「一人称単数」村上春樹 200729

村上春樹の新刊、「一人称単数」を読んだ。

今回は些か踏み込んだ内容に触れるかもしれないので、ネタバレを回避したい人はココでUターンを推奨します。






さて。

「一人称単数」、なんて素敵なタイトルなんだろう。

店頭で平積みされている本を手に取ってまず初めに抱いた感想だ。

そもそも「一人称単数」=「I」はとても不思議な概念だと思う。

英語では自分を表す表現は「I」しかないけれど、日本語には「私」だったり「僕」だったり「俺」だったり「我」だったり……いくつもの一人称代名詞が存在する。

没個性的だとか画一的だとか言われやすい日本人だけど、自己の表現手段はこんなにも豊かなのだなぁ……とも思う。

改めて書くまでもないかもしれないが、「一人称単数」は「一人称代名詞」ではないのであって、つまり「I」を指している。

絶対的自己。

この短編集を一言で表現するならば、「自己」とそれを構築する「記憶」についての物語だ。


この8編の物語はすべて回想の形をとって展開される。

そして、すべてにおいてキーとなるのはその、摩訶不思議な記憶だ。

真実か否か、それさえ不確かな、でも決して忘れられない記憶。

神の啓示かのように突然想起され、そして現実をも変容させてしまう記憶。


「石のまくらに」は、ある女性の短歌。

「クリーム」は、「中心がいくつもあって外周を持たない円」について説いた老人。

「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」は、タイトルまま。

「ウィズ・ザ・ビートルズ」は、そのLPを抱えた美しい少女。

「ヤクルト・スワローズ詩集」は、野球観戦の想い出。

「謝肉祭」は、F*と容姿の優れない女の子。

「品川猿の告白」は、人間の言葉を話せる猿。(本作で一番好きな短編)

「一人称単数」は、三年前に「どこかの水辺」であった女。

8つの記憶は、それぞれの仕方で自己に影響し、「I」を作り上げる。


記憶ほど個別的なものはないと、私は思う。

たとえ、ある一つの出来事の記憶を共有していたとしても、見え方や感じ方は誰一人として同じではない。

恋人と並んで歩きながら、目の高さや角度の違いに、不意に泣きたくなることがある。

彼と私は同じ景色を同じように見ていない。

重なって歩いているわけではないから、それは凄く当たり前のことだけど、その当たり前に胸が押しつぶされそうになる。

隣を歩く人がどこまでも他人であることを思い知らされるようで。

その点で、個別的な記憶の積み重ねというのは、紛れもなく「I」そのものだとも言える。


印象的な一節があった。

「あるときには記憶は僕にとっての最も貴重な感情的資産のひとつとなり、生きていくためのよすがともなった。コートの大ぶりなポケットの中に、そっと眠り込ませている温かい子猫のように。」(「ウィズ・ザ・ビートルズ」より引用)

記憶があるから、私は死にたくもなるし、生きたくもなる。

思い出すだけで鈍器で殴られたような感覚に襲われ、地底から這い出た異形の化け物に足を掴まれ引きずり込まれるような、暗澹たる記憶もあれば、思い出すだけでつい頬がほころんで、まるで如雨露から飛び出た水が地面に滲み渡るように、心がポカポカと温まる記憶も存在する。

生きることとは、すなわち、そのような記憶を背負うことなのかもしれない、とも思う。

記憶に傷つけられ、時に慰められる過程が人生なのかもしれない。


最後にもう一節。

「愛はいつか終わるかもしれません。あるいはうまく結実しないかもしれません。しかしたとえ愛は消えても、愛がかなわなくても、自分が誰かを愛した、誰かに恋したという記憶をそのまま抱き続けることはできます。それもまた、我々にとっての貴重な熱源となります。」(「品川猿の告白」より引用

この記憶がきっと、いつか、私を助けてくれる日が来るんだろう。


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