『君たちはどう生きるか』物語の加護を受けない真なる人。故にタブーも跳ね除ける。

 宮崎駿の最新作『君たちはどう生きるか』という映画は、非常に良い映画だった。そして、実におかしな映画だった
 今回はこの映画について自分なりに見出したものを書き残してみたい。結論は出るかわからないし、出ても曖昧なものでしょう。

 私は公開直後とつい先日の2回鑑賞した。たったのに2回でこの映画の全貌を語り尽くす!というのはまだまだ早計なので、ここには自分なりの読解の足掛かりとなる言葉を置いておくことにする。

おかしな映画。いったい何がおかしい?

 この映画、何かおかしいのである。
 それは過去の宮崎作品に比べて、というのももちろんだが、単純に「物語」としての"おかしさ"が感じられる。それは『千と千尋』のような明快なプロットが無いというのともまた違う、独特の"おかしさ"だ。

 その"おかしさ"は「行動や予感がどこにも着地できずに宙吊りにされる」ようなおかしさだ。

・眞人が初めて塔に侵入しようとする際、狭い入り口から階段を見上げる。上昇の予感をさせる。 → 実際には下の世界に降りていくことになる。

・眞人はアオサギの羽を使って弓矢を自作する。この物語の英雄の武器として活躍すると予感。 → 下の世界に降り立ってすぐにペリカン達に押しつぶされて弓矢はダメになってしまう。作り直したりしない。

・屋敷のお婆さんたちそっくりの人形を「触るな」と言われる。タブーを言い渡される。 → 触る。が、特に何も起きない。

 他にもいくつか宙吊りにされる行動がみられる。これが本作の物語としての独特な”おかしさ”である。

 見事に”物語”というものに調教されている私たちは、物語内でのイベントひとつひとつに着地点=オチ(落ち)を求めてしまう。「すべからく伏線は回収されるべき」と声高に叫び、それを綺麗に、アクロバットにこなすことこそが"物語"の品質に不可欠とさえ言ってしまえる。
 そんな私たちからするとオチを用意してくれないこの映画はとても”おかしい”。新人が作れば"物語として不出来"だと一蹴されてしまうだろうし、本作を見た人の中でもそんな感想を持った人は多いのではないだろうか。

 しかし、私はこの”おかしさ”には意味があると思っている。


”物語の加護"を受けない眞人

 この映画の「宙吊りの違和感」について、失礼ながら、はじめは宮崎監督の年齢のことを考えた。年と共に手と頭が追いつかなくなり、これまでの明晰な物語運びに”淀み”が出たんじゃないかと。
 ただ、内容を反芻していくうちに、これは意図を持って行われていることなのではないか思い始めた。「オチずに宙吊りする」ように仕向ける力がこの映画には働いている。

 眞人には”物語の加護”が働いていないと思われる。
 ”物語の加護”とは、キャラクターに与えられた問題を解決するための力や、危機を回避することのできる偶然などのこと。とにかく物語が止まってしまわないように、空中分解しないように、キャラクターたちに働く好都合な力である。
 ”加護”は著者が意図的に与えることもあれば、もっと大きな連綿と続く"物語らしさ”を保つために無意識、無人格的に与えられることもある。


 眞人に対して、そのような”加護”が働いていないような場面がいくつかある。

・武器の弓矢は下の世界ですぐに壊されてしまう。直すことも、より強い武器を手にすることもない。

・インコに占領された鍛冶小屋に侵入する際、アオサギにインコを惹きつける囮になってもらう。しかし、アオサギの”行動”虚しく、眞人が小屋に入ると普通にインコがまだいる。

・ヒミを連れていくインコ大王を追跡中、木組の階段を登っていくも大王に切り落とされてしまう。眞人が捕まっていられるところがなくなるほど徹底的に切り落とされる。なので、「間一髪、隠れて掴まってた!」ということはなく眞人は”ただただ”落下する。

