アンバランスでも、ギリギリの品の良さ
この数日、また、心がある人物に引っ張られている。今度は、その原因が分かっているから幾分、気は楽である。それは利休七哲の一人、古田織部である。しかも、彼は利休と同じような運命を辿って、徳川家康によって切腹させられている。
織部は、師である利休から
「人と違うことをせよ」
との教えを受けていた。
そんな彼は博多の豪商、神屋宗湛を招いた茶会で自分が考案した「ひずんだ形の茶碗」を使った。それを見た宗湛をして「へうげもん」と言わしめたという。
織部の茶の湯は利休とは違い「既成の権威を認めず、自由な創造性」に富んでいた。ことに、当時流行したカブキの精神、まともならざる異風異体なるものへの興味が、彼の茶の中に貫かれていたようだ。こうして、利休の静謐とは対照的な動的な「破調の美」の道具を用い、将軍・大名の茶の湯の様式を確立していく。
茶碗の「いびつな形」は、神主が履く履物に似ていることから、「沓(くつ)茶碗」と言われた。しかし、それらが人々に受け入れられていったのは、「アンバランスでありながらも、ギリギリのところで品の良さを保っていたからだ」との評価があるが、私もその様に思う。
その流れは古田織部、上田宗箇、そして、小堀遠州の「綺麗さび」へと変遷していく。
旅は、まだ始まったばかりだ……。(※写真はイメージです)
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