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『アジア横断自転車旅行』(1894年)その16:蘭州

酒泉(粛州)から河西回廊を南東に向かいます。ようやく中国らしい中国になってきましたが、まだまだ北西のすみっこといった所。


 荒涼たるゴビ砂漠から緑豊かなエジナ谷への移り変わりは、我々の心を和ませた。ここでは草や穀物がその重みで倒れそうになっているほどであった。水は至る所にあった。道路でさえ、多くの場所で一時的な灌漑用水路として使われていた。甘州への旅の途中、黄河以北における主要な穀物である小麦、粟、高粱の冠水した畑を区切る、細い土手の上を走らざるを得ないこともあった。稲やケシの畑に出会うことはあったが、中国の主要な輸出産業に関わる桑や茶樹は、北部地域を通る我々の道中では全く目にすることはなかった。
 肥料を必要としない黄河の「黄土」を除けば、中国の耕地は四千年以上にわたって、農民たちが作物に吸い取られた養分を別の形で土壌に戻すという思慮深い努力を通じて、その肥沃さを維持してきたようだ。
 中国の耕法は非常に粗末である。曲がった棒を使った犂や、木製の歯のドリル、枝編み細工の馬鍬で、地表をわずかに削る程度しか行わず、畝や溝は西洋の農夫の目に心地よい直線ではなく、蛇のように曲がりくねっている。彼らの成功の秘訣は、土壌を回復させるための入念な配慮にあるようだ。町の汚物は毎朝夜明けに特別な苦力によって運び出され、肥料として保存される。一方、乾燥した草や藁、根、その他の野菜くずは、燃料として最大限に活用される。中国の農民は、不器用な農具を手作業の技術で補っている。畑は非常に注意深く除草され、地面の上に作物以外の葉がほとんど残らないほどである。さまざまな種類のポンプや水車が、人力、畜力、あるいは風力によって稼働している。したがって、この耕作方式は、ヨーロッパやアメリカで一般的な大規模農法よりは、園芸に似ている。土地は牧草地に充てるにはあまりにも貴重であり、ほぼすべての地域で森林が耕作のための犠牲にされた結果、この地の非常に厚い棺の用材は、現在では外国から輸入せざるを得なくなっている。

 小川や灌漑用水路が頻繁に現れるため、我々は常にずぶ濡れになるか泥まみれになっていた。我々の裸の腕や脚は日に焼け、泥で覆われていたため、ある時みすぼらしい村人の一団に「外国人は我々のように入浴をしないのか」と尋ねられたことがあった。
 村に突入すると、とりわけ女性や子供たちの間で恐怖や驚愕を引き起こしたが、最初の衝撃が収まると、たいていは笑い声が続いた。我々の姿、特に後ろ姿が彼らには非常に滑稽に映ったようである。
 自転車自体も彼らの蒙昧な想像力を様々に刺激した。それは「飛行機」、「脚踏車」などと呼ばれたが、「火車」、すなわち機関車だと考える者もいた。そうしたものについては、あやふやな噂でしか聞いたことがなかったのだ。動力源のわからない彼らは、それを「自行車」と呼ぶことが多かった。これはちょうど上海の住民が電灯を「自ら来る月」と呼ぶのと同じようなものであった。

 中国北西部のある辺鄙な村では、我々は明らかにケンタウロスの一種とみなされたようで、人々は自転車に乗った我々が、乗り手と車輪が一体化しているのかどうかを確かめようと近寄ってきた。
 あまりにもしつこく乗るようにせがまれるので、最終的には策略に頼るしかなくなった。というのも、断固たる拒否は何の効果もないと分かったからである。我々は一定の金額を支払えば乗ると約束し、そうすることで拒否の責任を彼らに押し付けようとした。しかし、彼らは全くひるむことなく、帽子を回して金を集め始めた。何度か村では卵が買えないと言われたが、乗る姿を見せると約束すると、卵が何ダースも出てくることがあった。同じ方法で茶も受け取り、これによって現金の出費をかなり抑えることができた。

