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願わくは 花の下にて春死なん…

 茶道のお稽古では、道具拝見の後の問答の「茶杓」の「銘」は「自分で考える」。そうなっているのが茶道教室の定番のようだ。しかも「薄茶」は「季語」を使い、「濃茶」では「和歌」や「禅語」と言うことになっている。
 こんなしきたりがあるなんて分かったのは、教えられてではなくて、姉弟子たちのお稽古を見ていて気付いた。それをアシスタントの方に、
「茶杓の銘って、自分で考えるんですか」
「そうです」
 と。そんな話、『聞いてないよ』状態だった。
 どうも、茶道というのは「教わる」のではなくて、「見て覚える」もののようだ。そう言われれば、初めての時も、
「前の人の動きを見て、その通りにすれば大丈夫だから」
 と、初日を終えたような気がする。それがずっと続いているような。
 時には、お点前の所作の「ダメ出し」は「そこは右端から」とか「そこはもっと端を持って」とか。どさくさに紛れて「左足をかけて」とか。『かけるってなに?』とかetc…、etc…、とあるけれど。
 ということで次の『迷宮の扉』は、「茶杓の銘」。
 それで「季語」を調べて、それから「和歌」って、どうするの? 季語から取るのはわかるとしても、「和歌」から取るって、どこをどう切り取ればいいのか、全く想像がつかない。
 前回は「朧月の夜」で「薄茶」の「茶杓の銘」の初回は、なんとか切り抜けたけど。次回は、今から「玉椿」を使おうと考えている。
 ただ、和歌は、どう使っていいのか今から不安でいっぱいだ。
「源氏物語」の「花宴」は、偶然たどり着けたけど……。
 近頃、時々だが、「古今和歌集」を通勤や帰宅の地下鉄の中で見ている。これも「濃茶」のお稽古に入ったら、役に立つ日が来るのだろうか。「古今和歌集」は、時代小説家の葉室麟の小説で「命なりけり」という小説のタイトルが、「古今和歌集」の句が出典だということを知って興味を持った。

春ごとに 花のさかりはありなめど あひ見む事は いのちなりけり
                         

 葉室麟の小説の中で、妻が夫に送った「古今和歌集」の「読み人知らず」の句。それに対して、夫が「さくら」という名の妻に返した句は「西行法師の有名な続古今和歌集の桜句」である。

願はくは 花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ / 西行法師
                        
『迷宮の扉』をまた一つ、開いてしまったようだ。

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カゲロウノヨル
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