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『アジア横断自転車旅行』(1894年)その12:ウルムチ

さて、いよいよクルジャを出発して天山北路を行くのですが、彼らは初め通常の街道を行かず、そのまま東進して山越えのマイナーなルートをとったようです。イシク・クル湖のときもそうなのですが、どうもこの人たちは道を戻るぐらいなら山を越えるという無茶なこだわりがあるようで。あるいは単に山を登るのが好きなのか。


 七月十三日の夜明け、城塞に響いた長い角笛の音と臼砲の轟音が我々を目覚めさせた。別れの挨拶は前夜に済ませていた。親切なロシア人の主人だけが早起きし、食糧袋に追加の分を入れてくれた。彼によれば、タルキ峠の高原にあるキルギス人のアウル(集落)まで、食糧を得ることはできないという。そこを通り、スイドゥンから伸びる、いわゆる帝国街道につながる未踏の道を踏破する予定であった。我々はクルジャのカトリック宣教師たちから、そのルートに関するゴビ砂漠に至るまでの非常に正確な情報を得ていた。

クルジャのタランチ地区の通り

 「天山北路」という表現は「天山南路」に対比されるものであり、中国人がこの歴史的街道の重要性を十分に認識していたことを示している。それは万里の長城の最西端の門から、モンゴルのカン・ス[甘粛]を斜めに横切り、ハミ[哈密]、バルクル[巴里坤]を経てウルムチ[烏魯木斉]に至る。そこから天然の街道が二つに分かれ、一つは黒イルティシュ川の源流へ、もう一つはイリ谷に通じる峠へ、さらにはアラル・カスピ低地に向かう。後者のルートは現在、中国の砦や駐屯地が間隔を置いて監視しているが、ロシアがこのルートを放棄したのは、前者のルート上のチュグチャクやコブドの交易所に、より永続的な拠点を確保してからのことであった。ロシアはこの中華帝国を横断可能な唯一のルートへの最も自然な入口の重要性を早くから認識していたのである。

 暑い一日の登山の終わりに、輝く夕日に包まれながら、我々は最後にイリ谷を見渡し、その一時間後の薄明には、高原の豊かな牧草地に点在するキルギス人のアウルの一つに到着した。
 ここでも我々の評判がクルジャから広まっていることがわかった。族長が歓迎のアマン[安全の祈り]を述べながら進み出て、我々が通る際にはキビトカの入口の重いマットのカーテンが敬意の印として上げられた。
 夜の焚き火を囲んでさわやかなクミスが振る舞われる中、ホストたちはしばしば不安げな表情を浮かべつつ中国を横断する旅の危険について話しあった。すべての見解は終始我々に不利なものであった。誰もが失敗を予想し、さもなくばさらに悪い結果が示唆された。昇る月の光を頼りにそっとテントを抜け出すと、周囲をとりまく幽霊のような山峰さえも、これから起こる出来事の象徴のように影を投じていた。その光景にはどこか幻惑するものがあり、ひどく印象的だった。
 翌朝早く、二十人ほどの騎手が道中我々を護衛する準備を整えていた。別れの際、彼らは全員馬を降り、我々の安全を祈るアッラーへの祈りを捧げた。そして我々が去るとき、彼らは黙って喉に指を横切らせ、厳かな別れの挨拶をした。このように西方の遊牧民たちは、かつてチンギス・ハンを送り出したその地に対して、ほとんど迷信じみた恐怖を抱いていた。

クルジャの罪人に中国語を教わる

 エビ・ノール[艾比湖]に流れ込むクイトゥン川[奎屯河]の渓谷を下り、木々のアーチがかかる小川の岸辺から山鹿を驚かせながら、我々は心配性の友人たちから散々に話を聞かされていた国境山賊の住処であった場所に到着した。火山のような形をした山の麓には、かつての彼らの根城の廃墟があった。ほんの一年前まで、彼らが通りかかるキャラバンを襲いに出撃していた場所である。政府によって彼らが根絶されたとき、首領の頭は、垂れ下がる弁髪をつけたまま近くの棒に掲げられ、猛禽類から守るために籠で保護し、同じ悪名を目指す者たちへの警告として使われた。
 この寂しい場所で、我々は一夜を過ごさざるを得なかった。クルジャのロシア人鍛冶屋の不注意のために、歯車の一つが深刻な破損を起こしたからである。日のあるうちにキルギス人の宿営地まで十六マイル歩いて戻るには遅すぎたし、そこからクルジャまでの五十八マイルのために馬を入手するのも難しかった。しかし他に修理が可能な場所は考えられなかった。
 湿った地面と重い山の露の間で、我々の寝袋は厳しい試練にさらされた。刺すような寒さと、時折響く徘徊する獣の豹のような鳴き声で、その夜はほとんど眠れず、リボルバーを手に襲撃を警戒して過ごした。

