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『アジア横断自転車旅行』補遺:残された写真の語るもの
1966年、アメリカのヒューストンにて、とある古い家の解体現場で作業員が2階の窓から小さな旅行カバンを下に投げ捨てた所、その中から古い写真のネガがこぼれだしました。それを見たポール・モンタギューという人物が、作業員に手持ちの20ドル紙幣を渡してその写真を買い取りました。彼はその重要性については即座に察しましたが、その来歴について詳しいことまでは知り得ませんでした。これらの写真は彼の妻を経由して一部がカリフォルニア大学ロサンゼルス校の図書館に寄贈されました。
これが実は『Across Asia on a Bicycle』に掲載された写真やイラストの原版だったのです。
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これら450枚ほどの写真の大部分は1891年に撮影されたもので、アジアに渡る前にギリシャで撮影されたものに始まり、トルコ、ペルシャ、そしてその年の越冬地であるタシュケントまでとなっています。ゴビ砂漠とか中国の写真はありません。
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ただし、期間内でもアララト山登山の写真などは残念ながら見当たりません。そもそも見つかった写真全てが寄贈されたわけではなく、残りがどれだけあって、今どうなっているのかもよくわからないようです。
それからギリシャとトルコで書かれた日記の一部も付属しています。写真と合わせれば、旅行記で語られなかった事がいかに多くあったかが伺えます。
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しかし、このコレクションの終わりには別のカメラで撮られた四角い写真もあって、そこに写っているのは夥しい死体なのです。
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これについて説明するには、ひとまずもう一人の世界一周を目指した自転車乗りの話から始める必要があります。
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そもそも、アレンとザハトレーベンは自転車で世界一周をした最初の人間というわけではなく、トーマス・スティーブンス(1854-1935)による先例がありました。彼は1884年から1886年にかけて史上初めて自転車で世界一周を成し遂げ、そして旅行記『Around The World on a Bicycle』 (1887) を出版して大きな反響を呼びました。
ただし、彼の世界一周はかなり不満の残るものであって、サンフランシスコを出発して東回りにテヘランまでは良かったのですが、その後アフガニスタンで追い返されて、しかたなく船でカラチに向かいます。そしてカルカッタまでインドを自転車で走ると、また船に乗って香港へ。そこから上海まで中国を走った後は、船で長崎に渡り、横浜でゴールというルートになっています。
これではあまりにぶつ切りにすぎるでしょう。後続の二人が中央アジアルートにこだわったのも理解できるというものです。彼らもアシュカバードからサマルカンドまで鉄道でスキップしましたが、これに比べたら十分『アジア横断』の名に恥じないものといえます。
もっともスティーブンスの場合、自転車といっても前輪の巨大な「ペニー・ファージング」であったので、これで未開地を走破したのはそれだけで十分な偉業といえますが。
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雨の午前中にぶらぶら歩いていると、大きな校舎の前を通りがかった。中では子供たちが声をそろえて朗読していた。木製の下駄と紙の傘が入口に設けられた棚に整然と置かれていた。彼らが楽しそうに課題を叫ぶ様子からすれば、これは単なる「ごっこ遊び」の学校のように思われる。
ノルマンディーの乳搾りのように端正で魅力的な女の野菜や果物売りが、喋ったり微笑んだりお辞儀をしたりしながら歩き回り、「野菜を売るまね」をしていた。
骨董屋の品物を少し見て立ち止まると、炭火の火鉢のそばでタバコを吸っていた店主が丁寧にお辞儀をして、甲冑を着た怖い顔つきのダイミオの人形を面白そうに笑いながら指さした。彼の行動には商売気のかけらもなく、私に何かを売りたいという気持ちが全くないのは明らかだった。ただ、その人形の奇妙さに私の注意を向けたいだけのようだった。彼はただ「骨董屋ごっこ」をしているだけで、何かを売ろうとはしていなかったが、頼めばその親切心から間違いなく売ってくれただろう。
古風な消火器が二台、役場の建物の側に無造作に置かれていた。彼らは火を消す遊びに飽きて、そのおもちゃを放り出してしまったのだ。
私は水辺をさまよい、自分の宿を探そうとした。船頭たちは藤の防水コートを着て、のんびりとたむろしていた。その様子から察するに、彼らはただ楽しみのために私を船に乗せて目的地まで連れて行きたがっているのは明らかだった。
誰もが笑顔で上品で、深刻そうな顔をした人は誰もおらず、やつれた貧困の表情も見られなかった。なんと素晴らしい人々だろう! 彼らはどの国民よりも幸福に生きるという問題を解決する一歩手前にいるように思える。たとえ職業的な乞食であっても、自分の貧しさを面白がっているように見え、人生が真剣に考える価値のない単なる滑稽な実験にすぎないかのようだった。
フランク・ジョージ・レンツ(1867-1894)もまた、アレンやザハトレーベンと同年代で、やはりスティーブンスに影響されたアメリカの自転車愛好家でした。
