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『アジア横断自転車旅行』(1894年)その10:ピシュペク、ヴェルノエ
今回はキルギスタンの Bishkek (E) から。シルクロードの旅も中国が近づいてきました。
自転車事故の結果、我々は数日間ピシュペク[ビシュケク]にある植物園の客となった。ここはサンクトペテルブルクにある帝国植物園の分園であり、外国の種子や植物を使った価値ある実験が行われていた。桃はうまく育たないが、リンゴ、ナシ、サクランボ、そして各種のベリー類は本国と同様に育つと聞かされた。しかしライ麦はアメリカで一年で達する高さに三年を要する。
ここの人々はロシア人を通じてアメリカやアメリカ人に対する誇張されたイメージを持つようになっていた。あちこちの駅舎でアメリカの有名人のクロモリトグラフをたくさん目にしたが、一番多かったのはトーマス・A・エジソンのものだった。彼の蓄音機はすでにピシュペクに登場していると聞かされたが、現地の人々はそれが何であるか理解していないようだった。「それより良い音楽をいつも聴いているのに、何故」と彼らは言うのだった。
遠く離れたこの国でもドクター・タナー[ヘンリー・S・タナー、断食療法を自ら実践して有名になった医師]は、それなりの名声を得ていた。冬に山へ派遣されたキルギスの使者が雪の中で道に迷い、二十八日間食糧無しで過ごしたことがあった。彼は最後には飢えで正気を失った状態で発見された。何を食べたいかと尋ねられると、彼は「全部」と答えた。彼らは愚かにも「全部」与えたが、彼は二日後に死亡した。彼は長いこと「トルキスタンのドクター・タナー」と呼ばれた。
通常の郵便路から七十五マイル外れて、我々はイシク・クル湖を訪れた。およそジュネーブ湖の十倍の大きさで、標高五千三百フィートに位置するこの湖は、おそらくその標高においては世界最大のものと思われる。わずかに塩気のあるその水は決して凍らず、さまざまな種類の魚が豊富に生息している。我々はそれらをロシア人漁師の釣り糸から外す手伝いをし、その後、湖岸近くの彼の簡素な小屋で共に味わった。ナリン砦から雪を頂くアラ・タウ(「影の山」)を越えて来たばかりのロシアのコサックもそこにいて、漁師の娘に何度も視線を向けていたので、その訪問の目的はすぐに察せられた。
この湖へ登る道中、名高いブアム隘路、あるいは「幸福の峠」を通る際、我々はアジアを巡る旅の中でも最も壮大な景色を目にした。逆巻き泡立つその圧倒的な急流は、水量さえあればナイアガラにも匹敵するだろう。
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我々は郵便路へ戻るのにアラ・タウ山脈を越える未踏の道を行った。チュ川の谷には、キルギス人のテントと放牧されている羊や牛の群れが点在し、我々は低く垂れ込める雲の中へと神秘的な階段のように続く荒れた道を自転車を押して行った。それは自転車で通った中でも最も急な坂道の一つだった。景色は壮大であったが、寂しかった。緑の斜面に点在する野生のチューリップやナデシコ、バーベナが、我々の過酷な労働を和らげる唯一の慰めとなった。
ちょうど最高地点を越えたとき、一瞬雲が切れ、目の前にキルギス人の騎馬者二人が姿を現した。彼らは驚いて後ずさりし、我々を空の悪魔でもあるかのように見つめていた。そして我々が反対側のより緩やかな斜面を下ると、再び姿を消した。
午後遅く、我々は平地に出たが、期待していた郵便路や駅舎は見当たらなかった。目に入るのは散らばった岩の間にあるキルギス人のキビトカ[移動式住居]だけで、それはまるで崩れたピラミッドの石の間のエジプトのアラブ人のテントのようだった。
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我々はこれらの住居に向かい、急速に近づいている嵐のために、一晩の宿を願った。これはトマシャ(見世物)への期待から快諾された。羊毛の縄で繋がれた羊や山羊の列へ向かう乳搾りの女たちや、手綱のない馬で放牧された群れを追う騎馬の男が、テントからテントへとこの知らせを広めた。
