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わびてはありあわせなれども…

わびてはありあわせなれども にげなきものは、ださぬがよきなり 

 利休が大坂から京に上る途中、ある侘茶人がいることを思い出し、夜更けにも関わらず、その者を訪ねた。亭主は喜んで利休を迎え入れてくれた。そして亭主は家人と二人で暗い庭に出て、行燈の明かりを頼りにゆずをとり、茶の湯の料理にゆず味噌を作ってくれた。さらに、ふっくらとしたかまぼこも出してきて、

「これは大坂より取り寄せた物です」

 と、言い添えた。それを聞いた利休は、『さては、私が来ることを知っていて、準備をしておきながら、ありあわせを装ったな』と気付き、酒の途中なのに、急ぎの用事があると言って強引に出発した。

 ありあわせを楽しんでいたのに、興醒めであると利休は趣を削がれ、気分を害してしまった。

『やはり、いくら前もって準備してあったと言っても、その場に合わないものを出すと興醒めである』

 そう利休は言うけれども、前もって利休がやって来ると言う情報を入手し、さらにわざわざ大坂から美味しいかまぼこを取り寄せて準備していた亭主の労力を、利休はなんとも感じなかったのだろうか。ましてや、利休が確実に立ち寄ると言う確証がないのにである。利休は、ただの我儘?

 台天目にまつわる、こんな話がある。桜の御所と言われる近衛信尋公が、千宗旦の四畳半の小座敷の茶室に招かれた。宗旦はごく普通に茶を点てて、茶碗を出した。すると、近衛公が、宗旦に尋ねた。

「宗旦殿。台天目(台に乗せた天目茶碗)は、どんな人にお茶を出す時に使うのかね?」

 と尋ねられた宗旦は、

「信尋公のような貴人に差し上げる時です。けれども、このような小さな庵を面白く思われ、無理にお出でいただいたからには、わざと普通の人のように、おもてなしをいたしました。それに昔は長押に張り付け壁の書院風の四畳半に台子を飾って茶湯をしましたが、利休は数寄道の本意は詫びにあると堅く思い、竹の垂木、さび壁のような住まいに造り替えたので、このような小座敷に台子は取り合いません。書院に台子が飾ってありますので、後ほどそちらへお移りただければ、台天目でお茶を差し上げましょう」

 と申し上げたとか。近衛公はもっともなことだと思われ、機嫌良くお茶を飲まれて帰られたという。

 いくら貴人と言われても、その場に合わせたお道具でもてなされることを理解しないと、かえって失礼になることの例えか。実るほどに頭を垂れる稲穂かな。まずは、数寄と言われても謙虚が肝心かも。

 どうも近頃、回をおうごとに内容が複雑になってきて、自分でも何が言いたいのかわからなくなってきた。これは悪い傾向にある。やはり一旦、街ネタに戻ったほうがよろしいかも。自作、「トキアンナイト」のような街で拾った男女の小ネタに。でも、周りの女性カメラマンに、男女の話を聞き出そうとすると、「セクハラだ!」を怒りを買いそうだし。何か策を講じないと、このままでは行き詰ってしまいそう。

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カゲロウノヨル
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