 「外国の馬」への関心があまりに強いため、商売や娯楽がストップすることさえあった。こうしたことの中で特に注目すべきものが、中国の祝日の一つで起こった。旗で飾られた通りは、祝日のために雇われた巡業劇団を目当てに集まった近隣の農民で埋め尽くされていた。実際、その時近くの野外劇場で公演が行われていたのだが、気づかぬうちに我々はその混雑した観客席に転がり込んでいた。女たちは即席のベンチに座って扇を使いながら噂話をし、男たちは気怠そうに集まって立っていた。しかし突然、別の目新しいものに注意を引かれた彼らは一斉に押し寄せ、それによってこの催しのために設置された仮設の露店に大きな被害をもたらした。完全に見捨てられ、また間違いなく好奇心で一杯だったに違いないが、役者たちはそれでも中国人が「面子」と呼ぶものを失うわけにはいかなかった。彼らはなおも恐ろしい騒音やパントマイム、台詞を空席に向かって続けていた。

中国の手押し車

 リャン・チョウ[涼州]は二百年以上前にカトリック教徒の中国人によって築かれた都市であるが[?]、そこへ至る最後の五十マイルは、以後の旅に大きく支障をきたすことになる事故のため、徒歩で移動せざるを得なかった。
 狭い小道を急降下している最中、草むらに隠れた突起に自転車のペダルがぶつかり、軸が折れてボールベアリングが地面に散らばってしまった。それからは数マイルにわたって、ペダルクランクに逆さに取り付けたむき出しの軸を踏んで進んだ。しかし、このような無理をさせたことで自転車はすぐに不具合を起こし始めた。急な下り坂での不意の衝撃により、自転車は完全に壊れ、乗り手はハンドルの向こうに投げ出された。フレームの下部は以前ひびが入っていた部分で完全に折れ、転倒によって上部のバーがほとんど二つ折りになるほど曲がってしまった。
 この悲惨な状況の中、「影の下の都市」でスコットランド人宣教師のロートン氏に出会えたことは喜びであった。彼はここに最も僻地にある中国伝道団を創設した。しかし、彼や現地の最良の職人の助力を得ても、修理はうまくいかなかった。このため、旅の途中で度々足止めを食らうことになった。そして、ついには自転車の前部と後部が完全に分離してしまった。この国では鋼材のようなものは一切見つからず、適当な工具もなく、はんだ付けの基本を知る者もいなかった。繊細な自転車は中国の荷車の車輪のように叩かれることに耐えられないと、現地の鍛冶屋に説明しようと努力した後、我々は自力で修理に取り掛かった。形状を保つために中空のフレームに鉄棒を入れて、前部から後部まで電信線を上下の棒に沿って巻き付け、可能な限り両部分をしっかり固定した。ぐらぐらしたフレームと、歪な回転をする後輪で、海岸までの残り千マイルを行く我々の姿は、相当滑稽だったに違いない。

橋の建設者の記念碑

 アジアで出会った中で最も大きな川である黄河を渡ると、浮橋がラン・チョウ・フー[蘭州府]の市内へと通じていた。ここは黄河が北へ大きく曲がる地点であり、西方への入口という戦略的な位置に加え、中国有数の果樹地帯という絵のように美しい場所であることから、この都市は帝国で最も重要な都市の一つとなっている。
 川向こうの見晴らしの良い高台で、我々はその美しい光景を撮影するため足を止めた。いつものように群衆がカメラの前に群がり、ミステリアスなレンズを覗き込んだ。これまで出会ったすべての宣教師が、中国では多くの民間迷信を刺激する恐れがあるとして、写真撮影を控えるよう忠告してくれたが、この点で我々が経験した唯一の問題は、人々の掻き立てられた好奇心だけだった。写真に中国人の頭以外を収めるためには、まずカメラを反対方向に向け、その後急に撮りたい場面へと向ける必要があることをすぐに学んだ。