日が暮れる頃には、キビトカは人で溢れかえっていた。我々は出入口の正面にある上座を与えられ、毛布や枕を敷いた席に座った。屋根の中央の開口部から煙を巻き上げる火の明かりで、我々のホストたちの顔を観察するのは興味深かった。我々はこれほど平和的な気質で、一方では臆病な人々に出会ったことはなかった。
邪眼を恐れることは、彼らの特徴の一つである。我々が落ち着く間もなく、イシャン、すなわち旅の托鉢僧が呼び寄せられた。「悪魔の車」が持ち込んだかもしれない邪悪な霊を追い払うためである。彼は入るなり肩をすくめ、トランス状態に入ったように震え始めた。
我々が出会ったこの托鉢僧は、平均以上の知性を持つ男だった。彼はインドを旅し、アメリカについて誰かが話すのを聞いたこともあった。この事だけで、彼が集団の指導者として振る舞うのに十分であった。我々が茶を飲んでいる間(これは彼らが最近ロシア人から取り入れた習慣である)彼は「アメリコン」について長々と聴衆に語った。
雨がいよいよ激しく降り始めた。中央の開口部にはフェルトの覆いがかけられ、一端を棒で支えて、くすぶる火から出る煙を逃がしていた。これは風向きが変わるたびに移動させられる。単なる円形のリブ構造を白または茶色のフェルト(住人が裕福か貧しいかで色が変わる)で覆っただけあるにもかかわらず、キルギスのキビトカ、より正確には「ユルト」は、激しい嵐の中でも砂上の家屋のようにはならない。その堅牢性と快適さは、それがどれほど迅速に解体して運搬できるかを考えれば驚くべきものである。村全体が半時間で姿を消し、夏は北へ、冬は南へと移動する。
道中、長いテントの骨組みやフェルトを背負ったフタコブラクダを伴うキルギスの隊商に何度も出会った。ヒトコブラクダはこの北方の過酷な気候に耐えられない。
男たちは常にラクダや馬に乗り、女たちは鞍乗りや荷役用に訓練された雄牛や去勢牛に座っている。男たちは決して歩かない。何か先導する必要がある場合、その役目は女たちに回る。常に鞍に跨っているため、男たちの多くはがに股になっており、彼らにとっては威厳の象徴である肥満と相まって滑稽な外見を呈している。
我々に対する好奇心がある程度満たされた後、我々のために羊を屠るべきだとの提案がなされた。肉やパンは裕福なキルギス人以外は口にすることはない。彼らに一般的なのはクミス、すなわちトルコのヤウルトに相当する凝乳や、その他の乳製品に、時に挽き割り麦を混ぜたもので、これが貧しい人々の常食である。
我々の主人の妻で、男性と同じように馬の背に軽々と飛び乗っていた逞しい女性が、大きく育った羊を毛皮をつかんで抱えながら戸口から入ってきた。彼女がそれを仰向けにひっくり返し、膝で押さえつけると、屠殺の名手が腰のベルトから短剣を抜き、周囲の人々がまばらな髭を撫でながら「バスマラ」を唱えるまで、それを高く掲げた。
一日の旅路に疲れ果てた我々は、宴の準備が整う前に眠りに落ちてしまったが、夜中近くに目覚めたとき、火の上で煮える大鍋から漂う香ばしい匂いが、さらなる人々の興味と人だかりを引き寄せていた。この時、最も良い部位が客人である我々のために選ばれた。それは独特の太い尾を持つ羊の尾の脂肪の塊と一緒に供された肝臓の一片であった。最上級のもてなしとして、主人はそれを液状の脂に浸し、手を伸ばして指で我々の口に入れてくれた。この際、キルギス人の礼儀を尊重すべく吐き気をこらえるにはかなりの努力を必要とした。彼ら特有の寛大さに従い、キビトカにいる全員がこの宴に少なからず参加することが求められたが、すべての作業を行った女性たちは、主人が食べ終えた後の残り物や骨で満足しなければならなかった。