・囚われのヒミを眞人が助ける、ということはない。ヒミは大王と大叔父の話し合いによって解放される。眞人にはヒロインを助けるような英雄としての力はない。

・そもそも眞人は英雄としてのアクションは起こさないし、起こせないでいる。武器を壊され、ワラワラを食べるペリカンを自分では追い払うこともできず、インコからはヒミに守ってもらい、また、結果的にヒミを救うことはせず、直接的にナツコを取り戻すこともない。

 "物語"が眞人を守ってくれないというのは、そもそも眞人に及ぶ"物語の力"が弱いからだ。それ故に眞人は"物語へ叛逆すること"も可能である。

・キリコにタバコをくれたら本物の弓矢をあげると言われるも、その提言を断る。本物の弓矢とはナツコの使っていた弓矢のことだろう。サギやカエルを退けたそのファンタジーの力を跳ね除ける。

・インコ大王に木の階段を切り落とされた眞人。ただただ落下。しかし、特に理由もなく”ただただ無事”。

・後継者になってほしい、という叔父の言葉をキッパリと跳ね除ける。3日に1つ石を積む、と言う具体的な世界を救う方法まで聞いておいてなお、その通りにことを運ばせない。

 インコ大王に階段を切り落とされる場面などは『天空の城ラピュタ』と比べてみると、その"加護のなさ"、”オチなさ”がわかるだろう。
 スラッグ渓谷でのドーラ一家との追走劇のシーン。線路の橋が崩れる中、シータを抱きかかえたパズーはギリギリの状態で橋に掴まる。しかし、ジリジリと手が滑っていき、フッと落下を初めてしまう、、、も、シータの飛行石のおかげで無事に地下に着地することができる。
 これはパズーとシータへの物語から与えられた"加護"である。

 対して、崩れる階段から落下した眞人はなんの理由もなく無事なのである。下にクッションがあったわけでもなく、アオサギに助けてもらったわけでもなく、不思議な魔法で守られていたわけでもない。
 命の危機が想定される「落下」というイベントに対して、理由もなく無事というのは"オチ"を消去するような流れである。「落ちた!……けど〇〇のおかげで助かった!」の〇〇そのものが抜け落ちて、「落ちた!……けど助かった!」となるのが眞人流。地面に落ちたのにオチていない不思議な宙吊りの状態である。
(逆の視点では「理由もなく無事」というのは最大級の加護とも考えられる。)


加護がないのであれば”タブー”も破ることができる

 眞人に及ぶ"物語の加護"および"物語の力"が弱いのであるならば、眞人には"物語の厄災"もあまり効かないことになる。物語が設定したタブーを犯したところで彼にとって大きな問題はない。
 タブーとは「何をしてはいけない、および、何をするべき」という規範のこと。現代では特に「してはいけないこと。禁忌」という意味合いがある。

 眞人はこの作品の中でいくつもタブーを犯す。

・地下の世界、王の墓から退く場面。キリコに「後ろを向くな」と言われるが眞人は足場の確認で僅かに後方を確認する。そもそも「向くな」と言われたのは、キリコの方を見るのに後ろを向いたからである。 → 特にこのことで王の怒りを買うことはない。

・キリコに屋敷の婆さんそっくりの人形を「触るな」と言われる。しかし、忠告を守らずにそっと触れる。→ 触れるも何も起きない。

・産屋の中に入る際、ヒミに「石が怒ってる、私だったら入らない」と言われるも、眞人は産屋に入る。後にそれがタブーであったことが大叔父とインコ大王の話で分かる。 → この際は石に気絶させられる。

・ヒミと一緒に大叔父に会いに行く際、草原の足元に石を見つける。眞人が触ろうとすると、ヒミは「触らないほうがいい、まだ何か残っているから」という。その瞬間は何もしてないように見えるが、実は眞人はその石をひとつくすねている。ラストシーンでアオサギに石を持っていることを問われた際「石のある草原で拾った」と言うのだ。

・ラスト、アオサギは眞人が地下世界から現実に石を持ち帰ってきたことを咎める。境界を超えて異世界のものを持ち出してはいけない、というタブーを眞人は犯したのだ。アオサギは眞人に「これだから素人は」とまで言う。

