絶対的幸福と相対的幸福と諸行無常 5
諸行無常 諸法無我 涅槃寂静
幸福とは何か。幸と福で幸せだったりするものでしょうが、足元がお留守で視野を狭められると危ないです。何も何でもかんでも不幸じゃないでしょうが、書いていてカルト教団や詐欺師の反省のなさや無責任さを思い出すと天誅人誅したほうが早いのではないかと思ってしまいます。
煩悩具足の凡夫に幸せなら有限の心身で幸か不幸か感じるところです。感じる、というように境涯だったり環境によって人格によって様々だということです。全く同じ幸福か不幸か推察や人生経験上で語るだけで本人の痛みは本人にしか分かりません。
この境界線を踏んだり踏み越えて無遠慮なものを何と言うか。境界性パーソナリティ障害と言うそうです。宗教しかしないと騙し騙されることは終わらないかもしれないのは多角的視野でもって自分の立ち位置や現状把握を客観的に俯瞰してみられることにより分かるかもしれません。
難しい言葉でよく分かりませんが、幸福って誰が決めてるんでしょう。また誰が感じるものでしょうか。さらにそれは祖師聖人方はどうおっしゃってるでしょうか。語句は正確でしょうか。仏教の成仏をそう表すのに適切でしょうか。果してそれは悟りでしょうか。それで悟る保証は菩薩方は仰ってるのでしょうか。
そうなってきますと随分色々な要素で幸か不幸かがあるように思いますし、たった一つのことで全て幸福に塗り替わるかのように思うのは、まだまだ人生生きておられないのではないでしょうか。若いと言いましょうか、人生経験が足りなさすぎると言いましょうか。
一足飛びに幸福自体何物か、と考えますと煩悩のものが幸福を感じるのは煩悩の対象でしかないのがほとんどでしょう。そうではないんだ、それは相対なんだ、絶対崩れない絶対失わない幸福があるんだ、と言われても感じる心は絶対か??
そうなのです。そもそも心が幸福を‘感じる’というものですので、心がうつらうつらしたりふらふらしたりしてはどれだけの幸福が来ようと持ちきれるものではありません。幸福というものも幸福を感じるものも諸行無常です。諸行無常のものが諸行無常のものを絶対的と言う滑稽さよ。
一番頭に書かせてもらった 諸行無常 諸法無我 涅槃寂静 これが真理です。諸法無我ではないからわがままが出て、他者とのわがままとぶつかったりしているのであり、縁起に依って起こるものであり縁起に依って滅びるものであります。ですから仏を別名、無我また無我執とも呼ばれ、無我所執とも呼ばれるのであり、されば煩悩から解放され涅槃の境地、いつも平穏な境地と習うところです。
ですので変な話ですが絶対的幸福とは絶対的相対的幸福であったり絶対的縁起に依って消滅する煩悩幸福とも言ってしまうのではないでしょうか。めちゃくちゃな論理をめちゃくちゃに辿れることを誇ってもしようがありません。
そうじゃないんだと若い頃の私は机を叩いて言いそうです。ですが不幸になってガラスの向こうから同じ立場のはずなのに、同じ人間のはずなのに、家族で美味しそうな定食やランチを楽しむ姿を見、かたや自分の財布には百円にも満たずカップ麺も買えずジュースも買えない、一人で生き死んでいくに当たって何が幸せで何が絶対的かと思うのであります。
さらに思いますと、子供のころは世界人口は四十億とも五十億とも言われてましたが今や八十億を越えています。その八十億人の食事や家具や生活用品やら嗜好品まで考えますと想像を超えてしまいますが、一日の食事は単純計算で240億食でしょうか。一日三食まともに食べられたらですが、その食事となった動植物の気持ちは幸福なのでしょうか。
伊藤康善先生は創価学会や新興宗教はタケノコのようにはえてきよる、しかし欲深いから騙されると仰ったようです。
ご縁に依って生きご縁に依って滅する理を忘れ、幸せになりたいがために自己の願望や理念を教団の願望と理念に置き換え、理論武装をし勧誘と財施と選挙に走り回るのが幸せへの道と頑張った先に何があるでしょう。倒れる。それだけではないでしょうか。
十年ほど前にギックリ腰になったことがあります。イモムシと変わりませんでした。一生懸命生きた、やってきたはず、なのに親は口だけ、しかも痛い痛いと煩いと言う。ただ一人で何を学んできたのか何を知ってきたのか何を経験してきたのか、どうでもよくてただ這いずり回り痛い痛いと言うだけでした。誰も代わってくれません。親でさえ。それを赤の他人のお金を積んだら救いのところまで行けるよ、というものがいたらもしかしたらすがったかもしれませんが、今は腰に爆弾を抱えつつも生きております。
大衆迎合も愚かですが衆愚政治も愚かです。集団狂気は一人になって静かに鑑みないと分からないものでしょう。集団心理に酔っている間は気づかないでしょう。
絶対的幸福の正体は詭弁家の詐称です。
そう思っていてもついついスピリチュアルは口のうまいのいますね。こういうものだこういう文化があるだの、ついそうかなと思った時がありましたが、すぐ別の意見でそんなものはないということで回避されました。
騙されるというのは、何か有益なものはないだろうか、何か儲け話はないだろうか、何か改めて人生を明るく生きられはしないか、そういう普通にある感性に接触されて、無いものや嘘に騙されるということかと思います。騙すやつが悪いのは当然ですが、自分は絶対大丈夫だ、という人すら崩すマニュアルが旧統一教会等々あるようです。
ウイルスとワクチンが喩えやすいかと思います。風邪にしてもコロナやインフルエンザはワクチンを打てばその季節は大丈夫となりやすいです。あらかじめその病気特有のワクチンがあれば事前に打っておけばいざというときかかっても軽度で済むのではないでしょうか。
なおかつお経の原典に当たり読経、読誦という読み諳んじ意味も信心も明らかになっていれば光と仏のお名前に依って間違いが知らされつつお救いも知らされるのではないでしょうか。