大学生への食糧支援で暗澹たる気持ちになった。
仕送りなどが滞り困窮した学生のために、筑波大学が社会に食料の提供を求めたら大量に集まり、それを求めて四千人の学生が列をなしたということが話題になった。私はそれを報道で知って、戸惑いを覚えた。
あらかじめ断るが、私は大学の職員が、学生の窮状を聞き、支援したいという善意は本物だと思う。また。コロナで従来とは違い、アルバイトもできない状況というのがあるのかもしれない。だから結果的には仕方のないことで批判できることではない。しかし、それでもそれでいいとは決して思えない。例えば、同年代には、アルバイトはおろか職場を失った若者もいる。しかし、彼らには社会的な支援はない。大学に行っていれば、大学が食料を集めて来てくれる。不公平感を覚える者もいるだろう。
私たちの学生時代もオイルショック後の不況のため、自分も含め多くの学生が困窮していた。しかし、大学が食料支援をすることなどなかったし、学生がそれを求めることもなかった。不況はその後もいくつかあったが、こんなことは今日までなかったのだ。どうしてもなぜなのかという思いがする。
そもそも大学の学生支援は教育への支援であり、そのため学生への支援は、奨学金や授業料の減免などで行われてきた。それを大学だけでできないから、社会に支援を求めるというのが違和感を感じた第一の理由だ。この食料配布には約四千人が並び、三千人が受け取ったという。並んだ者の中には、たくさん得ようとしてか、スーツケースを持って来た者もいるという。もらえなかった者もいる。この食料支援は、限定的な効果しかない。継続してできることではない。しかし、この報道で何か解決したかのように社会が錯覚すると危ない。
私が違和感を感じる最大の理由はこの状況に対する政府の無慈悲である。学生の窮状を見ていれば、学生への緊急支援は絶対必要だ。しかし、コロナ対策に対してブレーキとなりかねない旅行支援や、企業への支援ばかりが手厚い。それに比べて、学生への支援は話題にもならず、あまりに乏しい。それを補うために民間の寄付に頼るというのは、無慈悲なことと思う。日頃、日本は資源がなく、人材こそ宝ということが言われるが、OECDの報告にあるように、公的教育費は先進国では最低であり、大学の研究レベルは低落しており、ノーベル受賞者の重要な仕事は寄付集めという。
今の日本では、教育の足りない費用は学費の増額など、家計からの支出に頼っている。かつて私が大学に入学した時の国立大学の学費は3万円あまりだが、今は53万円あまり。物価上昇率を考慮しても異常な上昇である。その学費を支出する家計が傾けば、学生が窮乏するのは当然だ。問題の根源は公的教育費の少なさなのだ。
そもそもその構造ゆえ、大学進学率も今やOECD各国の平均を下回っている。東京のような裕福な地域だけ見ていると見逃すが、日本の教育の劣化は多くの人が思っている以上に進んである。こうした不況になると、その教育基盤の脆弱さがもろに出てくる。
私は、私費を投じて日常からNPOで学生支援を行っている。しかし生活の支援はしない。アルバイトの場を提供したり、就職活動の支援をしたり、自立への支援が主だ。それは私が教育者として、教育の目的が個人の社会的自立にあると、考えているからだ。生活支援は福祉の問題であり、教育とは重なりあうが、やはり別の次元の課題と考えるからだ。
今、筑波大学の学生がやるべきは、この人類の困難克服のため、研究や学習に没頭することである。それが社会の期待するところであり、責務でもある。そして政府はそれができるよう万全の体制を作らないといけない。それなのに、そうしたことは議論にもならず、学生は食料を求めて列に並ぶ。その風景を見て、いたたまれなくなった。かつて日本は一億総中流と言われたが今は一億総下流に向かって一直線だ。
学生ももう子どもではない。全員が主権者で納税もしている。選挙権もある。自立したひとりの国民だ。政府に堂々と学問に没頭できる環境を作れと要求することもできる。
普段なら、予算がないと言い逃れされてしまうが、今は百兆、二百兆と大盤振る舞いだ。しかし、国会でクローズアップされるのは、GOTO問題などばかりで、教育や未来への投資は見かけない、そこにいらだちを感じてる。
ある観光都市に出かけた時、タクシーの運転手に大変でしょうというと、意外に郊外の高級旅館がGOTO効果で連日満員でほくほくだと。しかし、いくら安いと言っても、自分には高額。地方に行く気にはならないと。
また自営業者もたいへんとは言いながらも、格安の金融支援で高級車が買えたという話も聞く。
こうした中での、筑波大学生の食べ物を求める列。賛成の人もいていいと思うが、私はそういう気持ちになれない。
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