「破局」遠野遥 20.09.01
何か空恐ろしいものを見た気がした。
夏の暮れの昼下がりに、人で賑わう某有名チェーンのフラペチーノを飲みながらページを開いて、心から良かったと思った。
「28歳の鬼才の放つ、新時代の虚無」
この表現があまりに言い得て妙だと感じた。
率直に感想を言うなら、私はこの手の小説が嫌いだ。
いや、「陽介」という人間が嫌いだ。
むしろ、作品としては自分が評価するのもおこがましいほどの出来だと思う。
簡素で淡々とした文体でありながら、主人公独特の感性で日常が切り取られていく、その無機質と有機質のバランスが絶妙だと感じた。
それでも、心の底に冷たくて重い鉛を投げ込まれたような、イヤミスともまた違った気味の悪さが、読後感として残る。
これがどうにも、好きになれなかった。
「陽介」は徹頭徹尾利己的な人間である。
利他的な行動も、最終的には利己的な原理に帰着する。
この恐ろしさが、小説の一人称であるため、上手い具合にカモフラージュされている。
ページを捲るうちにどこかで違和感に気づく。
この主人公には共感性が介在しない。
いわゆる小説なら普通に描かれるはずの感情の機微が抜け落ちてしまっている。
もちろん、「陽介」はサイコパスではない。
一見、20人に1人くらいの頻度で出会う、ドライと他人から形容されるタイプの、少し変わった、けれどよくいる存在である。
ただ、ドライだけで終わらせられない人間としてのある種の機能の欠如を文章から見出すことが出来る。
たとえば、冒頭「目と目が合って、彼が恐怖を感じているのがわかった」に続く、「憤りを覚え、確実に潰すと決めた」の文。
「佐々木は、いつの間にか涙ぐんでいた。私はそれを見て白けた気分になり、しばらく肉を食うことに集中した」の文。
「陽介」はひとの感情を汲み取ることをしながら、ただ、それにまったくの共感を示さないのである。
感情表現が乏しいとかいう意味のドライではなく、本質的に、彼の中に他人の感情は存在しない。
文字通りの虚無なのだ。
「私を阻むものは、私自身にほかならない」
この考えは、現代を覆う新自由主義の極地として、あるいは一種のディストピア的世界観として、私の目に映った。
繰り返される「マナー」「法」「父の言いつけ」……。
それがどうして存在するのか、それに反する行動をとった時、相手がどのような感情を抱くか、そのような思慮は判断に伴わない。
こうしないといけないの強迫観念だけが彼を突き動かす。
「この先も必要かどうかはわからないし、果たして今まで必要だったかどうかもわからない。でも少なくとも今の私には灯が必要だった。しかし私は灯にしてもらうことばかりを考えていて、もしかして私がこんな調子だから、灯はどこかに行ってしまったのか?灯が戻ったら、灯が私にして欲しいことを真っ先に聞かないといけない」
緩やかな絶望。
彼は最後の最後までこうしないといけないに縛られる。
マイルールをアップデートさせる。
ただ、私にとって灯が必要となったから。
そこに灯の感情は存在しない。
推測はあっても、想像力はない。
「して欲しいことを真っ先に聞」くのだ。
彼は思考を放棄する。
そして、眠る。
「心配事があって眠れないという話を時々聞くが、理解できない。考えなくてもいいことを考え、自分で自分の首を絞めているだけではないか」
私は思う。
眠れない夜は、人間を人間たらしめる唯一のものだと。