見出し画像

『アジア横断自転車旅行』(1894年)その17:西安、北京

とうとう最終章です。


第六章:中国首相と会談

李鴻章
首相より著者に寄贈された写真

 我々が蘭州府を去ることは官吏たちには惜しまれていないだろうと思った。電信局周辺に集まり続ける群衆が暴動を起こすのではないかという懸念が表明されていると聞いたからだ。

 しかし、親しい友人たちを後にしてアヘン喫煙者たちの社会に入ることは気が進まなかった。というのも、我々は今や四川(セチュエン)に次いでこの習慣が最も蔓延している中国の地域にいたからだ。夕暮れから就寝時まで、皆アヘン窟へと向かうために村の通りはほぼ人影が消えていた。我々の護衛の兵士でさえ、政府支給の背中の擦りむけた馬から木製の鞍を外すとすぐに携帯ランプを取り出し、小さな黒い箱の中の蝋のような内容物を針の上で溶かし始めるのだった。適切な粘度になったところで、そのペーストを金属板の上で転がし、笛のような形をしたパイプの穴に差し込むために尖らす。夜の半分はこの工程に費やされ、残りのかなりの時間は特有の中国式水パイプでちびちびとタバコを吸うことに充てられた。
 中国税関総監のハート氏が一八八二年初頭に発行した公式報告によれば、アヘンを吸っている人口は一パーセント未満であり、中毒者は稀である。より恐れるべきは、特に中国女性の間でおこなれている毒物としてのアヘンの使用である。政府はアヘンの輸入関税から多額の収益を上げており、ほとんどの地域でその栽培を黙認している。そこでは商人や官吏が、この公式には禁じられた薬物の利益を分け合っている。

太原府の路上のアヘン喫煙者たち

 黄河の二つの屈曲部の間に位置するこの歴史的街道は、これまでよりも通行人が格段に増えていた。いつもの馬やロバと二輪車の隊商に加えて、頭を剃ったチベット人の一団と出会うこともあった。彼らは使者として旅をしているか、あるいは有名なチベットの羊革や毛皮、強い香りのするジャコウジカの香嚢を商う交易者であった。

 葬列も非常に頻繁に見かける光景だった。中国の習慣では、死者の遺体は生前どれほど遠くまで旅をしていても、故郷に戻されることが求められる。そして一つの遺体を運ぶ費用は往々にして高額になるため、多くの場合、仮埋葬地や死体安置所に一時的に埋葬され、十分な数が集まって大規模な葬送隊を組むまで待たれる。しかし、官吏たちは生前同様に死後も単独で、従者を伴って移動する。棺の上には、運搬中に故人の魂を宿すとされる、普通の白い雄鶏がとまっていた。葬儀、特に父親の葬儀においては、子たちが公に悲しみを表現することも習慣として求められる。他の多くの孝行儀礼に加えて、長男は霊的な通行料として道端の寺院で疑似紙幣を撒き、故人の旅路を楽にしなければならない。

太原府の宣教師たち

 西安府(シンガン・フー)は秦王朝の時代に中国の首都であり、二千年以上前に最重要都市であったが、現在でも帝国最大級の都市の一つである。おそらく人口でこれにまさるのは広東のみであろう。その四方の城壁はいずれも長さ六マイルを超え、中央には高い楼閣を備えた壮大な門がある。ここでは何世紀も前の古いネストリウス派教会の廃墟の中から有名な石碑が発見され、現在、大英博物館が高値で求めている。
 その膨大な人口から集まった煩わしい群衆と、季節の遅れもあり、我々は滞在を可能な限り短くすることを決めた。

西門より潼関に入る

 わずか一日で、黄河流域の要害であり、中国で最も堅固な防衛拠点の一つである潼関(トン・クアン)に到着した。ここでは急峻な崖の間をこの巨大な川が激しく流れ、突然の屈曲に抗議するかのように見えた。
 今回の渡しは、中国人苦力の背中でも、揺れる牛車でもなく、車両一台か二台を収容できる広々とした平底船だった。これは、ヴェネツィアのゴンドラのように船尾で漕がれていた。食事のための短い停留中、我々の後をつけ回していた数百人の群衆が、我々の乗船を見守っていた。

