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「未知との遭遇」、宇宙人のソウテイ【2020年3月5日】

【導入】私の映画録

今日はGEOの旧作100円に惹かれ、「未知との遭遇」を借りてきた。
そして観た。

私の家系には映画を観る習慣と文化がなく、メディア作品のネタについていけない節がある。
そのため最近は古典を中心に、店舗で目に付いたものを借りる機会が多くなった。というか多くした。

このごろ借りて観た作品で言えば、
「ゴーストシップ」
「暁に祈れ」
「紳士協定」
「ファイト・クラブ」
「ショーシャンクの空に」
「スイス・アーミーマン」
「運び屋」
「スターリン葬送狂騒曲」
「ゾンビ―ワールドへようこそ」
などである。なんか忘れてる気がするが、編集によって後で加えればいい。

何となくではあるが、刑務所のなかで上手くやってく系の映画が好きだ。
(少しネタバレ入ります。注意いたせ。)特に「ショーシャンクの空に」は大変気に入った。刑務所ものにしては珍しいと思うのだが、体ではなく頭脳で成り上がり、上手くやってく様に憧れたのかもしれないし、刑務所の外の世界の広さや色彩を改めて感じさせる「つくり」に魅了されたのかもしれない。とにかく最高の映画のひとつではないだろうか。

私の映画遍歴はこのくらいで。

【はじめに】とりあえず感想から

「未知との遭遇」は聞いたことだけはあった映画で、しかしそれだけであった。
映画の構造は
コズミックホラー➡ファミリー映画(崩壊型)➡少しのロマンス&アクション➡動物映画にみられるような「友情」や「通じ合い」の様子
の4要素に分割できると思う。そして主人公の貫徹した宇宙人への偏執が裏にべったりと塗り込まれている。

今日、はじめて観た感想として、一番強いのは、「逆じゃん。」である。
(その他の感想は【余文】に記す。)

この感想についてが本稿の主旨である。

要約:
「宇宙人、怖いだろ。だからこうして撮る。人々がそれを望むから。」

【本文①】再度捕食される人類

宇宙人、と聞いて思い浮かべるそのイメージは十人十色、様々ではあるが、大体グレイ型かエイリアン型などで、地球の生命体をさらっていくものが多いのではないだろうか。

いずれにしても末恐ろしいものかな。恐ろしいよな。

そう、恐ろしいのである。警戒信号である。かつて「イナズマイレブンシリーズ」では、ゲーム版2作目のサブタイトルに「脅威の侵略者」と冠した。内容はもちろん、宇宙生命体が地球を乗っ取ろうとするものである。まさにタイトル通りではないか。

これが現代における宇宙人イメージである。

もう少し現代における宇宙人像を書き出してみる。

チュパカブラというUMAがいる。これはどういった生物なのかと言うと、小柄な体格で鋭い牙と爪をもち、その凶暴さから家畜や人間をおそい、吸血して殺してしまう(!)恐ろしい生き物、らしい。なるほど、UMAである。

なぜこのUMAを引き出したかと言うと、こいつが近年、宇宙人と同一視されているからである。おそらく現代人のもつ宇宙人の凶暴さのイメージと、その異形とも呼べる風体が共通・一致して、チュパカブラは宇宙人カテゴリーに組み込まれたのだろう。

とにかく現代において、前提として「宇宙人は人類の脅威である。」という了解があると結論付けたい。

切り替えて次へ。

「人間は考える葦である。」なんて有名な文言があるが、全くその通りである。知恵を絞らねば人はでかい猫にも負ける、弱い生き物だ。そもそも人は「人間」と表現されるように、協同をして社会的な構造をとらないとすぐに死んでしまう。本来、人は狩られる側の生き物であったのだ。

しかし、先の記述のように人間は社会を作り、科学技術を発展・発達させてきた。稀にそれによって自滅を呼ぶこともあるが、基本的にそれらによって「地球上における生存階層」の位置を上げてきたのだ。今では人が自然を捕食するのが当たり前だ。どんな動物だって兵器には敵わない。

人間の歴史を大きく振り返ると、自分から遠い種から始め、段々と自分たちの近くに向かうように侵略・支配を進めてきた。要は、まず自然を支配し、次に種の違う人類(他国、他宗教)を支配し、最後に同種の人間を支配してきたということである。(上記に矛盾するが、最初に支配するのは自分の周りではないかとも思う。そうでないと社会=集団として行動できず、一人でマンモスに挑むことになる。)

