少女の所作に、不覚にも落涙
茶人が剣豪に剣を習いに行った時の話しを以前、書いたことがある。剣豪は茶人が着ていた羽織を畳んで準備する動作を見て、立ち会う前に言った。
「あなたには、お教えする事は何もありません。あなたは、どなたかに剣を習ったことがありますか?」
茶人は訝しげな顔をして答えた。
「いいえ。剣はどなたにも習った事はありません。習ったと言えば、茶道ぐらいでございます」
「それです。あなたの身のこなしには無駄な動きがなく、一部の隙もありません。あなたには、私がお教えする事は何もありません。既にあなたは達人の域に達しています」
そう言われた茶人は、剣豪の屋敷を辞した。
信じられない話しだが、私はお稽古のお茶室で、そんなことを強く感じる場面に遭遇した。
小学校低学年と思われる少女が、客としてお茶をいただいていた。その一連の所作を見ているうちに、不覚にも私は涙していた。その訳は自分でもよく分からなかった。お稽古を終えて帰り道の首都高速を走りながら、あれこれと少女の所作を思い返してみた。念のために言っておくが、私はロリコンでは無い。
何度も少女の所作を思い返しながら、いくつかの点に気付いた。
彼女の動きには、ためらいがない。素直に動いている。無駄な動きがない。たとえ間違えていたとしても、当然の様に手が動いている。間違いを指摘されてやり直した時も、なんの躊躇いも感じないほど、素直に動いている。
要するに、教える人に全幅の信頼を寄せて、髪の毛ほどの疑いも持たずに無心で手を動かしている。そのことから、ある種の人を信じるということの心地よい波動が、周囲の人に伝わったのだろうと思う。その波動に私は満たされて、えも言えぬ心地よさに包まれていたのだろう。出会おうと願っても出会うことのできない無心の心地よさに、私は自然と涙したのだと思われる。
無心のお点前は人に感動を与える。確かに、あると思います。