街道に晒された山賊の首

 五日後、我々はこの場所を再び通過し、ハンハイ[干海]と呼ばれる広大な砂と塩に覆われた窪地を苦労しながら進んでいた。山の出水が砂の川床より塩を溶かし出し、運ばれた溶液が蒸発して厚い層を残す。これにより移動する砂丘の中に比較的硬い道路が形成されている。しかし、そこでの我々の進行は非常に遅く、十五マイル進むのに六時間かかった。この区間はトランスカスピア鉄道沿いのトルクメン砂漠のどこよりも手強かった。アネロイド気圧計によれば、海抜わずか六百フィートの高度で、七月の太陽の光の下ではフェルト帽もほとんど役に立たず、我々は一フィートの砂の中を自転車を押し引きしながら進んだ。それも首や顔に群がる蚊を払いのけながら。
 この低地全域において、この害虫はこれまでで最大かつ最多であって、近隣の村人たちが放置している山裾の湿地で繁殖していた。夜には虫除けのために、息が詰まるほど燻る火が戸口や窓の前で焚かれた。旅人は皆、手袋をして、頭と顔を目のあたりまで覆う大きなフードをかぶり、さらに手には馬の尾の鞭を持って肩ごしに前後に振っていた。しかし我々にはそのような装備がなく、昼も夜も苦しめられることになった。

クルジャの東郊外の中国式墓地

 ウルムチへの道中では、山の出水がこれまでのどこよりも頻繁で危険だった。夕方になれば、雪解け水と、日中に熱せられた平原からの冷たい気流のために、朝はほとんど乾いていた川床が溢れてしまう。ある川は幅一マイルにわたって十本に分岐し、浮動する川筋に岩石が転がっていた。こうした川を渡る際には、全力で自身と荷物のバランスを保たねばならなかった。そしてその間も蚊は容赦なく襲ってきた。

 マナス[瑪納斯]の手前の川は流れが速く深いため、公営の馬車を利用する必要があった。三頭の馬が足を踏み外して浅瀬から深みに流され、遠く下流まで運ばれてしまった。その時インドからの品物を積んだ、辺境の州やロシア国境に向かう中国のキャラバンも川を渡っていた。ヴェルノエのバウマン将軍は、このようにしてイギリス製品が遠回りして無防備な裏口からロシアに持ち込まれるのだと、我々に教えてくれていた。

 絶え間ない渡河と歩行のため、ロシア製の靴と靴下は(一つは狡賢い中国のスパニエル犬に引き裂かれかけたこともあり)もはや使い物にならなくなっていた。その代わりとして、短い白布の中国製靴下と紐付きサンダルを購入せざるを得なかったが、これらは軽く足に柔らかく、乾くのも非常に速いため、サイクリングや渡河には非常に優れた代用品であることが判明した。しかしながら、脛が剥き出しとなってしまうので、少なくとも正式な場では、古い靴下の上部を取っておいて活用しなければならなかった。衣類が乏しいために、路傍の小川で入浴する際にはリネンを素早く洗わざるを得なかった。そして、それを濡れたまま着て乾かすか、自転車のハンドルバーに吊るして揺らしながら走ることになった。西洋の慣習の枠を超えてしまえば、人はどれほど少ない物で済ませられるか、自分たちでも驚かされた。

罌粟の実を割いてアヘンの汁を作り始める

 マナスからウルムチに向かうと、耕作地と肥沃な土地が増えてきた。トウモロコシ、小麦、そして米が育っていたが、どれも丈が低く、貧相だった。米は、南部を除けば、一般に考えられているように中国の主食では決してない。北部、特に辺境地域では、それはむしろ富裕層の贅沢品とみなされる。雑穀や粗挽き小麦から作る生地を糸状にしたミエン[麺]が、庶民の食事の少なくとも半分を占めている。
 また、中国人がネズミを食べるという説は、我々の考えではあまり真実味がない。しかし、彼らがそれを食べないことを時折残念に思ったこともあった。一ヶ月以上肉なしの生活を送った後であれば、手に入るのならネズミ料理でも喜んで味わっただろう。一方で、あえて菜食主義を採用している中国人社会が存在することも知った。さらに、ロバ、馬、犬など、人間により有益な形で役立つ動物の肉は一切食べないという人々もいる。

