ライデン瓶の発明は、一般にオランダの物理学者のピーテル・ファン・ミュッセンブルーク (1692-1761) に帰せられていますが、正確にはライデン大学のミュッセンブルーク研究室において見出されたというべきでしょう。
ミュッセンブルークのライデン瓶に関する研究は、1745年12月10日に書き始められた彼の実験手記 (LUL BPL 240.18) に実験31として登場します。しかしながら彼は当初この実験の意味を全く理解していなかったようです。
特に面白くもない直前の実験30(濡らしたクッションでガラス球を擦っても静電気は起きない)に続けて以下のように記されます。
見ての通り、この実験で彼が注目しているのはガラスの産地と電気の関係という事なのです。しかしボヘミアのガラスで可能なことが、イギリスのガラスではまるで駄目というのは理解に苦しみます。それに磁器でうまくいかないということもないはずなのですが。
そもそも松脂(絶縁体)にグラスを載せてはコンデンサーになりません。あるいはその際グラスに手を添えていれば別ですが。しかしミュッセンブルークは「その痛みは耐え難い」といいながらも、多分この時点では本当に痛い目には遭っていなかったように思われます。
なお、次の実験32は、2台の起電機を同時に使用することで電気力は増すか、という特に関連のないもの。
しかしながら、1746年1月20日にミュッセンブルークがフランスの科学者ルネ・レオミュール (1683-1757) に宛てた書簡からは、その後大きな転機があったことが知られます。
相変わらずガラスの産地に拘泥しているのはともかくとして、めでたくミュッセンブルークも電気ショックの洗礼を受けたようです。火花ではなくガラスを持つ手の方から衝撃を感じていることから、確かに彼は電気に貫かれたのでしょう。
この「ライデンの実験」の状況は下の図14に示されていますが、クライストの釘入り瓶と原理は同じで、誘電体であるガラスと、それを挟む「水」と「実験者の手」という2つの電極によってコンデンサーが形成されたものです。静電気は極めて高電圧になるので(数千から数万V)、僅かな静電容量でも威力は絶大です。
実験条件として「地面に直接立つこと」を指定しているのは重要です。このような実験の場合、一次導体に触れる実験者は絶縁された台に乗るものなのですが、そうするとガラスの両面をつなぐ回路が分断され充電は起こりません。クライストの実験の追試がうまくいかなかったのもそれが理由です。さらに2人による実験によってガラスの両面が回路を形成することの重要性をおぼろげながらも認識したことは大いなる前進といえます。
しかしながら、ミュッセンブルークの弟子のジャン・ニコラ・セバスチャン・アラマン(1713-1787)の書簡によれば、最初にこの新現象を発見したのはミュッセンブルークの研究室によく出入りしていた弁護士でアマチュア科学者のアンドレアス・クナエウス (1712-1788) であったということです。ちなみに、その書簡の相手であるフランスの物理学者ジャン・アントワーヌ・ノレ (1700-1770) が「ライデン瓶 Phiole de Leyde」の命名者です。
それはおそらくクナエウスが無知か無精か、絶縁に気を配らずにミュッセンブルークの実験を模倣したことで起きた幸運な事故であったのでしょう。そして彼はクライストと違って実験状況を手紙で回りくどく説明する必要はありませんでした。アラマンは追試を行って見事感電し、しばらくは呼吸もできないほどであったといいます。それを見てミュッセンブルークも再び実験31に立ち返ったのでしょう。
ミュッセンブルークの手記には実験31について後から多くの記述が追加されており、レオミュール宛の書簡に対応する実験記録も見えます。アラマンの書簡によると、このボウルによる最初の実験はアラマンの追試の2日後に行われたものです。
しかし「フランス王国全てと引き換えでも二度と御免です」と言いながら、性懲りもなく何度も感電してるようですよね、この人。