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『アジア横断自転車旅行』(1894年)その13:ハミ

ウルムチ(F)から天山北路を東へ。


 我々は天山山脈の南方に広がるタリム盆地の砂漠をできる限り避けるため、ウルムチからグチェン[奇台]とバルクル[巴里坤]を経由してハミ[哈密]へ向かう北ルートを取ることに決めた。

 総督によって任命された二人の護衛が我々を引き受けて、次の中継地点で引き渡すことになっていた。彼らには、我々が無事に到着した際に次の当局者によって署名されるべき書類が渡された。この方式はルート上のすべての主要な官吏によって採用された。それはパスポートに記載されたロンドン公使の要請に従うだけでなく、主として我々の自転車展示に報いるためであった。何度も困惑した護衛を未署名の書類と共に戻らせることがあったが。もし我々が通常の方法で旅をしていたならば、これらの恩恵が与えられることはなかっただろうし、同じ旅をキャラバンで試みた多くの人々と同様に、地方の障害によって計画が完全に頓挫していたであろう。中国を旅する際に不可欠な官吏や民衆の善意に対して、結局のところ我々の自転車こそが最良のパスポートであった。自転車はどこでも外国人への反感を解消し、我々は温かく歓迎された。

 兵士たちの服装は非常に絵画的であった。緋色のベストの前面と背面には、黒い絹糸で軍の資格を表す文字が刺繍される。ゆったりとしたズボンを乗馬用のつなぎに重ねるが、脚の前と横だけを覆い、後ろは中国式長靴の上部の布のところまでしかない。帽子の代わりに模様を染めた布をアメリカの洗濯婦のように頭に巻き付けている。
 クッションの良い鞍も高速走行による絶え間ない揺れから彼らを守ることはできなかった。足を止めるたびに彼らは好奇心旺盛な群衆に向かって路上での体験を長々と語った。サイクロメーターが一マイルごとに「ディン」と不思議にも鳴るということを説明するのを聞くのは面白かった。しかし大抵の場合、クァイ・ティ・ヘン[快的很](とても速い)という言葉で締めくくっていたことから、何が彼らに最も印象を与えたのかが知れた。
 また、彼らは日中の暑い時間帯に旅をするのを非常に嫌がった。中国では夏の旅はすべて夜間に行われるからだ。彼らは、我々が放っておいて欲しいと頼んでおいたにも関わらず、夜明けの数時間前に我々を起こして出発させた。
  我々がバルクルまで一週間で走った距離は、一日五十三マイルであり、これは帝国内を通じての平均より八マイル多かった。良好な自然の道と好条件のおかげである。サイクロメーターが故障する万里の長城までの間、我々はクルジャからの距離を正確に測定した。そうして中国のリ[里]の長さがタエルの価値以上に変動することがすぐに分かった。時と場合によって百八十五から二百五十までが一度と算出され、方向によってもかなりの差があった。この速度では護衛が我々と同行し続けることは不可能であったのは言うまでもない。公的儀礼は今や先行する伝書だけとなった。
 このとりわけ荒涼とした地域を行く際、我々は何度かアンテロープや野生のロバの群れに出会った。それを現地民がフォークで支える長くて重い銃で狩っていた。道端の野兎が極めて無警戒であったおかげで、リボルバーを用いて肉の夕食という贅沢を手に入れられることもあった。

バルクルの中国人行商人

 バルクル(タタール)では、減少しつつあるロシアの影響に代わって、イギリスの影響の最初の兆候が現れ始めた。もっともロシア製品の跡は万里の長城を越えたはるか先でも決してないわけではなかったが。イギリス製の粉砂糖が、ロシア製の角砂糖に取って代わり始めた。ゴムタイヤのことはロシア式フランス語の「エラスティク」に代わり、「インディア・ラバー」と呼ばれるようになった。英語の文字も、地元民が使用する古紙や袋に認められ、さらに兵士が着用する金色のボタンには「トレブル・グリット(三重メッキ)」の刻印があった。

 ここからハミへの道は、南に方向転換し、海抜九千フィートを超える峠で天山山脈の支脈を横切る。この山脈は二つの歴史的な大街道の間に障壁のように立ちはだかり、移民の西への波を一部はカシュガリアへ、他をジュンガリアへと分岐させた。

 峠の南斜面では、スーチョウ[粛州]からウルムチへの電信柱に用いる松の丸太を引く大勢のロバのキャラバンにいくつも出会った。今年の六月、新聞に次のような記事が掲載された。

「数か月以内に、北京は電線によってサンクトペテルブルクと結ばれる。その結果、全文明世界の電信網と繋がることになる。トルキスタンの『ガゼット』誌の最新号によれば、北京からの電信線は西にカシュガルまで達している。ヨーロッパからの電線の終端はオシュにあり、大西洋から太平洋までの直接電信通信を遮るのは、今やわずか約百四十マイルの区間だけである」

ハミへの途上にある中国の墓

 ハミは不可欠な都市の一つである。グレート・ゴビの縁にあり、「南路」と「北路」、すなわち西方への南ルートと北ルートの交差点に位置するこのオアシスは、無くてはならない休憩地である。我々は必要な修理を行い、砂漠での苦難に備えて体力を回復するために二日間滞在している間、主要な官吏たちと通例の挨拶を交わした。

 社交儀礼に関して、中国人、特に「文人」たちが、西洋の野蛮人を見下すのも無理はない。礼儀は一般にエアクッションに例えられる。 中には何もないが、衝撃を見事に和らげる。単なる技術としての礼儀について、おそらく中国はその頂点にある。西洋人には混乱を招く苛立たしいほど多くの敬称は、ここでは単に階層的な優劣関係を維持するために用いられている。
 「外国人」に対して特に礼儀正しく振る舞いたい場合、物を知る官吏は、いつものように握り合わせた両手を額の前に掲げてホマ[好嘛]と挨拶する代わりに、その手を我々の掌の上に置く。そのため中国人と握手をする際はしばしば手が一杯になった。

中国西部の町の風景

 名刺を交換した後、歓迎の意を示すために、彼らはその地位に応じて徒歩、馬車、または輿に乗って訪れ、常に多かれ少なかれ従者を伴った。お返しに我々が訪問するときは、いつも自転車で行くことが求められた。通訳が見つかれば同伴し、いなければ我々だけで行ったが、我々の中国語はまだひどいものだった。
 ロシア語は大いに有用だったが、常に直接的なものではなかった。例えばシチョ[?]のトータイ[道台]との会話では、我々のロシア語はまずトルコ語に翻訳され、それから中国語に訳されなければならなかった。
 こういった会話で、より知的なものでは、我々の国やその他の国のことが話題となり、特にイギリスとロシアに関して、アフガニスタン国境で戦争が始まったという噂があった。
 しかし一般には、ほとんどの会話は「何歳ですか?」というような些細な質問の連続だった。我々はすっかり髭が伸びて、しばしばイェ・レン(野人)と呼ばれていたので、年齢は高めに見積もられた。あるときなどは六十歳と推測されたこともあった。中国人はその歳になるまで、このような髭は生やさないからである。我々はしばしば特に理由もなく「兄弟」と呼ばれることに驚いたが、結局、「パスポートの名前に二人共『ミスター』とあるから」と言われた。

中国語の勉強

いや、君ら兄弟にしか見えんよ。

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