茶室で思う「幸福」の、私のルーツ―㊲
先日、茶道の美人のおっしょさんに「茶室にいる時間に、一番の幸せを感じています」と、ついに告白してしまった。しかも、こっぴどく、おっしょさんにイジられて問い詰められたときの言い訳として、つい、言葉に詰まって言ってしまった。
以来、どうして私は茶室にいると「幸福」と感じるのか、その意味の詮索が頭の片隅の作業として続けられている。意識するとしないとに関わらず。
私の目の瞳の色は、茶色がかっている。これは父の母、つまり私の父方の祖母の瞳と同じ色である。幼いころから「不思議な目の色だ」と思い続けていた。いま、この年になって鏡を見るたびに、その祖母の瞳を思い出す。私にとって祖母の記憶は、嫁姑の争いを身近に見て来ているため、素直に思考回路を起動させることができない。何らかのバイアスがかかって蘇ってくる。その分を引いてみても、最近ある思いに至った。それは、祖母の面影を、茶道の美人のおっしょさんに感じている、と言うことである。立ち居振る舞い、怒り方、歩き方、話し方。それらを意識して比較してみると、父方の祖母に似ていることに気付いた。
そう思って祖母に関する少ない記憶の底に残る情報をかき集めてみると、江戸時代初期の金沢の茶道の世界につながっているように思えてならなくなってきた。
幼い頃からずっと私のことを可愛がってくれた叔父がいた。父のすぐ下の弟である。そのおじさんが、「ばあさんの先祖は提灯屋だった」と言っていたことを思い出した。金沢の街をほっつき歩いていて、古びた提灯屋を目にしたことがある。さらに、その提灯屋は能登の絵師、長谷川等伯とも関わりのある本阿弥光悦が金沢にいた時に世話になっていた家の近所だった。金沢の古地図を見る限りであるが。もう一つ、本阿弥光悦が金沢にいたころ、棗や漆器を作っていた「金沢漆器」の祖と言われている人物と同じ苗字であることが分かった。
重ねてもう一つ、自分の田舎の親戚に茶道家がいた記憶がある。親戚の家では時折、七輪のような小さな窯で茶碗を焼いていた。私の田舎の能登の町では、戦国時代前後、茶道が、やはり盛んだったと、市の歴史の資料には残されていた。
だからと言ってどうということでもないと思う。多くの日本人には似たような茶道にまつわる記憶があると思う。
私の場合、すべては「能登の偉人」を調べて小説を書き始めたことから始まっている。古い能登の人間と、今を生きる自分とがつながっていると実感する。それらによって、ほんのりとした温もりに身体が包まれていく自分を、感じる。
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