税関長からアヘンの喫煙法を習う

 ウルムチ、または中国語でフン・ミアオ[紅廟子]つまり「赤い寺」と呼ばれるこの都市は、新疆総督府の所在地という古来の威信を今も保っている。その管轄はモンゴルとチベットの外の中国西部全域に及ぶ。恵まれた立地のお陰で、この都市は新たな災害のたびに迅速に復興を遂げてきた。現在ではチュグチャクの町を通じてロシアとかなりの交易を行い、またここで天山山脈に生じている大きな間隙を通じて中国とも交易している。それは急流に架かる堅固な橋の上にそびえる孤高の「聖山」の背後の絵のような盆地の中にあった。この都市は我々の中華帝国横断の主要なランドマークの一つであり、旅の大きな節目が達成されたのだった。

マナスの知事の前で自転車に乗る

 中国の都市に入る時、我々はいつも大急ぎで通り抜け、宿に着くと人が集まる前に自転車に施錠していたが、しかしウルムチはそのような手段をとるにはあまりにも広大で複雑だった。我々は大通りで降車せざるを得ず、興奮した群衆が押し寄せてきた。その中に少しロシア語を話す中国人がいて、彼は我々を街外れの快適な宿に案内することを請け負った。
 この街頭パレードは宿の中庭に圧倒的な群衆を集め、そして全市民に「異国の馬」が来たことを告げ報せた。聞くところによると、一ヶ月前に「二人の新世界人」が「奇妙な鉄の馬」で通過するので、誰も妨害すること罷りならぬ、という布告があったらしい。このために市民の好奇心はこの上なく煽られていたのだ。
 近くのレストランで夕食を終えて戻ると、我々は新たな光景を目にした。我々の宿の扉と窓は、抑えきれない群衆を防ぐため、箱や綿の束、大きな車輪で塞がれていた。宿の主人は涙ながらに動揺しており、手を絞りながら外に出てきて、我々が入ろうと試みれば、家が壊れるほどの混乱が起きるだろうと懇願した。そこで我々は群衆の煩わしい好奇心から逃れるために、梯子で屋根に登ることを許してもらった。我々はその場所で夕暮れのひとときを過ごし、下の群衆は多少は押し留められたものの、諦めることなく我々の一挙手一投足を見守っていた。やがて夜が訪れると降り始めた霧雨がようやく我々を救い出してくれた。
 次の朝、兵士たちの一隊が包囲を解くために派遣され、同時にツォングト[総督]から地方刑務所の監督官に至るまで、各官吏から贈物が届き始めた。贈物をどれだけ受け取るべきか、そしてその受け取りの際にどれだけの金品を渡すべきかという問題は、中国の礼節の中でも最も微妙な点の一つである。しかし、その過大な量と種類の中で、我々は途方に暮れてしまった。果物と茶が届けられ、肉や鶏、さらには生きた羊さえもやって来た。贈物と共に送った我々の中国語の名刺には(中国ではこれが大いに地位の証となる)、返事があり、要望通り我々の自転車を披露する時刻の指定があった。