 川を渡る際、押し寄せる群衆の下で浮橋がきしんで揺れ、再び都市の街路のしっかりとした地面に立ってほっとした。ここでは街路が花崗岩や大理石の石畳で舗装されていた。大通りを走っていると、いつもの騒音と喧騒の中で上品な服装をした中国人が店の一つから飛び出してきて、我々の腕を掴み「Do you speak English?」と叫んだ。その発音があまりにもアメリカ人のようであったため、我々は即座に自転車を降り、同胞として彼の手を握った。
 実際、彼は出生以外のあらゆる点でその通りだった。彼は数年前、中国政府の実験として我が国に派遣され、徹底したアメリカ式教育を受けた官吏の子息たちの一人だった。ここでその実験の経緯をウー氏の語った通りに詳述することはできないが、彼らが弁髪を切り、国を捨てたと非難されたこと、その結果として祖国に召還され、人民と政府の双方から感情や習慣が外国的であるという理由で、高められるどころか、かえって貶められたこと、そして最終的に純粋に実力によって徐々に認められるようになったことを挙げておく。
 彼は現在、スーチョウからウルムチまでの電信線延伸工事を監督するために政府から派遣されていた。外国人をこの役職に任命することは、すでに中国人が外国の新技術に帰している悪影響をさらに増大させるだけだと政府が懸念したからである。
 「電信柱」と「乾いた天」という語句の類似性が原因で、国中に張り巡らされた電信柱の列が長引く旱魃の原因だという信仰が広まっていた。ある夜、数マイルにわたる電信柱が、陰謀団の密命によって根元から切り倒された。数名の斬首刑が執行された後、電信柱は再建され、「皇帝の命により設置」と記された札が取り付けられたのだった。

ラン・チョウ・フーの二つの仏塔

 イギリス人宣教師のレッドファーン氏と共に、彼の山中の住まいへ向かうために市街を出ようとした際、我々は再び混乱に巻き込まれた。彼は我々が腰に携えている武器を隠すよう助言した。それが群衆を刺激し、暴動を引き起こす恐れがあったからだ。しかし、我々は経験から中国ではリボルバーは見せなければ何の役にも立たないことを学んでいた。この群衆のしつこさは、我々がこれまで見たどれよりも上回っていた。彼らは市街を出た我々を追い、三マイルにわたる道のりを経て宣教施設までついてきた。そして、そこにいつまでも留まるつもりだと宣言した。再びレッドファーン氏は暴動を恐れ、我々に市街へ戻り、総督に保護を求めるよう進言した。
 これは良い判断であった。宮殿の閲兵場での特別展示によって、皇帝以下第四位の高官より貴重な庇護を得る結果となった。兵士による護衛隊が、市内滞在中のみならず、シンガン・フー[西安府]までの旅の間も提供された。この旅程では、事前に派遣された公式書簡により、どこでも良好な対応が保証された。権威を示すため政府の印が押された黄色い小さな旗が渡され、それを星条旗の横に掲げるよう指示された。この旗には「旅行する学生」という称号のほか、我々の国籍、目的地、年齢といったよく寄せられる質問への回答が記されていた。
 次に、地元の大砲工場で最優秀の技術者に対し、我々の故障した機械に可能な限りの修理を施すよう、政府の費用で命令が下された。しかしながら、実際には大半の時間は修理よりも別の目的のため、測定や型取りに費やされた。もし彼の意図が実現されていれば、ラン・チョウ・フーでは今日、自国で製造された「脚踏車」を所有しているだろう。

ラン・チョウ・フーの宣教師たち

ついに自転車が破損。むしろここまでよく保ったというべきですが。彼らの自転車はハンバー社製の1890年式安全自転車で、実は二台とも現存しています。アレンの自転車はロンドン科学博物館、ザハトレーベンのものはロサンゼルスの自然史博物館に所蔵。

Humber safety bicycle, 1890.  Allen, T.G.
https://collection.sciencemuseumgroup.org.uk/objects/co25746/humber-safety-bicycle-1890.
© The Board of Trustees of the Science Museum
CC BY-NC-SA 4.0

前にタイトル画像に使用したこの写真は、この後10月18日に太原市で撮影されたものですが、左の自転車の下側のフレームがなんか太くなっているのが電線をぐるぐる巻き付けたところでしょうか。しかし相変わらず足袋と草鞋履いてますね。

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