 鶴の恩返しや、イザナギの黄泉帰りに見られる「見るなのタブー」は世界各地で見られる"物語のモチーフ"である。『千と千尋の神隠し』のラスト、千尋がハクに「振り向くな」と言われるのもその一つだ。王の墓のシーンでの「見るな」は小さなヴァージョンだろう。

 タブーを犯すこと自体は物語の中では当たり前であり、それを引き金に悪いことが起きるというのが常である。鶴の恩返しでは娘は鶴になって夫婦の元を去っていってしまう。イザナギはイザナミと離婚することになる。逆に、千尋は振り返らなかったので、無事に元の世界に帰ることができた。
 物語内のタブーは基本的に犯すことを目的に出てくる。それはタブーを犯した後の厄災を期待させるものとして出現し、その期待に応えるために物語は進む。

 しかし、眞人の場合はタブーを犯すことで災難に遭うことはほとんどない。期待を期待のまま宙吊りにする"オチなし"がここにも出てくる。眞人にはタブーを犯すことでの"物語の厄災"があまり機能していない。

 我々はタブーを犯すと悪いことが起きる、と言う物語の力に慣れ親しんでいる。そして、犯しても何も問題のないものがタブーであることがそもそも"おかしい"とすら思えてしまう。この映画は、犯しても問題のないタブーが度々出てくるので、"物語としておかしい"と思わされるのだ。
 ここに”オチなし”の構造がある。「してはいけないことをすると、〇〇が起きる」の〇〇が抜け落ちて「してはいけないことをする」で話が終わる。「触るな、と言われた人形に触れる」で話が終わるのだ。トリガーが引かれた拳銃の弾はどこにも着弾せずに中に浮いたままになる。

 眞人へのタブーの効果がはっきり見られるのは産屋に入るシーンだけだ。ただ、そもそもこのシーンも「石が歓迎してない」と言うだけで、入るなと言われていない、明文化されてないタブーだ(ヒミは一応「私なら入らんけど」と言うが)。後々になって大叔父、インコ大王によってタブーであることが明かされるが、それは眞人に対してではなく観客に対して明かされるにとどまる。
 また、産屋に入った瞬間には何も起きていない。入ったことでの厄災というより、夏子の感情に呼応して石、紙垂が眞人を追い出そうとしているようにも見える。

 軽いものだが、明文化されていないタブーは他にも出てくる。

・アオサギが眞人を塔の中におびき寄せるシーン。母の模造品を作って眞人に嫌がらせをするのだが、その模造品は触れると液状化してしまう。

 眞人は触っちゃダメとの条件は言われない。眞人が触った後でアオサギは「触らなきゃもうちょっと持ったのに」と言う。ここには純度100%の悪意が感じられる。

 「犯しても問題のないタブーは物語的におかしい」と書いたが、現実にはそのようなタブーはたくさんある。

・箸渡し、立箸
・着物を左前にしてはいけない
・畳のヘリはふまない
・お守りの中を見てはいけない
…etc

 実際に呪われたり、縁起の悪いことが起こったりするわけではない。それは頭の隅ではみんな気づいている。でも心はそうは思っていない。
 このような日常的な生活でのタブーの背後には宗教的、文化的な”物語”が潜んでいることが多い気づかないうちに大きな文化の"物語の力"の渦の中にいるのだ。タブーは"物語"の影響下にある人に機能する。これらの禁忌を犯してはいけない理由を調べてみてほしい。何かしらの"物語"が出てくるはずである(逸話という意味でなく)。

 眞人が石を現実に持ち出したことでアオサギに「素人だ」と言われるのは、眞人が塔の世界の"物語"から外れた人間だということを示唆している。その世界のタブーの門外漢であるのだ。
 "箸素人"である例えば西洋の人間が意識せずに箸渡しをしてしてしまうことがあるだろうし、"ヒンドゥー素人"が左手でカレーを食べてしまうこともあるだろう。


そもそも"物語の力"はあるか?