しかし何事も分かち合おうとするこの姿勢には別の側面もあり、我々もまた、あらゆるものを彼らと分かち合うことを期待された。我々は目につく些細な装飾品や小物を贈るよう求められた。機械の余ったナット、ハンカチ、茶葉の小袋、または砂糖の塊など、何でも彼らの欲求をすぐに掻き立てた。最後のものは女性や子供にボンボン菓子のように思われていた。我々の主人の魅力的な娘「クミス・ジョン」は、我々のポケットから砂糖の塊を盗むことで遊んだ。宴が終わると、再び髭が撫でられ、天の恵みに感謝して厳粛にアッラーの名を唱え、それぞれが食事への感謝の言葉を口にした。
就寝前には托鉢僧が日没時と同様に祈りを先導した。祈祷用の敷物が広げられ、全員がメッカの方角に頭を垂れた。寝るための準備はキビトカの中に積まれている毛布を広げるだけであった。キルギスの人々は、このときも衣服をほとんど脱がないが、この状況下ではそれが理にかなっていると感じた。我々六人は火に足を向けて半ば円を描いて横になった。クミス・ジョンは家族の中でも明らかに愛されている存在のようで、キビトカの端には彼女のために粗末な作りの寝台があった。
かつてのアルマティであるヴェルノエは[ソ連時代に再びアルマティに戻る]、広い通り、低い木造や煉瓦造りの家々、そしてロシア語の看板を備え、シベリア的な景観を呈している。その大通りが閑散としている理由は、いたるところに見られる大地震による廃墟によってすぐに知れる。我々が訪れる前年の恐るべき地震によって数百人が命を落とし、近くの山全体が崩壊した。残留する住民たちの唯一の希望は、シベリア鉄道またはトランスカスピア鉄道の支線の建設か、ロシアによる肥沃なイリ州の再併合により、ヴェルノエを必要不可欠な中継地とすることだった。そのような周期的な災害にもかかわらず、ヴェルノエにはフランス人建築家ポール・L・グルデの才腕による中央アジアでも屈指の建築が存在する。その見事な三階建ての孤児院は、耐震性を試験するための実験的な設計に基づいて現在建設されている。
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我々の滞在時の楽しい出来事の一つはイヴァノフ知事によって提供された。我々は山中の夏季宿営地へ向かうコサック部隊の年次行進の先頭を務めるよう招待されたのだ。いつもの宗教儀式の後、彼らは市の広場から列を成して出発した。我々はやむを得ず数分遅れ、部隊が出発してしばらく経つまで追いつけなかった。アメリカとロシアの旗を並べてハンドルバーに掲げながら我々が先頭に駆け抜けると、部隊から歓声が次々と湧き上がり、知事やその一行までも帽子を脱いで応じた。宿営地では馬術の特殊演技を見せてもらえた。手綱を一振りするだけで馬は地面に倒れ、騎手たちはそれを盾として身を隠した。その後、全速力で駆け出し、地面に飛び降りて再び鞍に飛び乗ったり、足でぶら下がりながら、ハンカチ、帽子、または負傷兵に見立てた兵士を拾い上げたりした。これらすべての動作を我々はカメラで撮影した。
このコサックたちと彼らのキルギス馬の耐久力について、我々は実地試験を行う機会があった。一日の旅の序盤でコサックの伝令を追い越すと、彼はロシア人が自転車をそう呼ぶところの「ヴェロシペード」に大変興味を持ち、できる限りそれを観察しようとした。彼は五十五マイルの距離を一日中我々と同行した。彼の一番の楽しみは、草原の向こうの現地人たちにトマシャを見に来いと呼ばわっては、我々がアメリカから自転車で全行程を走ってきたアメリカの紳士たちだと説明し、その驚きようを見ることだった。
我々の速度は遅くはなく、かわいそうな連れは、しばしば鞭を使ったり、こう叫ぶことになった。「旦那方、もう少しゆっくり、うちの馬が疲れてます。町は遠くないので、そんなに急がなくてもいいですよ」。実際、我々の経験では、名高いキルギスやトルコマン種の馬でさえ、ごく普通の道でも、我々と同じように容易に迅速に旅できるものはなかった。