 我々は出発点から一マイル下流の対岸に到着し、有名な「黄土」に切り開かれた溝を通って川辺から高地へと登り始めた。黄土はその色で川に名を与えるだけでなく、この広大な地を支配する皇帝自身にも「黄帝」(イエロー・ロード)という称号を与えている。これは「世界の支配者」に相当するものである。中国で最も肥沃なこの厚い土壌は、リヒトホーフェン男爵によれば、北方の砂漠からの風によって長年にわたり蓄積された塵に過ぎないというが、場所によっては少なくとも二千フィートに達する。黄土の垂直な壁が交通の自由に与える困難を克服するために、多くの工夫が行われてきた。最も交通の多い道路の中には、四十フィートから百フィートの深さまで掘り下げられているものもある。その幅は八フィートから十フィートを超えることはほとんどなく、車両の交通はスエズ運河の「ステーション」のような側道を利用して行われている。これらの壁に囲まれた道は排水されず、風も通らないため、季節によって塵の溜まり場か沼地のどちらかとなる。我々の場合は秋の雨がそれらを後者に変えていた。
 かつてマルコ・ポーロが賞賛した帝国街道の一つにあったにもかかわらず、我々はこれまでに見た中で最悪の道路区間に遭遇した。山道の上り坂、特に北直隷(ペー・チリ)の平原に到る天門関(ヘブンリー・ゲーツ)の階段のような道は、巨大な石が散乱する急勾配で一直線の坂道であった。そこを重い荷車が馬を追加するだけでほとんど持ち上げられるようにして登っていた。

 ローマ風の石造りが中世の中国文明の高さを証明する橋も、久しく時が荒廃させるにまかされ、さらにドゥンガン族の反乱が全国に無数の廃墟を残していた。

聞喜鎮付近の記念碑

 山西(シャン・シー)の人々は倹約家で知られているが、この特質は時により高い美徳である誠実さを犠牲にして発揮されることがあると我々は観察した。多くの恐喝未遂の中で最も深刻なものの一つが、とある辺境の田舎町で起こった。それまでの道中でも稀な道の間違いが原因で、五十マイルも遠回りしてしまったことに愕然としつつ、我々は夕方遅くにそこに到着した。悪路の踏破にいつにも増して疲れ切っていた我々は、早く休みたいと思った。実際、それが理由で我々はいつもほど中国の礼儀に注意を払わなかった。訪問してきた役人による「月見の誘い」という暗黙的な要求を無視し、敬意を表して宿の入口まで見送ることもしなかった。彼らがいつもの偽善的な笑みを浮かべながら「ご足労には及びません」と言った際、それを文字通り受け取り、そうすることを喜んだ。この不用意な無礼は我々自身に返ってくることになった。役人たちの黙認の下、暴徒たちは異例の狼藉を働いてもよいと考えるようになったのだ。
 我々はこれまでの中国人とのやり取りにおいて、現地の観点から見て合理的なことには決して反対しなかった。「疑いを避けるためには閉ざされた扉の背後で暮らしてはならない」という中国の諺の意味を我々はすでに十分に学んでおり、そのため重大な乱れがない限り、居室や荷物を物色することも常に認めてきた。彼らがひどく長い爪を紙の窓に静かに穴を開けるために舌で湿らせることにも、我々は決して抗わなかった。もっとも、ある朝目を覚ますと窓全体が完全になくなっていることもあったが。宿屋の主人の頼みでのみ、我々は時々宿屋の庭の掃除を引き受けたが、「外国人が触れると駄目になる」という迷信が広まっていたため、これは非常に簡単にこなせた。また、「外国の悪魔」と呼ばれることに少しも怒りを示したことはなかった。なぜなら、少なくとも若い世代にとっては、これが単に外国人を指す呼称でしかないと知ったからである。
 しかしこの夜、我々の忍耐力は尽きており、侵入者を力ずくで追い出すことになった。呟き声と脅迫の中、我々は灯りを消し、お互い引き下がった。翌朝、主人から例によって法外な請求書が提示されたが、いつものようにその半額から三分の一を提示し、最終的に受け入れられた。ただし、十分に支払われていないといういつもの抗議が伴った。宿主の不平は早朝から集まった群衆を扇動し、その囁きや視線から、何らかの問題が起こりつつあるのが分かった。我々は急いで自転車を道に出した。ちょうどその時、宿主が群衆の扇動を受けて飛び出し、ハンドルを掴むと同時に、元の値段をさらに上回る金額を要求してきた。もはや恐喝は明白であり、抗議も無駄だったため、我々は拳で自分たちを守らざるを得なかった。群衆は我々に押し寄せ始めたが、壁に追い詰められたところで我々が武器を取り出すと、その前進はすぐに後退に変わった。次に我々は攻勢に出て、道路の中央に置かれていた自転車を取り戻した。宿主とその仲間は今度は後輪を掴んだ。彼らの弁髪を掴むことでようやく彼らを引き離すことができたが、それでも乗車する前に再び掴み直してきた。彼らにもう一度直接的な攻撃を加えることで、ようやく乗車し、脱出することができた。

