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『アジア横断自転車旅行』(1894年)その8:タシュケント

冬に入ってお休みの回です。


第四章:サマルカンドからクルジャへの旅


 十一月十六日の朝、我々は宮殿や霊廟の遺跡に混じるサマルカンドの青いドームとミナレットを最後に一瞥し、ゼラフシャン川の岸に向かって自転車を走らせた。ロシアの定期郵便路を辿る四日間、百八十マイルの旅では、尋常な旅行並の苦労があっただけだった。我々はロシアの長靴を履いて「蛇」峡谷の危険な浅瀬を渡り、「ティムールの門」として知られる巨大な粘板岩を通って、そこからシルダリア川の岸まで嫌になるほど単調に広がるキジルクムのステップ地帯に出た。その川を粗末なロープ・フェリーで渡ったが、その時は通過するキャラバンで一杯だった。そしてすぐにチルチック川の谷を上ってタシュケントへ向かった。住民が畑から収穫していた黒っぽい綿花、麓に向かって下りつつある山々の雪、ぬかるんだ道、肌を刺す冷たい大気、すべてが冬の到来を告げていた。

サマルカンドの宗教劇

 我々は少なくともヴェルノエまで到達することを望んでいた。トルキスタン、シベリア、中国が交わるところに近い、その地方の中心都市である。そこで来年の春の訪れとともに旅を再開して、シベリアに行くか、中華帝国を横断することを考えていた。
 しかしこれは期待できなくなった。ロシア当局がトランスカスピアの通行許可を与えるのを遅らせたため、タシュケントへの到着が一ヶ月は遅れたからだ。その上、雨季が早々に到来したため、北へ向かう道は現地の荷車でさえほぼ通行不能となっていた。さらに、ヴェルノエへの途上にあるアレクサンドロフスキ山脈における大雪の報告も加わり、友人たちが冬を共に過ごすように勧めるのもかなりの説得力を持つようになった。
 それに、そうすることで将来的な利益を生む可能性もあると考えられた。これまで我々はパスポート無しでロシア領内を旅してきた。我々にあった認可は、アシュカバードのクロパトキン将軍からの「来い」という電報と、サマルカンドでロステルツォフ伯爵から得たタシュケント行きの口約束だけだった。さらに我々がトルキスタン総督のヴレフスキー男爵に申請したばかりのパスポートは、シベリアの国境までしか有効ではなかった。もし中華帝国を横断するルートが不可能であると判明した場合、我々は太平洋への道中で各地の総督に個別に申請しなければならなかった。タシュケントから南シベリアを経由して太平洋岸まで旅するための一般許可はサンクトペテルブルクからのみ取得可能であり、それも通過する地方の総督を通さねばならなかった。
 トルキスタンへの入領許可は決して容易に得られるものではない。中央アジアにおけるロシアの政策を学んだ者ならよく理解しているところである。したがって、その首都で冬を過ごすという願いがヴレフスキー男爵によって快く許可され、さらにその間に一人がロンドンに戻る特権までも与えられたとき、我々は少なからず驚いた。これを決めたのは、不可欠な自転車用品を確保し、我々の計画の成功に向けたその他の準備を整えるためだった。くじ引きの結果、ザハトレーベンが戻ることになった。彼はトランスカスピアン鉄道とトランスコーカサス鉄道でカスピ海と黒海を通過してコンスタンティノープルへ向かい、そこから「オーバーランド・エクスプレス」で、ベオグラード、ウィーン、フランクフルト、カレーを経て、十六日間でロンドンに到着することができた。

 タシュケントはニューヨークとほぼ同緯度に位置するものの、アレクサンドロフスキ山脈によってシベリアのブリザードやカラクム砂漠の熱風から守られているため、気候はずっと穏やかである。
 チルチック川の支流が市内の先住民地区とヨーロッパ人地区の境界線を形成しているが、後者の人口にも先住民が全く含まれないわけではない。これらの地区を合わせるとパリに匹敵する広さを持つが、人口は十二万人程度で、そのうち十万人が先住民地区、すなわちサルト地区に集中している。カシュガル人、ブハラ人、ペルシア人、アフガニスタン人といった流動的な人口が存在する一方、キルギス人、タタール人、ユダヤ人、インド人、ジプシー、サルト人といった定住民が多数を占めている。サルト人は遊牧民と区別される都市住民の総称である。

ゼラフシャン川の渡し

 我々の冬の寄宿先は典型的なロシア人家族の家で、若い予備役士官が一緒だった。彼は大学生活と兵役を終えて、モスクワの卸売商人の父親のためにタシュケントで活動していた。彼とはフランス語かドイツ語で会話することができたが、どちらの言語も彼は母語であるロシア語より流暢に話せた。我々の温厚で恰幅の良い主人は、開拓時代に南ロシアのステップから移住し、「不労所得」によって富を築いた。