我々はヴェルノエで中国についての実際的な情報を集めようとしたが、親切な主人のグルデ氏を除き、皆が我々の計画した旅に反対した。彼だけが経験豊かな旅行者として、アルティン・イメルでシベリアルートから外れて中国の都市クルジャを訪れるよう勧めた。彼に言うところでは、そこで駐在するロシア領事に助力を仰げば、先述のロンドン駐在の中国公使から手に入れた中国のパスポートの有効性を確認できるということだった。
数日後、我々はバルハシ湖から航行する船の終点であるイリースク砦にある堅固なロシアの橋を渡り、イリ川の谷を遡っていた。ここで出会った新たな顔ぶれが我々の興味を引いた。中央アジアと中国の民族の遷移地帯において、今や我々は明らかに農耕民族であるドゥンガン族とタランチ族の中にいた。これらの人々に何度か客として迎えられた我々は、彼らの極端な清潔さ、倹約ぶり、勤勉さに驚かされたが、彼らの深く落ちくぼんだ目は無頓着な残酷さを表しているように思われた。
この人々のイスラム教のモスクは外観が中国の仏塔に似ており、彼ら自身も半ばキルギス風の服を着た中国人のように見える。女たちもまた顔を覆わないが、ステップ地方の逞しい姉妹たちよりもずっと内気である。
約束を堅く守るこの人々は、恩返しにも慎重であった。我々の見世物に対しては、菓子と黄色いドゥンガン茶が振る舞われるのが常だった。我々は手入れの行き届いた葡萄棚の日陰でそれらを味わいつつ、少年たちが奏でる奇妙な弦楽器の音楽、というよりむしろ不協和音を聴いた。その楽器の弓は二つに分かれて弦と絡み合っており、弓を引くたびに二本の弦を奏でる仕組みである。そしてもう一人の楽士が小さな棒で皿を叩いて伴奏するのが常であった。
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彼らはクルジャ地方のカルムック族を置き換えるために満州族によって移住させられた人々である。彼らは一八六九年に、かつてその支配者に流させられた血に対する恐るべき復讐を成し遂げた。人口二百五十万の肥沃なクルジャ州は、彼らの虐殺によって一面の巨大な墓地と化した。付近一帯には沼と化した運河、放棄された耕地、荒れ果てた森、廃墟と化した町や村が広がっており、未だに殺された者たちの白くさらされた骨が地面に散らばっているところがある。
イリ谷を遡っていくと、トゥルゲン、ジャルケント、アッケント、ホルゴスといった町の跡を示す石積みが連なっていた。これらの名はロシア人がすでに開拓地で復活させつつある。これらの中で最大のジャルケントは、すでに撤退したクルジャに代わる将来の国境の町となる。ここから二十二マイル東に、ホルゴスというロシアの砦がその名前の川の畔にあり、その川は一八八一年の条約によって中国の国境線となった。
浅瀬を見下ろす岩棚の上で、ロシアの歩哨が寂れた前哨地の孤独の中を巡回していた。彼は渡し船代わりのロシア製のテレガ[四輪馬車]で奔流に突入する我々を立ち止まって眺めた。
「すべて良し」と彼が叫ぶのが聞こえた。ごつごつした川底を乗り越えながら、我々はロシアから中国へと渡ったのだ。「ああ、そのとおりだ」と思った。「『終わり良ければすべて良し』、だがこれはまだ始まりに過ぎない」。
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数分後、我々は中国税関のアーチ状の通路を駆け抜け、物憂げにしていた役人たちが視界を横切った物の正体に気づく前に、数ヤード先へ進んでいた。「止まれ! 戻れ!」と彼らはたどたどしいロシア語で叫んだ。喋り声、衣服の擦れる音、靴音、揺れる弁髪、そして阿片とタバコの煙が渦巻く混乱の中、我々は責任者の前へと連れて行かれた。彼は巨大な眼鏡をかけると、ロンドンの中国公使によって我々のアメリカのパスポートに書かれた査証を声に出して読み上げた。さらに彼が、この旅が「足で動かす車」によって行われていることを読み上げると、その驚きは一層増した。使用人たちはその「車」を興味深そうに指で触っていた。我々の服は、特にボタンが細かく調べられ、帽子と黒眼鏡は頭から取られて、大笑いしながら順々に手渡されて試された。
