見島の歴史(17) 北前船その1

宇津村の開拓が、北前船の寄港によって急激に進んでいった事は前号で記したが、北前船とはどの様な船で、どの様な役目を持っていたのだろうか。北前船は、近代以前に貨物、旅客の海上輸送をしていた船のことを称していて、廻船とも弁財船ともよばれており、七福神の一神で、福徳財宝の女神である弁財天にあやかった名称で、当時の大型帆船の総称である。 当初は、500石積み以下の小さな船で、東北、北陸地方からの天領米や藩米を京都、大阪地方に運ぶ手段として始まったものである。

小さな船では沖合を航行することはできず、近くの港に寄港しながら、若狭の国、小浜に運び陸揚げし琵琶湖に運び、水路を経て京都、大阪に運搬していたが、この方法では搬送が煩雑で手数料も多くかかる為に、日本海の「西回り航路」が寛文元年(1661)に開拓され、次第と船は大型化されていった。「西回り航路に対し東廻り航路は(大阪から江戸、北陸、東北地方)先に開拓されていて、この航路を航海する船を、菱垣船、樽廻船と呼んでいた。」こうして北前船が大型化され、沖合を航行することにより、本土の小さな寄港地は次第と寂れていった。萩浜崎港もそのひとつであったといわれ、反面、宇津港には、多くの船の寄泊があった。

寛文11年(1671)に、寄港が始まり、乾島略誌(見島のことが記されている文書) によれば、「北越、東奥の諸船、帆林の如く風に阻まれて弯中に泊す」とある。
これらの諸船は、風待ちの為、又時化による寄港であったとみられ、沖乗り船頭、長三郎の海上日記によれば、「角島にて南風つのり、波高まり、角島前より見嶋におとす」とあり、 浜田方面から南航中の出来事が記されている。

大阪から出港する北前船は、酒、紙、煙草、米、綿、砂糖、塩、莚等を積み、春に海賊の出没する瀬戸内海を抜け、下関を経て北海道へ、各地で荷物を売買しながら北上し、北陸や北海道の各地で逆に買ったもの、鯡、粕、昆布、数の子、ふのりなど海産物を売買しながら、10ヶ月から11ヶ月にかけて、大阪に帰港する1年を要する長い航路であった。

こうして荷物の売買をしながら各地に寄港する北前船のことを、地方によっては「買積船」とも呼んでいたという。


(文責 福永邦昭)

※原文ママ

引用元:見島公民館だより わ 第26号(平成19年6月)

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