4月6日 殺陣を学ぶ理由

殺陣を好きでやってるかって言われたらわからないのです。私には殺陣しかないわけではたぶんないけど、殺陣を選んでいる理由って正直わからない。ので、少しだけ考えてみました。

変態クラスに参加させて頂いて、本当に皆さん変態なんだな、殺陣を愛していらっしゃるんだなと思いました。皆さんの技術への追及心、表現への情熱に圧倒され、それと同時に私の、殺陣そのものに対する興味が、変態と呼べるほど濃厚でないことが浮き彫りになり悲痛に感じました。だからもっと考えなきゃ。私の理由を。向かう先を。私も皆さんと一緒に稽古したいのだ。変態になりたいの。

私は戦闘力を上げたいわけでも、戦うのが好きなわけでもないです。むしろ、争いは嫌い。スポ根も理解しがたい。競争心もない。
どうして殺陣が上手くなりたいのかわからない。教えてくださる師匠や先輩方へ恩返ししたいというのはあるが、それは最終目的じゃないのだろう。(関わってきた大好きなみんなへの恩返しは一生のテーマではあるけど、今考えている殺陣に関しての最終目的ではないかなと思います。)
好きを貫いている人に憧れを抱くのは、自分が別物であると認識するのと同じだと思うのです。

殺陣向いてないんじゃないかと思うこの性格が、なにを求めて殺陣をしているのかを考えて、浮かび上がるのは高校生のときに没頭した宮沢賢治の存在でした。

自己承認力が極端に弱くて、自信がない私にとって自己犠牲はいつも絶対的に正しく思えた。
カンパネルラやグスコーブドリの様に、誰かの為に生き死にをしたいという欲求が常にある。常に自分のクズさ加減に絶望しているので、せめて誰かの役に立ちたいと思っている。聞こえは良いけど正解を他人に委ねているだけな気もするのでやっぱりクズだ。自分が出した答えに疑いしかない。

「誰だって、ほんとうにいいことをしたら一番幸せ」
カンパネルラのこの言葉が私や私の大好きなみんなを幸せにしてくれると信じてる。
私の命に価値をもたらすのは誰かの幸福であってほしい。私は技術や人格や容姿で誰かを幸せにする自信はない。だったら命を、ほんとうにいいことに使いたい。そういう欲望は誰しもが持っているんだと思う。
でも、ほんとうにいいことってなんでしょうか?
生きるのに必死でほんとうにいいことについて考える余裕がないです。
きっと、生活の中にほんとうにいいことって存在しないのではないか。不確かな情報や妄想の中で、「ほんとう」とそうでないものを区別するのはあまりにリスキーだ。みんな誰かを傷つけるのが怖くて、目を伏せながら生きてる。
そもそも、生活の中でも自分以外の誰かの為に命を使うって矛盾ですよね。

私にとって殺陣ってその欲求を満たすエンタメなんだ。
殺陣という、とてつもなくわかりやすい命のやり取りがカタルシスを生んで、死にたい欲求、生きたい欲求を満たしているんだな。
殺陣はお芝居だから疑わなくていいし、舞台上では私は私じゃないから信じ続けることも愛し続けることもできてしまう。お芝居では生活をしなくて済む。

もし、需要があるなら、私はみんなのそんな思いを解放するために殺陣を、演劇を学びたい。それが、私にできるほんとうにいいことと信じたい。

今、芸術の価値が試されている。
だから今、もっともっと考えて、命を大切にするってなにか、生きるってなにか、死ぬってなにかの答えを探さなくちゃな。