長辛店付近の記念碑

 この不快な出来事の一週間後、我々は旅を経て有名な北直隷平野の落花生と豚と豚の尻尾の中にやってきた。広大な落花生畑が掘り返されていて、砂質の土壌から落花生を分けるために、大きな粗いふるいにかけられるのを待っていた。また、サツマイモも豊富だった。これらと、特産の干しナツメヤシと共に炊いた米をトウモロコシの葉で三角に巻いたものを毎朝早くに路上の屋台で買い、そして地元のパン屋に向かった。そこでは麺棒を転がす音が響き渡り、亜麻仁油で揚げられる細長い揚げ菓子[油条]や、壺型の炉に貼り付けて焼かれる重たい生地のビスケットが期待された。

 旅の終わりが近づいていたのは幸いだった。というのも、我々の自転車や衣服はほとんど崩壊寸前だったからだ。むきだしの脛は霜で痛めつけられた。特に寒い朝には、四分の一インチの氷が張っていることもあった。夜の休息は十分な寝具がないために妨げられた。藁で温められた炕(カン)はすぐに冷えてしまい、我々は夜半には薄い寝袋だけでリウマチを防ごうとする羽目になった。

 無数の手押し車によって固められた道を進み、我々はついに終点に近づいていた。十一月三日の夕方、木々の間から突然視界が開け、人々が「レジデンス」と呼ぶ帝国の首都の巨大な城壁が目の前に現れた。三千百十六マイルの旅の目的地がいまや目の前にあり、七十一日間にわたる自転車行もほぼ終わりを迎えた。
 日暮れとともに、我々は「満州市(マンチュウ・シティ)」の西門をくぐり、その混雑した大通りを縫うように進んだ。我々が公使館通り、あるいは地元の人々が誇らしげに「属国通り」と呼ぶ場所に到達した頃には、夜の帳が我々のやつれた顔とぼろぼろの服を隠してくれていた。

 薄暗い中庭で、我々は北京ホテルのイギリス人支配人と顔を合わせた。我々が宿泊を頼むと、彼はこう言った。
「失礼ですが、どちら様で、どこからいらっしゃったのか伺ってもよろしいでしょうか?」
 我々の冴えない身なりは、この慎重な態度の十分な理由となったに違いない。しかしその直後、彼の表情は一変し、熱烈に我々を歓迎した。もはや説明は不要だった。保定府(パオ・ティン・フー)の「ノースチャイナ・ヘラルド」の記者が、我々の旅の話をすでに沿岸部に報じていたのだ。

 その晩、アメリカ公使の息子が我々を訪れ、自身の衣服を提供してくれた。それは中国人の仕立て屋が我々の服を作り直すまでの間の代用品だった。借り物の装いで、我々は外国人や中国人の官吏からの招待に応じることができた。丁重な質問攻めに遭うこともしばしばで、我々が公使館通りの埃と泥の中を自転車で走り、中国の道路が自転車旅行にまったく不向きというわけではないことを証明するまで、我々の旅の真実性を完全に信じた人は多くなかったのではないかと思われる。


まだちょっとだけ続きます。

中国では自転車の発明者は黃履莊(1656-)だと言われていますが、さて。



いいなと思ったら応援しよう!