 眞人は"物語"の加護も受けず、"物語"へ叛逆し、"物語"の厄災をものともしない。ここまでくると、この映画の中での"物語の力"というものそのものへの懐疑が出てくる。下の世界の人々は眞人に対して「あれをするな」「あれをしろ」というが反逆児の眞人はそんな言葉を気にしていないし、それを守らなかったことで大きな厄災に見舞われることもない。そんな世界に”力”があるのだろうか。

"物語の力"がうまく機能していないと思われる部分はまだある。

・眞人はアオサギの一部である"風切りの7番"の羽を使ってアオサギを脅す。どうも"7番"をちぎるとアオサギも苦しいらしく、アオサギもまたちぎられることを恐れている。井戸のシーンで、眞人はその"7番"を誤ってちぎってしまう。アオサギはそれを"見て"ふにゃんと力が抜けてへたり込む。

 感染呪術的なこのエピソード。"7番の羽"がちぎられたところで、実際アオサギにそこまで大きな影響はないようなのだ。羽をちぎったことで眞人とアオサギが口論してる様子をキリコは「喧嘩」と言っている。その程度で済む内容だったのだ。また、ちぎれたのを"見て"からへたり込む、というのはアオサギがちぎれたことを視覚的に認識して初めてその効果が現れるようでもある。
 "オチ"がないとまではいかないが、かなり弱いエピソードであろう。先のタブーにも重なるが「羽をちぎってはいけない」という伏線から想定される結果として弱い。脅しに使えるほどなのに結局そんなんで済むの?となる。
 そうなると、そもそも「羽をちぎってはいけない」というのが犯しても問題のないタブーだった可能性も出てくる。

・アオサギは眞人に開けられたくちばしの穴について「開けたものが塞がなきゃいけない」という制約(≒タブー)について話す。

 この話を聞いた眞人は「全てのアオサギは嘘つき」だったんじゃないのか?とアオサギに返答する。それはその直前の「喧嘩」の際にアオサギが「「全てのアオサギは嘘つき」は正しい」という発言していたからだ。
 これは嘘つきのパラドックスとして有名な命題である。真だと仮定すると偽になり、偽と仮定すると真になる、真偽決定不能な命題だ。ここに「正しいか正しくないか決まらない」という不明瞭さについての話題が差し込まれることとでアオサギの言う制約≒タブーが本当かどうか分からなくなり”物語の力”への懐疑がまた立ち上がる。

・インコ大王は、眞人の「産屋に入った」というタブー侵犯について、案内したヒミも同罪だとし、そのことをダシに大叔父に話をつけにいく。

 タブーを犯したのは眞人であるのに、インコ大王はヒミの罪として拡張し、それを取引材料に大叔父に話をつけにいく(確証がなくて申し訳ないが、インコ大王は大叔父の血を引いたヒミがタブーを犯したことで後継に相応しくないとし、大叔父の後の権力を握ろうとしていたのではないか、と思われる)。

 タブーの罪を拡張できること自体に、そもそものタブーの実質的効果がないことが示唆されているように思う。現実での法律の解釈を如何様にするか、と言う法廷の問題と似たところがある。"法律の解釈"が問題になるのは、法律自体が人間の決め事であるに過ぎないからである。
 法律を犯したことで神の鉄槌が我々に降ることはない。万引きに罰を与えるのも、不法侵入に罰を与えるのも地上の"法律を守るべきとする人間"であり、超然的な力によって盗みを働いた腕を切り落とされることはない。

 そんな現実の法律のように、下の世界でも罪の解釈が変わると言うのなら、そこに強制力のある”物語の力”が発動しているかどうかは怪しい。
 インコ大王は男児として大叔父の血を引いた眞人には目もくれず、ヒミだけを交渉材料とする。眞人は食ってしまえと部下に引き渡す。そもそもインコ大王は眞人の後継者としての力を知らないか、もしくはそんな血筋などには実質的な効果などないのだと理解しており、政治的な行動の建前としてヒミの方が有効だと考えているのかもしれない。