 ロシアの家庭を特徴付けるものはサモワールである。毎食出される大きな椀のキャベツのスープに加えて、ロシア人の主人はタンブラー半分のウォッカで始め、合間にビールを一瓶空け、最後に二杯か三杯のお茶で締めくくった。夫人は飲み物が茶とスープに限られていたので、種類の少なさを量で補うのが常だった。実際、彼女は六年以上も水は一滴も飲んでいないと告白したことがあった。しかしこれには至極妥当な理由がある。タシュケントの水、またブハラのゼラフシャン川の水も同じく、レシュタと呼ばれる危険な寄生虫が潜んでいるのだ。
 タシュケントの宿の湯気を立てるサモワールの周りで飲む茶はどこのものよりも美味しかった。どんな農民でも、茶を買えないほど、それに元気づけられることがないほど、懐も心も貧しくはない。コサック兵でさえ、茶に支えられて中央アジアの荒野を進軍する。中国人と違い、ロシア人は砂糖を喫茶に不可欠なものとみなしている。茶を甘くする方法は三つ、砂糖をグラスに入れる、砂糖の塊を口に含みつつ茶を啜る、茶飲み仲間の輪の中心に砂糖の塊を吊るして、各人の舌に触れるように振り回し、そして茶を一口飲む。

 タシュケントという名は「石の街」という意味だが、地震の被害を防ぐため大半の家は低い一階建ての泥の建物である。屋根は平らで粗末な作りなので、雨季には乾いた天井は珍しい。建物はすべて白い漆喰かペンキで塗られており、直接通りに面している。裏庭や側庭はたくさんあるが、前庭はない。これはロシアの街の広い通りではそれほど悪くはない。タシュケントの通りは特に広く、両側にはチルチック川からの水が流れる溝があり、それに沿ってポプラ、アカシア、柳の二重、ときには四重の並木がある。これらの樹木は地面に挿したほんの小枝からでも見事に繁茂する。過去二十年間のロシアの灌漑が荒地に多くの樹木を育てる機会を与えたにもかかわらず、木材は依然として比較的乏しく高価である。
 市の行政機関の建物はほとんどが非常に質素で目立たない。それとは対照的に、新しいロシアの大聖堂、最近建てられた学校、そしてギリシャ系住民によって建てられた大きな商店があり、これらはどれもロシア建築の優れた例である。
 この市の施設には、天文台、トルキスタンの産物や骨董品の未熟なコレクションを収める博物館、そして先住民のための診療所があり、そこではタシュケントの医学校の卒業生によって予防接種が行われている。
 かなり大きな図書館は、もともと総督府のために収集されたもので、中央アジアに関する最高のコレクションを収めている。その蔵書には書籍や小冊子のみならず、雑誌や新聞記事までが含まれる。
 娯楽施設としては、パリのオペラハウスを小規模に模した劇場や、ビリヤードやギャンブル、毎週の集会、舞踏会、コンサートが行われる軍事クラブがある。これはロシアの駐屯地では一般的なものだが、タシュケントでは特に華やかだ。そのクラブハウスは規模、建築、設備において首都とモスクワを除いて他に匹敵するものはないと聞かされた。

ツァーリの甥の宮殿、タシュケント

 タシュケントは長らく、汚辱と破産の避難所、あるいは「皇帝の不興を買った役人の煉獄」として知られている。
 この都市で最も立派な邸宅の一つには、前ロシア海軍上級大将の子息でツァーリの従兄に当たるニコライ・コンスタンチノヴィチ・ロマノフ大公が暮らしているが、彼は追放生活を快く受け入れているようだ。彼は大半の時間をタシュケント郊外の絹工場の経営や、ホジェント近郊にある農場の管理に費しており、我々の滞在当時、シカゴのとある企業がその農場に灌漑装置を納品していた。彼の請求書はすべてサンクトペテルブルクの管財人宛ての小切手で支払われている。彼の私生活はかなり型破りで、民主的ですらある。彼の家を訪れる人々は、妻の美しさと酒杯の大きさに特に感銘を受ける。
 この大公の例は、ロシアの軍人階級、さらには貴族の間でも高まりつつある産業活動への志向を象徴している。政府もクリミア戦争の厳しい教訓のおかげで、偉大な国家は貴族階級や貴族政治以上の基盤の上に立つ必要があることを学んだ。この影響でタシュケントは目下繁栄を遂げつつある。しかし軍事的な重要性では「ヘラートへの鍵」と呼ばれるアシュカバードが急速に取って代わりつつある。

 ロシアのミール(農村)の統治の特徴である平等と友愛の精神は、中央アジアにも持ち込まれている。我々はロシアの農民と先住民が同じアパートの隣同士の部屋に住んでいるのをしばしば目にした。また商取引の現場では、すべての階級が気楽に親密な形で交流しているように見えた。これは子供たちにも当てはまり、皆別け隔てなく通りで遊んでいる。我々はこのような雑多な集団が羊の足首の骨でビー玉遊びをしている様子を度々目にし、彼らのロシア語と土着語の混ざった話しぶりを面白く聴いた。目下、先住民の子供にロシア語とロシアの方式で教育する学校が設立されており、同様にロシア商人が先住民の徒弟を受け入れている。

