、これに対して「あの花はきれい」というように普遍的なものが与えられていない場合の判断力を「反省的判断力」といいます。そしてカントによれば、このような「反省的判断力」における「美」や「崇高」の経験こそが世界と自由をつなぐ回路になるということです。

ところで、こうした「美」や「崇高」を見出す「(反省的)判断力」は一般的には「センス」とも呼ばれます。「センス」などというと一見してとらえどころのなく、努力ではどうしようもない部分のことを指しているようにも思われますが、千葉雅也氏は近著『センスの哲学』においてこうした「(反省的)判断力=センス」を努力では何ともならないものとは考えず、むしろ人を解放し、より自由にしてくれる可能性を開くものとして育てていくための方法を論じています。同書は一種の芸術論ですが、狭い意味での芸術だけを論じるのではなく、その狙いは芸術と生活とつなげる感覚を伝えることにあるといいます。

* 意味からリズムへ

まず同書は出発点として「センスが無自覚な状態」を想定します。ここでいう「センスが無自覚な状態」とは何かしらの理想的なモデルを設定し、その再現に無自覚的に失敗してしまっている状態を指しています。そこで同書はまず、このような理想的なモデルを再現するというゲームから降りることを提案します。これが「センスの目覚め」であると同書はいいます。

そして理想的なモデルを再現するゲームから降りるとは、モデルとしての対象を抽象化して扱うということであり、すなわち、それは対象から「意味」を抜き取ることでもあります。つまり対象の「意味」の手前で展開されている形状や運動といった様々な要素の「でこぼこ」としての「リズム」を即物的に捉えるということです。ここでいう「リズム」とは「強い/弱い」といったテンションのサーフィンとしての「強度」のことであり、同じような刺激が繰り返される「規則性」と、それが中断されたり、あるいは違うタイプの刺激が入ってくる「逸脱」からなる「反復と差異」の組み合わせで成り立っています。こうした意味での「リズム」から、さまざまなものごとを捉えていく感覚こそが「最小限のセンスの良さ」であると同書はいいます。

そしてこの「リズム」とは絶えず生成変化を続ける「うねり」として捉えられると同時に「1=存在」と「0=不在」が明滅する「ビート」としても捉えられます。この二つの捉え方は生成変化論と存在論という哲学の二つの立場に対応します。このように対象を「うねり(生成変化論)」と「ビート(存在論)」というダブルから感じるのが同書のいうリズム経験であるということです。

こうしたことから同書は作品における核心的なメッセージといった「大意味」ではなくその背後に騒めく様々な「小意味」のリズムのうねりに注目するモダニズム的な見方を提示し、さらに「意味」それ自体も「脱意味化」してしまい、ただの「でこぼこ=形」として捉えるフォーマリズム的な見方を導入します。

* 予測誤差の最小化

このように同書の議論によれば「センスの良さ=リズム感がいい」とは「でこぼこをどう並べるか」という問題となります。ここで同書は映画をモデルにこの問題を考えます。この点、映画論においてはひとつながりの映像を「ショット」といい、こうしたショットのつながりを「モンタージュ」といいます。自然な映画になるようにはっきりわかる意味を生み出そうと違和感のないようにモンタージュを組み立てるのが通常です。その一方でなぜこの次にこんなシーンが来るのかとすぐにはその意味がわからないような飛躍したモンタージュもあります。そこでは「つながり」よりも「切断」が重視されています。

このような「切断」が連続する展開は「0→1」という「予測」を裏切る「予測誤差」を生み出します。この点、イギリスのカール・フリンストンらは生物のいろんな機能は「予測誤差を最小化する」という原理で説明できるという「自由エネルギー原理」と呼ばれる理論を提唱しました。すなわち、この「予測誤差を最小化する」という原理からいえば、人はバラバラに見える並びにも何らかの意味あるいは物語を見出そうとします。

つまり人間は予測通りという「快」を求めるというのがベースにあり、ある反復の後に差異がくるという「不快」の経験を習慣化=リズム化しようとします。しかしながら、その一方で本来「不快」なはずのものである予測誤差それ自体にある種の快を見出すことがしばしあります。こうした人間の一見矛盾する行動原理を精神分析の始祖ジークムント・フロイトは「死の欲動」という概念によって理論化し、予測誤差がもたらす「不快かつ快」といった状態をフランスの精神分析家ジャック・ラカンは単純な「快楽」と区別して「享楽」と呼びました。