 インコ大王と大叔父と話がついた後にヒミは解放される。タブーを犯したことでのヒミへの影響は少ない。せいぜい気絶であり、永遠の眠りにつくこともなく、王子のキッスで目覚めることもない(その時王子は瓦礫の下にいる)。タブーの厄災を反転させる力は働かない。
 "オチなし"はここにもある。「タブーを犯した眠りの姫は〇〇のおかげで目覚める」→「タブーを犯した眠りの姫は目覚める」。

・大叔父はアオサギに眞人の案内役になるように言う

 アオサギには下の世界の統治者から眞人の牽引役という使命を与えらた。しかし、映画を観たみなさんならわかると思うがアオサギはその使命を全うしない。
 眞人が下の世界に来てからはしばらく顔を出さない。代わりに案内役はキリコが務める。ようやく眞人の前に現れるのは手負のペリカンとの会話の場面である。その後はナツコの場所に案内すると言い眞人と同行する。ようやくかと思いきや、その後に来るのは鍛冶小屋のシーンだ。
 鍛冶小屋を通らなければナツコのところにはいけないとアオサギは言う。しかし、インコに占領されているので難しい。アオサギが自分が囮になると見張のインコを引き寄せる。しかし、インコはまだ小屋の中にいて眞人はインコにあっけなく捕まってしまう。案内役としてはあまりの不手際である。
 インコに取り囲まれた眞人はヒミの力によって救済される(ここには眞人への物語の加護がある)。結局はヒミに夏子のところへ案内してもらうことになるので、アオサギは使命を果たさない。
 その後は案内役というより同行者といった具合で眞人のサポートをすることになる。

 物語の冒頭(映画中盤)に発せられた規則、規範に対してアオサギはそれに反するアクションをとっていく。ここにもひとつの"オチなし"が潜む。それは予言に関するものだ。
 "物語の予言"とは基本的に当たるようになっている。”予めの言葉”によって観る者、聴く者への今後の期待を募らせ、その通りになることで期待の着地する場所を定める。しかし、最後までその予言が当たらないとなると、予言への期待の着地点が見失われ、言葉は宙に浮いたままになってしまう。
 「お前が案内役になりなさい」という言葉は”物語のメタ”から言えば「お前が案内役だ」というのとほとんど同義だ。しかし、本作ではその常識は機能しない。眞人もアオサギも言いつけを守らない。

 作中世界観から言えばこのことは、大叔父の自身の創造した世界への強制力が弱まっているとも取れる。自身で持ち込んだ鳥の大群を制御することができず、インコは膨大に繁殖し、創造主である自分に交渉までするようになってくる。やっと見つけた後継者にも自身の”物語”の続きを描くことを拒絶されてしまう。

 眞人が"物語"の加護を受けず、反逆し、タブーを犯す代償も受けないのは、そもそも下の世界の”力”が弱いからか、もしくはそんな力は”言葉のうち”にしか存在しないからか。


"物語"からの解放

 映画全体に”オチ”のつかない行動や言葉が散りばめられていることがわかった。ここまでくるとその"オチなさ"は映画的手先の不器用さではなく、宮崎駿による意志をもった"物語"からの解放の手段なのではないかと考える。

 物語には物語然とした態度があり、それは現代の鑑賞者であれば意識的、無意識的に理解していることだろう。その物語らしさの一つが"オチ"であり、劇中の行動には意味がある、着地する点がある、というものだ。"オチ"のついていないものに対して人々は不満を漏らす。物語には「"オチ"をつけるべき」「"オチ"がなくてはいけない」とさえ言ってしまう姿は容易に想像が付く。そのような物語についての規範が確かにある。

 しかし、この規範は劇中に出てくる言葉だけで現れるタブーと同じものなのではないだろうか。"オチ"がないことを多くの鑑賞者は咎めるが、”オチ”がないところで映画の世界が止まることはない。それはこの映画が証明している。"オチ"をつけろと強制してくる過去から連綿と続く”良き物語”に対して、この映画は眞人のようにタブーをものともせずに破る。物語を物語とする規範を崩すことで物語から解放されることがこの映画の目的なのではないか。