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彼はスティーブンスも寄稿していたスポーツ雑誌の『OUTING』と契約を結び、1892年5月15日にピッツバーグより自転車世界一周の旅に出発します。ちなみに、その頃アレンとザハトレーベンはタシュケントを出発したところです。
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レンツはまずワシントンとニューヨークに立ち寄りますが、それから方向を転じ、アメリカ大陸を横断してサンフランシスコへ向かいます。彼は先人たちとは逆に西回りの地球一周に挑戦しました。アレンとザハトレーベンも、向かい風ばかりだったので、もう一度やるなら逆向きが良いと言っていましたが。
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10月25日にサンフランシスコから乗船し、ハワイ経由で日本に向かいます。例の二人が北京に着いたあたりで日付変更線を超えて、11月14日に横浜に上陸。東京を観光した後、東海道を西へ。
レンツは日本には以前から興味があったようですが、食事以外は大体満足してもらえたようです。
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ユイ、オキツ、エジリを軽快に通り抜け、スルガ地方の首都であるシズオカに到着した。この街の人口は三万六千人である。知事の城は城壁で囲まれ、堀に守られており、トキオの皇居と同じような構造であった。途中で立ち寄った屋台で手に入れた昼食は、米、卵、それに茶で構成され、一食七セントから十セントであった。私は通常、一日に三回から四回食事を取った。魚や肉は奇妙な液体のソースで調理されており、どれだけ空腹であっても味わうことはできなかった。
レンツは17日間で900マイルを走破して長崎に到着。12月12日に西京丸に乗って上海に渡ります。二人とは結局すれ違いになったようです。
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悪路と住民の敵意のために、レンツの中国の旅は困難を極めました。3ヶ月で横断する予定が、結局6ヶ月を要することになります。
イギリス領ビルマに入ったことでレンツは安堵したようです。
困難、欠乏、侮辱、粗末な食事、劣悪な宿泊施設、悲惨な道路、そして中国人が外国人に対して抱く一般的な嫌悪は、ついに過去のものとなったが、決して忘れることはできないものだった。
しかしこの記事が雑誌に掲載された頃には、実はレンツは行方が分からなくなっていました。
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ビルマに入ったレンツは、この号の『OUTING』で紹介された物語の舞台となった国境付近から、イラワジ川沿いを南下してラングーンに向かい、そこからカルカッタへ向かう船に乗った。その後、下記の地図に示されているようにインドを横断してカラチ(I)に到達し、十二月十三日にバルチスタンに入り、ペルシャ湾沿いを進んでペルシャへ向かった。一月二日にはバルチスタンのグワダル(II)から、一月十八日にはペルシャのジャスク(III)から、そして二月十三日にはペルシャのバンダルアッバース(IV)から彼の消息を受け取った。その後、彼は沿岸部を離れ、シラーズとイスファハーンを経由してペルシャの首都テヘランへ向かった。我々はそこから彼が出した四月十四日付けの連絡を受けとった。彼は五月末までにコンスタンティノープルに到着する予定で、タブリーズ(VI)へ向けて出発し、四月二十七日に到着した。彼は五月二日に、約一千マイル離れたコンスタンティノープルへエルズルムを経由して直ちに進む意向を『OUTING』に通知した。
彼が計画を変更した理由は不明である。というのも、それ以降彼からの直接の連絡が絶えているからである。二か月後も彼がまだタブリーズに留まっているということになった。冒険の精神は依然として彼に強く宿っていたことは確かである。それは彼がそこから友人に宛てた手紙で証言している。彼は直接の道筋から外れた小旅行を決めたのかもしれない。比較的近くに多くの誘惑があった。例えばアララト山が近く、またピッツバーグ出身の彼が当然興味を持つであろうロシアの大石油地帯も近かった。もし彼が七月にエルズルムに到達していたら『OUTING』は九月初旬に彼からの連絡を受け取ることができただろう。
彼からの連絡がなかったことは『OUTING』にとって不安の種となり、彼の所在を確認するために必要かつ可能なすべての手段が迅速に講じられた。『OUTING』は毎日その結果を待ち望んでいる。近い将来、彼の無事を知らせる喜ばしい知らせがもたらされることを願っている。すべての正確な情報は『OUTING』によって逐一報道されるだろう。
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『OUTING』十一月号には、ビルマの国境からエルズルムまでのレンツのルートを示した地図が掲載された。その時点では、彼が無事にアルメニアを通過することが期待されていた。しかし、彼がエルズルムに到達していないことが現在判明している。彼の足跡はデリババ峠までしか追うことができない。彼の最後の手紙とインド旅行の手稿は、六月一日に事務所に届いた。『OUTING』による彼の捜索は、八月に書簡による方法で開始され、十月初めには現地に直接代理人が派遣された。アルメニアの混乱した状況が『OUTING』の調査を大いに妨げたが、現在捜索している者たちがレンツの所在を発見できない場合には、現地調査を行うための遠征隊が準備されている。この特別遠征に関するすべての情報は、事実がそれを正当化する場合に公開される予定である。公開はレンツ捜索の成功を著しく危うくする可能性がある。もし他者がレンツの世界自転車旅行を完成させる必要がある場合には、それを成し遂げるための準備が整えられている。