ウルムチのある僧侶の記念碑

 予定時刻よりずっと前に、宿屋から市の反対側にある総督の宮殿へ向かう通りや屋根は、人々で埋め尽くされており、我々の要請で配備された兵士が、我々が並んで通れるように道を開けた。しかし、それでも群衆は我々の方に押し出されてきて、また車輪に棒を突っ込んだり、帽子や靴を投げたりするのを止めなかった。総督の宮殿が見える頃には、群衆は完全に我々を取り囲んでいた。それは我々が今まで経験した中で最悪の混雑だった。群衆がますます辛抱できなくなる中、我々はどうやっても自転車に乗ることができなかった。彼らは我々に乗るように叫び続けたが、スペースを与えようとはしなかった。外側の者たちは内側の者たちを我々に押し付けた。我々は宮殿の門へ向かって進む中、車輪が押しつぶされないように、かろうじて均衡を保っていた。その間ずっと、前方で馬に乗った我々のロシア語通訳マフーが、群衆の頭上で荒々しく叫び、ジェスチャーをしていた。
 宮殿の門には二十人の兵士が配置され、棒で群衆を抑えようとしていた。我々がその兵士たちの所に到達すると、彼らは我々と自転車を急いで囲いの中に引き入れ、そして手が届く範囲の頭や肩を(不運な通訳マフーの頭まで)叩いて群衆の波を食い止めようとした。しかしそれは無駄であった。すべてはこの押し寄せる人波に流されてしまった。我々を迎えに出てきた総督自身にもどうしようもなかった。彼ができたのは、来るべき展示のために宮殿の中庭周辺にスペースを作るように頼むことだけだった。
 その午後、我々の控えめな曲乗りや特殊運動の試みを目撃した彼らは、素晴らしきツウィー・ター・チェー[自轉車?]、すなわち二輪車を讃えて、数千の親指を上げた。宮殿で総督に招かれた軽食を終えた後、我々は裏口から退出し、遠回りをして宿屋に戻るよう助言され、群衆には我々が前から出てくるのを暗くなるまで待たせることとなった。

ウルムチの銀行

 中国ではレストランや茶館が西洋のクラブの役割を果たしている。最新のニュースやゴシップは食事や賭け事をしながらここで広まり議論される。我々が何度も目にした運試しの遊戯の一つは、互いに指を突き出し、大声で叫ぶものであるようだ。実際には数字を合わせるゲームであり、中国人は指で十までの数字を表す。
 翌朝、我々が混み合ったドゥンガン(土着のイスラム教徒)のレストランに入ったことは、前日の出来事についての興奮した会話が始まる切っ掛けとなった。我々はすぐに一人からお茶を勧められ、別の人からはトゥンポーサ[糖包子](ナッツと砂糖のダンプリング)の朝食を勧められ、さらに三人目の人がソジュウ[燒酒](中国のジン)の缶を持ってきて「一緒に飲もう」と誘ってきた。
 国中の中国人は食べるために生きているように見える。美食家のこの民族は優れた料理人を育んできた。ゴビ砂漠以外の中国での食事は、トルコやペルシャのものよりはるかに良く、そのおかげで増していく苦難にも耐えることができた。
 辛味の効いたソースを添えた薄切り肉と野菜の煮込み、酢漬けのラディッシュとタマネギの薄切り、モーモー[饅頭?](中国式蒸しパン)二つ、それに茶のポットで、通常一人あたり約三セントと四分の一で済んだ。
 中国ではすべてが箸で食べられるように薄切りにされている。我々は最終的に箸で鳩の卵をつまめるまでに上達した。これは箸使いの技の奥義である。中国人は甘味よりも酸味を好む。砂糖はめったに使われず、茶には絶対に入れない。実際、上流階級の用いる花茶は、砂糖なしのほうが美味である。
 小さな町の多くでは、我々がレストランを訪れると店主にかなりの損害を与えることになった。我々を追って群衆が押し寄せ、テーブルや椅子や食器を倒しながら我々の周りに集まり、息の詰まるようなアヘンやタバコの煙を空気に加えながら「外国人」の食事を観察するのだった。

中国西部のメイド

 ウルムチの地方造幣所を訪れた際、先述のチェン(円形貨幣)の原始的な製法を目にした。これらは西洋のように切断して打刻するのではなく、鋳造で作られていた。

 我々は造幣所の監督から出発日の朝に特別な朝食に招待された。中国人は東洋で、そして我々が知る限りヨーロッパとアジアの大陸で唯一、アメリカ人のようにしっかりした朝食を摂ることを好む。これはパンと薄い茶だけで日中の労働の多くを強いられるロシアの習慣よりも、はるかに我々に適していた。

スタイリッシュな中国官吏の馬車

麦とか米の話をしているのに、なぜか写真はケシ畑。

アヘン戦争から半世紀経ったこの頃になると、中国国内でもアヘンの生産が本格化しており、品質でもインド産に負けないようになっていたようです。この後イギリスがアヘン貿易から手を引いたのは、国内外の非難とか政治的な問題よりは、単純に儲からなくなってきたのでしょう。


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