「外国の悪魔」のカメラから子供を救出するサート

 タシュケントでは他の東洋のヨーロッパ風都市と同様、西洋のモラルや文化と共に、飲酒や賭博、社会の緩みも持ち込まれた。役人や官僚の間に嫉妬や陰謀が生じるのも、中央からこれほど離れた場所では無理もない。そこでは出世の道が公務に限られているように思われている。冬の間に開かれる様々な晩餐会や社交会では、戦争の話題が常に歓迎された。あるとき、アフガニスタンのアミール(首長)、アブドゥラフマン・ハーンが危篤状態にあるという噂が広まった。ロシアの支援する後継者であるサマルカンドのイスシャー・ハーンを王位に就けるよう、インドから英国の支援するアユーブ・ハーンを連れてくる前に、パミール高原を越える遠征の準備が大々的に進められているという。若い将校たちはすぐに、自分たちの昇進の可能性や、サンクトペテルブルクから与えられる勲章の数について議論を始めた。タシュケントの社交会は、社交よりも宴会の要素が強かった。知り合い同士が陽気に食事や飲酒を共にしても、会話に共感はほとんどない。どうして我々が遠路はるばる彼らが流刑地と見做すこの地にやって来たのか、彼らは理解に苦しんでいた。

 春が訪れても冬営地からすぐに出発できるというわけではない。道路が通行不能なため、我々は必要書類を手に入れてからも一ヶ月半の間、気を揉みながら留め置かれた。その書類には現地のパスポートに加え、タシュケントからウラジオストックまでトルキスタンとシベリアを移動する完全裁量権が含まれる。これはアメリカ合衆国公使チャールズ・エモリー・スミス閣下を通じてサンクトペテルブルクから取得した。こうして我々は太平洋へのルートを確保し、また天朝[中国]を自転車で横断するのは不可能だというのが一般の意見であったものの、国境線まで進んでそこでさらに詳しい情報を得ることにした。「中国に入ってはいけない」これが五月七日にタシュケントを出発する際、多くの親切な友人たちが私たちにかけた最後の言葉だった。


ニコライ1世の孫で、アレクサンドル2世の甥で、ニコライ2世の従兄であるニコライ・コンスタンチノヴィチ(1850-1918)は、誕生時には第7位の皇位継承者で、参謀大学で学んだ優秀な軍人にして、中央アジアを専門とする地理学者でもありました。

Николай Константинович

前途有望な青年であったニコライ・コンスタンチノヴィチは、しかしハリエット・ブラックフォードというアメリカ人の踊り子に入れ込んだあげく、家宝のダイヤモンドを質に入れたことが発覚し、1874年に表向きは精神障害者として皇室から追放され(皇族から犯罪者を出すわけにはいかないので)、各地を転々とした後、最終的に1881年にタシュケントに送られました。

しかし彼はそれで不貞腐れることもなく、タシュケントで精力的に産業に取り組みました。上で触れられた絹工場や農場の他にも、綿工場、石鹸工場、米加工、クワスの販売、病院、救貧院、写真屋、ビリヤード場、サーカス、映画館、果ては売春宿までも運営していました。彼は生活費として年20万ルーブルを支給されていましたが、ビジネスからの収入は年150万ルーブルに上りました。なお、宮殿建設費として皇帝から支給された30万ルーブルは劇場の建設に使われています。彼は川の流路を変更することでステップを灌漑するというアイデアに取り憑かれていて、運河の建設に私費で100万ルーブル以上を投じました(アラル海消滅の遠因は彼にあるとも言える)。

現在もタシュケントの中心部に残る彼の宮殿は1891年に完成したもので、二人が訪れたときにはまだ入居したばかりだったでしょう。ここには彼の収集した美術品が集められ、それらは後にタシュケント美術館の基盤となります。建物の方は現在ウズベキスタン外務省の迎賓館として利用されています。

1917年に革命が起こると、彼は宮殿に赤旗を掲げ、臨時政府に祝電を送りました。臨時政府の首相となるアレクサンドル・ケレンスキーは少年時代をタシュケントで過ごしており、彼とは個人的な親交がありました。

そして単なる国民ニコライ・ロマノフとなった彼は、追放されていたサンクトペテルブルクを訪れる自由を得、そこで義理の娘や孫たちに会いますが、すぐにタシュケントに戻り、1918年1月26日に67歳で亡くなりました。最高齢の大公であった彼はしばしばボリシェヴィキの弾圧の犠牲となって処刑されたと言われますが、以前より喘息を患っており、普通に肺炎で亡くなったようです。

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