そして結局、捜索のために他ならぬザハトレーベンが派遣されることになります。彼はレンツの生存は絶望視していましたが、それでも1895年3月にニューヨークを出発して再びトルコに向かいました。
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「私の考えでは」彼は言った、「レンツは殺されたに違いありません。私が聞いたところでは、彼はエルズルムとエアヨジドの間、後者から約100マイルのデリ・ダヴァ峠で消息を絶ちました。そこはアジア・トルコ最悪の場所の一つであり、レンツは殺されたものと思います」
5月中旬にザハトレーベンはレンツが失踪したと思われるエルズルムに到着し、現地の宣教師の助けを借りて捜査を開始します。
彼はハザール・セモニアンなるアルメニア人をスパイとして雇い、屑鉄商人に偽装してクルド人地域に送り込みました。スパイはクルド人から自転車のベルの残骸を買い取ることに成功し、さらに殺害犯と思しきクルド人首長の家でタイヤチューブを発見します。
6月には証拠を揃えたザハトレーベンはアメリカ大使にトルコ政府に働きかけて容疑者を逮捕させるよう要請しますが、事態はなかなか進展せず、結局トルコ政府が逮捕に動いたのは9月のことです(しかもその後脱走されてしまう)。
調べによれば、この犯人とされるクルド人首長ムストエ・ニセが、その前年に部下を連れてレンツを訪ねると、彼は熟睡しており、目を覚ましたとき首長がレンツの拳銃を触っていたので、彼は首長から拳銃を奪い返したのだといいます。これは首長に対する侮辱行為と見做され、翌朝レンツが出立するところを待ち伏せして殺害に及んだ、というのが真相であるようです。
そして、こうも進捗が遅れた結果、ザハトレーベンは「ハミディイェ虐殺」の目撃者になってしまうのです。
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ハミディイェというのは、オスマン・トルコ皇帝アブデュルハミト2世が1891年に創設したクルド人部隊です。クルド人はオスマン帝国内で長らく自治的に存在しており、スルタンの支配も半ば及ばない勢力であったわけですが、それを公式に軍事組織として認めることで忠誠を確保するとともに、ロシア国境地域の軍事力として活用することが狙いでした。二人がアララト山登山のときに遭遇したクルド人は武装の良さから見ても十中八九これだったでしょう。
実際のところはスルタンをバックにもつ始末に終えない無法集団でしかなく、特にキリスト教徒のアルメニア人を標的に暴虐の限りを尽くしました。そしてアブデュルハミト2世も特にそれを止めることはありませんでした。非ムスリムのアルメニア人は元々オスマン帝国内では二級市民的な扱いで、さらにその頃はロシアの手先とも思われていたのです。
これに対しアルメニア人たちは民族主義的、社会主義的な抵抗運動を組織するのですが、逆にそれが一層の弾圧を招くことになります。そうして1894年から97年にかけてオスマン帝国内で広くハミディイェによるアルメニア人虐殺の嵐が巻き起こることになりました。
ザハトレーベンが1895年11月にエルズルムで目撃したのはその一つでした。彼が偶然撮影したこれらの写真は、死者8万から30万と推定される一連の虐殺の状況を収めたものとして知られている唯一の資料となります。しかしこれも死者100万人以上とも言われる後のアルメニア人虐殺(1915-1917)の序章でしかないのです。
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私はイギリス公使館のトルコ騎兵の一人、兵士、通訳、それにアルメニア人の写真家とともに、アルメニア・グレゴリアン墓地を訪れた。自治体が多くの遺体を運び込んでおり、遺族がさらに遺体を運び込んだことで、目の前には恐ろしい光景が広がっていた。北側の壁沿いには、幅20フィート、長さ150フィートにわたって、虐殺されたアルメニア人の遺体321体が横たわっていた。
その後、『OUTING』誌のレンツの遺稿による連載は結局1896年7月まで続きました。しかし、最終回の口絵は実際にはザハトレーベンが1891年に撮影した写真に基づくものであることを私たちは知っています。
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そして最後にイェンギドゥニャ(新世界)、すなわち二年前に後にしたアメリカについて言及しながら、私はホームシックを感じていることを告白しなければならない。私は「よそ者」であることにひどく疲れてしまった。私は放浪を終えて、故郷の暖炉の前に戻ることを待ちわびている。
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Bibliography
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https://houstonhistorymagazine.org/2015/07/a-round-trip-back-to-houston/
Herlihy, David V. "Frank Lenz: The Lost Cyclist," Adventure Cyclist (2022).
https://www.adventurecycling.org/blog/frank-lenz-the-lost-cyclist/
Lenz, Frank George. Lenz’s World Tour Awheel (Outing, Vols. 20-28, 1892-96).
Weiss, John L. Bicycle Touring Books in English: 1870 to 1900.
https://www.crazyguyonabike.com/doc/page/?page_id=614492