 でも一体何が物語から解放されるというのか。


ロウ・ファンタジー

 宮崎監督が"オチ"をつけるという規範を犯すことで、この映画は独特のファンタジーとなり得ている。大叔父、もしくは物語の創造主によって"オチ"がつくように仕向ける物語の力から解放された世界はどんな世界となっているだろうか。

 空想の世界のアイテムや不思議な力は物語を駆動するアイテムとなる。『ラピュタ』で言えば「天空の城」は主人公の目指すべき場所として、「飛行石」はその不思議な力の源として、劇中のアクションを補強していく。『ナウシカ』であれば「腐海」「王蟲」などその世界独自のモチーフが物語を駆動する役割を持つ。それらのモチーフは、劇中の人物に加護を与え、罰を与え、タブーを課す。

 「チェーホフの銃」という作劇テクニックがある。

もし、第1幕から壁に拳銃をかけておくのなら、第2幕にはそれが発砲されるべきである。そうでないなら、そこに置いてはいけない。

 早い話が「不要な要素は"物語"の中に出すな」ということである。これはテクニックの一つだが絶対的なルールではない。

 ファンタジーのアイテムというのは容易にチェーホフの銃に変貌してしまう。どんなに創作者が眺めて楽しむために導入した空想も、"物語"という力動の中に置かれると、発砲される可能性のある伏線、チェーホフの銃としての価値をおびてしまう。この時、ファンタジーのモチーフは”物語の力”の元に服従させられてしまう。"オチ"をつけたがる物語に主導権を握られてしまう。

 例えば、パズーの世界に「天空の城」があることがわかっても、そこに辿り着かないなら"物語"としてはお粗末、と簡単に結論を下せるだろう。しかし、「天空の城」自体はそのファンタジー世界の中で、たどり着くことのできない"可能性もある"場所としても確かに存在しているはずだ。
 パズーの物語となることで「天空の城」は”物語として必然的にたどり着く場所"になってしまう。"物語の力"のもと「天空の城」はパズーに見つかってしまうのだ。

 そんなことは物語として当たり前で、「天空の城」が辿りつかない可能性が云々などはナンセンスな話だ、と思う人も多くいると思うが、そもそもそれが"物語らしさの規範"であり、チェーホフの銃を妥当だと感じさせる物語意識、物語倫理なのである。そして、ファンタジーが当たり前に物語に従属しているとする認識である。

 『君たちはどう生きるか』では発砲されないチェーホフの銃が多い、もしくは発砲したところでどこにも着弾しない。
 銃に相当する弓矢は(一度は放たれるが)その後は壊され機能を失う。眠っていた王も姿を見せない。祟り神や巨神兵のようなものが出てくることを期待した方は多いのではないだろうか。しかし、そのような視覚的な”発砲”は実現されない。ましてや眞人が「後ろをみる」というタブーを犯しておきながら、そのモチーフは機能しないままである。

 チェーホフの銃を不能にすること、その物語的タブーを犯すことでファンタジーは物語の支配から解放される。物語を駆動する使役から解放される。アオサギは眞人を案内する役目から解放されている。眞人は二人の母を救う英雄という役割から解放されている。
 そうなると、そこにはただあるがままのファンタジーがあることになる。観る人の腑に"落ちる"ように仕向けられた、使役されたファンタジーではなく、生のファンタジーがそこにある。監督の空想が何かに従属していない状態で現れる。

 そんな物語の支配から解き放たれた raw =生 のファンタジー。ロウ・ファンタジー(Raw Fantasy)が『君たちはどう生きるか』という作品ではないだろうか。


 宮崎監督は眺めるために作り出した親愛なる空想が、物語のための役割を持たされることを拒絶したのではないか。
 これは、反抗的な拒絶よりはもっと穏やかなものに思う。長年人のために自分の空想=ファンタジーを"物語化"してきた宮崎監督が、自身の空想をもっと純な状態でアニメ映画に固着させようとした結果がこの”おかしな物語”の映画なのではないだろうか。

 こんなに"強かな"ファンタジーはそう観られない。
 英雄としての役割から解き放たれた英雄である眞人が真なる人と表される。こんなに”おかしな物語"映画はないだろう。


終わり。


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