無気力と消費と天皇と愛
無気力。僕という人間を何か一言で言うならそれ以外ない。やりたいことがないではないが、手をつけてみてもめんどくさくてすぐやめる。こういう性格になったのは何故かとか論じてみようかとも思ったがそれもめんどくせー。そもそもこんな文章書くこと自体めんどくせー。じゃあなんで書いてるかというと他に書くことがないからだ。
こんな無気力な僕ではあるが唯一の救いであるのが、好奇心が旺盛なことだろう。僕はほとんど常に何かに関心を示している。その関心は大抵一週間程度で移り変わり数年して一周したりする。そうやってすぐに関心が移り変わるから一つのことをずっと続けるということができない。まあやはり常に無気力だ。
だけども、好奇心旺盛な僕であるが、何にも関心の対象がなくなることがたまにある。今なんかがまさにそうだ。それで書くことがない。とりあえず今かろうじて出来そうなことというのが、こうやって意味のない自分語りをすることぐらいなのだ。
とはいえ、無気力は無気力なわけでこれ以上書くこともないし、話題をちょっと自分以外へと移してみよう。例えばTwitter。Twitterを見ているといろんな人間がいるが、大多数の人間というのはどうやら無気力なようだ。ただ娯楽を摂取して、消化したクソをツイートとして排泄する。そんな繰り返しで生きている人間である。そういう人間は一定の趣味を持たなかったりして、ミームを消費してるだけだったりする。この手の人間というのはTwitterより他のSNSに多いのかもしれないが、僕はその辺よくわからない。まあTwitterに多いタイプは決まった定型句しか言えないタイプの人間だろう。「ネタ」というのを消費して何かを言ったつもりになっている。だがまあ、バタイユ的に考えたら消費の方が生産より重要なわけで、消費を蔑むのはおかしな話なのであるが、こうも無気力な消費というのは生の充実感も何もない。情報化社会なんていうのは大量生産大量消費なんかよりもっと酷くて、僕らから消費の喜びを奪うどころか、消費することに疲れを感じるようにしてしまったのではないか。何でもかんでもスマホの中で完結したんじゃあ、僕らの身体は死んでいくだけだ。そのうちセックスさえスマホで済ませてしまいそうだ。
こういう無気力さというのを見ているとマーク・フィッシャーの言う再起的無能感とか言うのを思い出したりする。(めんどくさいので、マーク・フィッシャーの本―例えば『資本主義リアリズム』とかーを参照したりはしない。僕も今無気力なのだ)僕達はこの日常を覆すオルタナティブを見ることが出来ずに、ただひたすらなにも変わらない日常を消費しながら生きていくことしかできない。何か新しいものを作ってみたり、知識をアップデートして新しい見方を得たりとか、そういうことをする気にさえならない。
僕の無気力というのも現代の病みたいなものなのかどうかはわからないが、まあ僕が現代的な人間であることは確かだろう。失われた十年とか言われ、共産主義のロマンもとっくに潰えた世紀末に生まれた僕にははなから将来というものに大した希望なんて見てはいないし、ポストモダンの後に生まれたのだから、崇高なものも普遍性も信じちゃいない。確か、講談社メチエから出ている『新しい哲学の教科書』で現代人の気分のことをニヒリズムではなくメランコリーであると書かれていたがまさにそうだろう。僕達には批判すべき崇高さも普遍性も残されてはいない。
そうえば、話は変わるが、一応左派を自認している僕ではあるが、実は今まで覚えてる限りでは天皇制を否定したことがない。とはいえ、これは必ずしも天皇を尊重しているからではない。むしろ否定なんかよりよほど冷淡な仕方である。僕は今の天皇制というものを批判するにさえ値しないものだと思っている。(いや、過去形の方がいいかもしれないが)現在の天皇というのが戦前や戦後に持っていたほどの権威を持っているかどうかは疑わしい。だからあえて否定もしなかったのだ。日本人は割りかし簡単に「崇高さ」というものを手に入れることができるはずなのだ。本当は。もちろん、そこにはアブナさがあるわけだけども。
しかし、この間僕は崇高に近いものを少し感じたかもしれない。それは上皇が御所に来たときだったと思う。友達の知人がその時日の丸をもらってきて、それを友達が譲り受けた。その日の丸をどのようにするか特に考えもなかった僕らはそれをビリビリに引き裂いたのだ。その時一緒にいた他の二人がどう感じたかは知らないが、僕には少なからず「背徳の喜び」があった。これは日の丸というものになんの敬意も払っていないのであれば決して現れる感情ではないだろう。特にこの日の丸は上皇の御幸(御所に来るのだから御幸というのもおかしいが今のお住まいは皇居なのだから御幸だろう)の時に配られたものであるのだから天皇というものを意識しないではいられないのだ。つまり僕は天皇への冒涜を犯し喜びを得たとき、天皇の崇高さを感じたことになるのである。サドが神を冒涜したのと同じようなことだ。
まあとはいえもちろん、天皇に普遍性を持たせるというのは難しいし、かなりアブナイので積極的に天皇制を支持する気にはならないのだか。それに、天皇を崇拝したとして、本当にそれだけで僕らの無気力さが消えるのだろうか。まあ、ネトウヨを見ているにその場しのぎにはなりそうだが、そのアブナさがもろに出てしまっている。天皇崇拝というのは結構色んな政治思想と組み合わせても大丈夫なようで、今は新自由主義とかが天皇崇拝の仮面を被っているように見える。かなりの奇形に見えるが。
えっと、確か僕の無気力さの話から始まったはずなので、話をもとに戻そう。こうやって筆をとってみるとなにか書くことを見つけたりするのだが、それと無気力さは別問題らしいことが分かってきた。というのも結局今も無気力だからだ。やはり何か崇高さが必要なのだろう。例えば、こうやって文章を書いてるだけだとしても、作家になって名前を残すなんていう夢があったとしたら、書くという行為は全く違った意味を持つだろう。だが僕らは「名前を残してなにになる?」と問わなければならない。このように問うとき僕らはニヒリストであり、そもそも夢を持たないとき僕らはメランコリストである。思考停止以外では今のところ我々はこの二択だ。新しい哲学に期待しよう。その他崇高さでいうと愛なんかがオススメだ。思考停止をもたらしてくれる。
こんな風に愛についても冷笑的に書いてみたが、まあおそらく愛というのは思考停止ではないだろう。愛というのは普遍性は持ち得ないが崇高さを持つ。それは二者の間に成立する社会の中においてのみ存在する崇高さだ。周りからは盲目だったり思考停止に見えたとしてもそれは二者の社会の外側からそれを見ているから二者の社会のルールを理解できてないだけだ。とはいえ、人間の場合、二者の社会もその外の社会の中にあり、他者と関わり合うことになる。そういう中で本質的に反社会的であるはずの二者の関係がむしろ外の社会のコピーになってしまったりする危うさもある。ここでは家制度とかのことを言ってる。
理想はブルーハーツとかセカイ系みたいなロマン主義の系譜の愛だろう。だけどもやっぱり僕らは無気力なのだ。あんなに激しい感情を抱くことはほとんどない。無気力を克服するためには常に日常を打ち破らなければならないのだろう。めんどくせー。
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