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『アジア横断自転車旅行』(1894年)その11:クルジャ
ついに中国に入りましたが、物資補給のため Kulja=Gulja=伊寧(B)でしばらく足止めです。その暇を利用して中国語の勉強も。ここからは怪しげな発音で書かれた中国語で溢れるので、地名の特定すら一苦労。つくづく漢字で書いて欲しいものです。
第五章:ゴビ砂漠を越えて万里の長城の西門へ
我々が到着した翌日、北京への旅のための中国のパスポートの有効性を調査する際、現在でもクルジャではロシアの影響力が優勢であることが強く実感された。ヴェルノエのイヴァノフ知事からの紹介状を通じて事前に知己を得ていたロシア領事は、それが単に良いだけでなく、ここから中国に入る旅行者によって提出された中でも群を抜いて優れたものであると述べた。そうであっても、彼は我々に無謀な試みを思いとどまらせようとしたが、結局、通訳と共に我々を正式な査証を得るためにクルジャのトータイの元へ送り出した。
その高官は、深く関心を寄せながらも、我々の試みの無謀さに呆れるような態度を示した。彼は、いかなるパスポートも我々の方法の成功を保証しないと言い、挑戦を許可する前に北京からの指示を待たねばならないと述べた。これについて、シベリアやキャフタを経由して電信や郵便を利用したとしても、かなりの遅延と費用がかかるだろうということだった。これは確かに気落ちさせる話であった。しかし数分後、彼が中国の地図上で我々が提案したルートをたどり、さらには首都北京の位置を確認するためにも、学識ある秘書を呼ばねばならなかったことを知って、我々は彼の中国外交に関する知識を疑い始めた。
この件は再び領事に委ねた。翌日、彼は前に保証したことに間違いはなく、トータイが必要な査証を行えば、帝国全土の定期中継郵便を通じて道中の役人が読むことのできる公開書簡を即座に送付し、我々が北京に到着する遥か前に届けることができると報告してきた。
我々はそんなに簡単に事が運ぶとは思っていなかった。中国を旅するために適切な証明書を取得する困難さとその必要性は、先日にアフガニスタンからの訪問者三名が逮捕されたこと、そして数週間前にドイツ人旅行者がモーツァルト峠を越えてカシュガルに入る許可すら拒否されたという事実によって、強く印象付けられていた。我々はロシアとの友好を強く感じた。
北京への冒険にとりあえずは公式の承認が得られたことを受け、シベリア経由を強いられることを想定してロンドンから送るよう指示していた書簡、写真材料、自転車用品に関して、トムスクの警察署長宛に電報を送った。これらの補給物資は欠かすことができなかった。というのも、我々のクッションタイヤ、ボールベアリング、車軸はひどく摩耗しており、後輪のリムの一つは八箇所もスポークが欠損していた。
しかしこれらの補給物資が我々に届いたのは、電報を送った日から六週間後だった。電報の一週間後に、追加の送料を求める返答が来た。送料はロンドンで既に払った分と合わせて五十ドルに達した。シベリアの厳冬の後に暖かい気候に曝されたタイヤは、本来のサイズよりも大幅に伸びてしまい、到着したときにはほとんど使い物にならなかった。さらに写真材料の一部も、郵便局員の無意味な検査のために台無しにされていた。
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このようにして生じた遅延は、我々が中国人の言語や性格にできるだけ慣れるために有効活用された。というのも、我々には通訳も従者もおらず、所によっては公的機関の援助も得られなかった。おそらく我々ほど現地の人々に頼らざるを得なかった旅行者もいないだろう。
中国語は世界で最も原始的な言語であり、まさにそのために、おそらく最も学びにくい言語である。その語彙の乏しさは、文法をほとんど構文とイントネーションの問題に還元してしまう。我々の誤った抑揚のせいで、意図したものとは異なる意味を伝えてしまうことが何度もあった。違いを教えられても、我々の耳ではそれを聞き取ることができなかった。