さて、人類の歴史は侵略の歴史であるが、次の侵略対象は深海か宇宙程度である。すなわち次に戦争をするのは深海人か宇宙人という事になる。
深海人の予想デザインは簡単である。大体、魚かタコかイカかヒトデを擬人化したものだろう。
次に宇宙人のデザイン=装丁=イメージはどうだろう。
何もイメージできない!現代の科学では星は神々の世界の住人でないと判明しているから、星を擬人化なんて科学に染まったつもりの我々にはばかばかしいし、かといって他にモチーフになるものなんてない。まさに「未知との遭遇」は頭の中でさえできないしまいである。

見えない敵が一番怖い。相手が見えないから勝手な想像でおびえる。

かつて誰だったか社会学者が言ったが
「本当の権力とは表に出ない、見えないものなのである。」だそうだ。

日本の妖怪だって光のない、暗闇が夜を覆う時代にはまだまだ跋扈していた。けれどもランプの登場で、瞬く間に消えてしまった。
実際にどうかは関係なく、見えないというだけで脅威におもえるのだ。

先手を打って宇宙を侵略したいけれど、人類が宇宙戦争をするにはまだ時間がかかりそうだ。その間に侵略されてしまうのではないか。
「あぁ、恐ろしい!何しろ相手は反重力装置や超光速ワープ装置をもつ、超技術生命だ。」

地球の頂点だった人類は、一転して宇宙の被捕食に転げ落ちた(感覚がした)。

【本文②】人間はおびえ、現実を見ず

ここで映画の話に戻る。

驚くべきことに「未知との遭遇」に描かれる宇宙人は、なんと、地球を全く侵略していない。たしかに調査のためか、十数人ほどを様々な時代からサンプルとしてUFO船内に持ち帰っていた。しかし、最終的に彼らは地球に返されているし、なんなら年を取らずに未来へ行けるのだから数十年は(中には数千年も!)得してる者もいた。S.スピルバーグ氏のイメージ=想定した宇宙人は友好的であったのだ。

なるほど、宇宙人はレーザーで人を溶かしたり、高カロリー補給食料として頭からかムシャムシャいかず、むしろ手を取り合える存在であったわけだ。

これには映画館の客も安堵のため息である。

自分の中の、「最悪の被害妄想=他者による支配・捕食」を否定してくれるこの映画のなんと素晴らしいことか!

その「素晴らしさ」ゆえにこの映画は名作となった。と考えてみた。

そういえばE.Tなんかも宇宙人友情物である。やはり、宇宙人友好映画は名作とされる。それは、人々がやさしい宇宙人を望むためか。

【結論】やはり人は葦のままだ

見えない敵を見て、その脅威におびえる現代。

「竹取物語」の月人みたく雅な存在だとは、もう感じられないのだろうな。
自らの歴史を見つめるほどに、外部からの来訪者というのは恐ろしく思える。

その妄想から目を逸らさせ、友好的な来訪者にすり替えるものしか受け入れられないのなら、やはり人は、踏まれて折れる、か弱い葦のままであった。


【余文】その他、感想を書いてみる。

と題してみても、そんなに量はないな。ファミリーパートのことばかりだ。

ここでは本文との関係の薄さから書けなかった感想を書く。

まずひとつ。ファミリーパートが本当に見ててしんどい。途中目をそらしました。
夫がUFOに遭遇して以降、もうそれしか見れず冷静に、熱狂していく。そおしてそれが妻を限界に追い込んだシーンはダメだつらい。夫がシャワールームで服を着たまま「俺は狂ってしまった」とつぶやくさまは家族関係のぶち壊しを大きく担った一言であった。そして「助けてくれ」「抱きしめるだけでいい」という悲痛を妻がもう受け止めきれてないシーンは妙にリアルを感じさせて、こっちまで限界が来た。SFというのは空想をリアルに描くものだが、ここはほんとに勘弁してください。SがシリアスのSになってますよ。

始めのほうに夫が電車の模型趣味に没頭して趣味を優先していくシーンがあった。この頃から夫は少し家族を疎ましく思っているし、またひとつのことに集中しすぎる性質をもっているのだと認識できる。妻のほうも積もりに積もったものがここで爆発したんだろうな、宇宙人なんてきっかけだったんだ。

あと、砂漠でラクダがすぐ上のヘリコプターを首で追うシーンがチラっとあったが、なんとなく無邪気にかわいらしくて、印象的であった。

あと宇宙船から人々が帰ってきたあと、手足がナナフシみたいに長くて背のヒョロ高い宇宙人が出てくる。その際に屈んで這いつくばるように出てきたが、宇宙船の設計者うあデザイナーは出入りのことを考えなかったのか?あれではバリアフリーは達成できない。宇宙人の技術もまだまだなものだな。




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宇宙に眼を向ける
試しに押しても罰は当たらないはずです。知りませんけど。