戒律と善悪

戒律
 戒 いましめ
 律 りっする
律令政治というように今でも大切な規則など戒めや自分を律するなど言葉が伝わっています。
『菩薩戒経』というお経があり何が善で何が悪か、何が修行で何が怠惰かの基準とも言えます。

恥ずかしながら北塔先生の書を1ページ開いてすぐ閉じてしまいました。

なぜこのように戒律をお話するかといいますと、人生自由に生きてきたからいいじゃないか、自分なりに良かったからいいだろうとか、一生懸命生きましたからいいところへ行きました、等々、その席では怖くて言えませんが本当のところどうなのかといつもモヤモヤしつつ誤魔化さないと過ごせない社会人であり、少々不甲斐なく歯がゆく悔しく情けなくも思うところがあるからです。

浄土教の有り難さは、如来による善悪をよく知ったうえで修行、となった時点でもう溢れているもの、私自身が救済対象だからです。

無智が智慧慈悲から方便般若によって救われます。

いいところに生まれるように徳を積んでいる人はまだいいのです。悪道へおもむいて反省のない人の最後の多くは孤独と破滅です。力とお金と権力を持った者はそのまま長生きしますが、そのもの自身は疑心暗鬼の中、純真無垢を捨ててどこへ行くのかは想像するくらいですが、少なくとも平等でないものは平等でないことが当たり前の世界を望み業をなしていったのかも知れません。

若い時から仏法をたしなめ、と『御一代記聞書』にありますが、学生期によく勉強しておくと後々思い出したり、知識も力も無くしても習慣は残る気がします。

どういう人生を歩むべきか、どう生きたらいいのか、結構お経で伝わっているのかも知れません。

善悪も家ごと職場ごと国ごとに変わります。個人個人でもこだわりがあります。

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