我々の準備作業は主に減量することであった。今や我々は必要とあらば強行軍に備えなければならなかった。重量軽減のためにハンドルバーとサドルポストを切り詰めた。イギリスを立つ前に我々自身が特許を取得した自転車のフレームに合わせた革のバッグも、ウールのショールと中国の油引き帆布で作った一組の寝袋に置き換えられた。さらに服のボタンや余分な生地を切り取ることや、頭と顔を剃ることも友人たちによって削減項目に盛り込まれた。同様に、常にバッグに携帯し、夜には寝具の下でフィルムを交換していた我々のカメラの一つを、スイドゥンの中国人写真家に売却した。追加の食糧袋のスペースを作るためである。余剰分のフィルムと追加の荷物は、北京到着時に合流するようシベリアとキャフタ経由で郵送した。
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そして金銭問題が一番厄介だった。「他に何も問題がなくても、これだけで君たちの計画は挫折するだろう」とはロシア領事の言である。
「世界中どこでも信用状を提供する」と宣伝する西洋の銀行家たちは、控えめに言ってもかなり誇張した主張をしている。いずれにせよ、我々のロンドン発行の信用状は、ボスポラス海峡を越えると、イギリスのシンジケートが運営するペルシャ帝国銀行を除けば、全く役に立たなかった。コンスタンティノープルのアメリカ聖書協会では、個人的な厚意として、アジア・トルコを通るルート上の様々な宣教師たちへの手形を購入することが許された。しかし中央アジアでは、ロシアの銀行家や商人はイギリスの信用状を取り扱わないことが分かった。そのため我々は信用状を、シベリアのイルクーツクに通貨で送金するよう指示を添えて、モスクワに郵送することを余儀なくされた。それで今はそこに電報を送って、キャフタ経由で北京に再送するよう指示しなければならなかった。
手持ちの現金と、カメラの売却益、すなわちその重量の半分以上にあたる四ポンドと三分の一の銀で、我々の旅費としては十分であると思われた。というより、むしろそれが我々の運べる限界だった。三千マイルを超える旅に必要な中国の貨幣の重量が、ロシア領事が考えたように、我々の克服困難な障害の一つであった。
中国奥地ではチェン[銭]ないしサペク以外の硬貨は存在しない。これは銅と錫の合金でできた円盤状のもので、中央に穴が開いており、そこに紐を通して束ねることができる。ごく最近鋳造されたリャン[両]ないしタエルという中国仕様のメキシコ・ピアストルや、その他の外国貨幣は、まだ沿岸部から浸透していなかった。しかし、国境から六百マイルの範囲では、タタール商人の間でロシアの通貨と言語が通用することがわかった。一方で、テンガ、すなわちカシュガルの銀貨は、ゴビ砂漠を越えた地域でも現地人に好まれていた。ヤンバ[元寶]の塊から砕かれた大小の銀片よりもはるかに扱いやすかったからである。しかし、どれも我々が携帯するティンザ[天秤]、すなわち小型の中国の秤で計量しなければならなかった。それには貨幣単位であるフン[分]、ツァン[銭]、リャン[両]が刻まれていた。しかし、これらの単位の価値はチェンで換算され、ほぼすべての地域で変動した。それに加え、不良銀や詰物をしたヤンバ、さらに中国人が些細な取引でも値引きを好む傾向は、中国を旅するものをシャイロックそのものにしてしまう。
奥地には銀行や両替所が存在しないたため、我々はクルジャで三千マイルを超える全旅程に必要な銀をすべて購入しなければならなかった。「どれだけ必要か?」という問いには、これまでのアジア旅行の経験が答えを出す助けとなった。我々の計算が的確だったことは、北京に到着した際に半ドル分の銀がポケットにあったという事実が証明している。
今や我々の荷物の主たるものは金銭及びカメラとフィルムであり、それぞれ二十五ポンドの重さがあった。銀の大半は、中国人の好奇心や、なお悪いものから隠すために、小片に砕いて自転車の中空部分に詰めた。しかしながら、強盗には一度も遭うことはなく、これは喜ばしいことであった。一方で恐喝は頻繁にあり、時には深刻な事態となることもあった。
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モーツァルト峠…?
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それはそうと重量単位と貨幣単位を混同してますが、それでやっていけたのか。