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この北西の辺境においてはロシアの影響力が支配的であるため、国境を越えてクルジャに入るにはロシアの書類だけで十分であった。本当に中国のパスポートが必要なのはこの先であって、場合によっては無効とされる恐れがあった。査証に判が押され、記入が終わると、我々は出発した。こうして現地人が「中央王国」ないし「中央帝国」と呼ぶ中国での六か月に及ぶ体験が始まった。中国人にとってコンパスには第五の方角が存在する。それは中心であり、中国なのである。
道をそれほど進まないうちに、我々の背後で蹄の音が聞こえた。一人のカルムック人が、何か不吉な表情を浮かべながら我々に向かって疾走してきた。我々は不安を感じつつ下車した。彼はおよそ二十フィート手前で立ち止まり、地面に飛び降り、四つん這いで這い寄ると、我々の前で「チンチン」すなわち地面に頭を打ちつけ始めた。彼はしばらくそれを続けると、言葉も発さず我々を呆然とした様子で見つめた。この行動に対する我々の困惑は、近くの村において無言の群衆から飛び出してきた一人の混乱した中国人が、我々の前で道に身を投げ出したことでさらに深まった。我々は巧みに彼の頭を避けて、長い弁髪の上を通過した。
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クルジャはロシアの領事館とコサックの駐屯地を有し、今なおロシアの電報および郵便を維持している。郵便は三、四台のテレガの列で国境から運ばれ、埃を巻き上げつつ原始的な道をガタガタと進む。武装したコサックが前後を駆け、先頭では伝令がロシアの旗を掲げている。クルジャの郵便局内でさえ、重装備の歩哨が金庫を守っている。この郵便隊は、我々が追いついたとき、午後の灼熱の中、小川のほとりで野営していた。そして、スイドゥン[水定鎮]の郵便駅に宿が用意されており、数日前から我々の到着が待たれているということを知った。我々はそこで一夜を過ごし、翌朝クルジャへ向けて旅を続けた。
クルジャは中国人によって建設され、彼らはここをニンユアン[寧遠]と呼ぶが、叩き土で作られた家々はロシア・トルキスタンの町に酷似している。ロシア人が撤退して以来、中国人は市街の周囲に高さ三十フィート、幅二十フィートの通例の四角い城壁を築いたが、胸壁はまだ建設中である。しかし、ポプラの並木、白塗りの壁、テレガなどが残されていて、一時的なロシアの占領を思い出させる。
数日間、我々は雑多な住民たちの関心の的となった。我々が滞在したロシア式宿舎の扉や窓は人々の群れに包囲された。宿主を守るため、我々は公開演技を行い、トータイ[道台]の許可を得て城壁の上を一周した。三千人の人々が街路や屋根の上に並び、下の周回路を走る四人のドゥンガン人騎手の挑戦者とのレースを見守った。一周の距離は二マイルであった。騎手たちは勢いよくスタートし、一マイルを過ぎた時点では先行していた。三つ目の曲がり角で我々は彼らに追いつき、二百ヤード先んじてゴールに達した。大きな興奮の中での勝利であった。クルジャ軍の司令官でさえ、駆けだした群衆に押しのけられるほどであった。
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説明されている「奇妙な弦楽器」は、おそらく「大胡琴」とも呼ばれる「四胡」のことだと思います。
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要するに二胡の弦が倍になったような擦弦楽器です。調弦は D-A-D-A でユニゾンで重複。そして奇妙にも弓の毛が2つに分かれていて同時に2本の弦を弾きます。といっても和音ではなくユニゾンで弾くだけなので、単なる音量増強か、微妙なズレを楽しむのか。 私も詳しくないので。