このような意味で「リズム=でこぼこ」はどのように並べてもひとまずは何らかの形でつながりうるといえます。こうしたことから同書は「どのように並べてもいい」という最大限の広さから面白い並びにするために「制約をかけていく」という方向で「でこぼこをどう並べるか」という問題を考えます。

* 美と崇高のリズム

ここまで見たように「センスが良い=リズム感がいい」とは基本的には反復(規則)に対して差異(逸脱)が適度なばらつきで起きる状態をいいます。すなわち、完全に規則的ではないし、まったくランダムでもないというバランスがおおよそ「美」と呼ばれるものです。古い美学理論で「美」は「調和」という言葉と結び付けられますが、それは反復と差異の調和であるといえるでしょう。

この点、カントは『判断力批判』において自由に戯れるように事物が把握されることを「美」だと考えました。すなわち、完璧な円や正方形といった規則的なものではなく、そこから逸脱する「戯れ」こそに「美」があるというのがカントの見方です。そして、このような「美」を逸脱するようなスケールや威力を感じさせるものが「崇高」と呼ばれます。

一般的に「センスが良い」というのはカント的な「美」の意味合いで言われることが多いでしょう。その場合、反復と差異の調和が想定されています。しかし現代においてはこうしたバランスの「崩れ」がより芸術的だと見做されることがあります。つまり差異が生じる予測誤差がほどほどの範囲に収まっていると「美」的になり、その予測誤差が大きく、もはやどうなるかわからないという偶然性が強まっていくと「崇高」的になるということです。

こうしたことから「センス」を育てていく上では、このような偶然性に開かれる練習が必要となってくると同書はいいます。すなわち、それは目指すべきモデルへの「足りなさ」をベースに考えるのではなく、モデルに対する「余り」をベースに考えてみるということです。

そして、このようなリズムの溢れを仮固定的に限定し、ひとつの「有限性」として提示することが作品を創るということです。その意味で様々な芸術に触れるということは、ものを限定するやり方には色々あるという「有限性の多様性」に触れるということです。

* センスとアンチセンス

このように同書は意味や目的から離れてものごとをそれ自体を形として、リズムとして楽しむということを様々な角度から説いています。では芸術においては広い意味での形、つまりリズムによって何が表現されているのでしょうか。もちろん芸術には何か伝えたいメッセージが含まれています。けれども同時にそれだけではなく、芸術が人を捉え、深く思考させるのは「メッセージ=問題の解決」だけではなく「問題」そのものの複雑さ、執拗さを表現しているからであると同書はいいます。

このような「問題」は作品において繰り返し浮上してくるもの、反復するものであり、むしろ意味や目的から距離をとり、ただそこで展開しているリズムを見ていく方が、そこで描かれている「問題」が浮かび上がってきやすくなります。

そして、このような「問題」の表現の仕方に特異的な反復が宿っています。問題が変形されていろんな形に変装されていくということ。そこでは何かが繰り返されて、それが色々な差異によって表現されているということです。この意味で芸術とは作り手の抱える特異的な「どうしようもなさ」を表現するものであり、そこから何らかの必然的な反復が生じてくるということです。

つまり「センスの良さ」とは一方には「反復と差異」のバランスがありますが、他方では何かにこだわって繰り返してしまう特異的な「どうしようもなさ」が重要なファクターとしてあるということです。このようなものを同書は時として「センスの良さ」を台無しにしてしまう「アンチセンス」と呼びます。けれどもセンスとはアンチセンスという陰影を帯びてこそ、真にセンスとなるのではないかと千葉氏はいいます。そして、それは芸術のあり方のみならず、世界そのもののあり方、日常そのもののあり方であるともいえるでしょう。

すなわち、芸術においてこの世界のあり方が一つの「問題」として描き出されているのであれば、我々の生きる日常においても常にこの世界は「問題」として提示され続けているといえます。そうであれば「センス」とは、こうした世界のあり方としての「問題」を複雑な「リズム」として聞き取り、 それぞれの仕方での特異的な「有限性」へと至る日常のあり方を切り開くための力であるといえるのではないでしょうか。









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