見島の歴史(20)見島と鯨捕り

 古く日本の捕鯨は、山口県外海から始まったと言われ、その歴史は古い。昔から見島では、鯨のことを「勇魚(いさお)」と呼んでおり、日本海には、多くの種類が生息し、見島周辺海域に廻遊してきた。その原因は、北からの寒流(親潮)にプランクトンが多く、鯨の餌となる大型のアミが多くいたことがあげられる。

 鯨の廻遊時期は、11月から3月頃までの冬場であり、捕鯨もこの季節であったという。見島年中暦によると、「2月18日は、宇津観音にナガス鯨の寄る日」と記され、毎年この時期に「寄り鯨」があったことが記されている。

 「寄り鯨」とは、「死んで漂っている鯨、銛などに打たれて手負いとなった鯨、原因不明で磯にうちあげられた鯨」を言う。

 見島での捕鯨の始まりは、宝永元年(1704)九州備前(佐賀県)で捕鯨業を営んでいた松島与五郎が、船団で入漁してきたのが始まりである。当時は「突捕式捕鯨」と言って銛で突いて捕る装備も簡単であったが、与五郎は、極く初歩的で簡単であったが「網捕り式」を併用していた。この為、冬期の廻遊にもかかわらず、可成りの捕獲があったといわれ、荒海に対する技術があり、舵子の勇敢さがあげられている。

 与五郎に同伴して来島した妹(妾という説もあるが、不明)お千が、蜘蛛の巣作りや、網に獲物のかかった有様を見て、網の改良を思いつき、与五郎に進言し網に改良を加えると、漁獲頭数が急激に増して大漁が続いた。これを知った他の九州組が数組入漁して来て、正徳年中(1711〜1715)は、見島は大漁で大賑わいだった。松島与五郎は、見島与五郎とも呼ばれ、鯨大尽として名をなしたと、中野文書(安政4年(1857))に記されていて、高見山に95本の鯨塚を築いたとあり、1000本の鯨塚を築くのが目的だったともある。(鯨塚の一部は現存)安政3年(1856)に渡海して、池永氏の記録によると、漁船39艘、漁人480人、納屋人82人とあり、見島に入漁した数組の合計とみられるが、はっきりとは分からない。これらの人々は、本村、宇津村に分散し、石原、砂見田が鯨の解体場として利用されたとある。(中野文書とは、長門市通の住人で、中野半左衛門の記した書で、永代帯刀を許されれた人である。)

多田穂波著「見島と鯨」より抜粋

(文責 福永邦昭)

※原文ママ

引用元 : 見島公民館だより わ 第31号(平成19年11月)

引用元 : https://www.city.hagi.lg.jp/uploaded/attachment/3088.pdf

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