ネッシーは生きていた! 24.07.27
東京のど真ん中に大きな湖がある。
真夜中だって車が行き交い、高層ビルが不健全な眩さを放つこの町で、
ポカンと穴が空いたみたいにその湖は存在する。
湖の淵に佇んでいると、心は穏やかだ。
暗くて静かなのが、いい。
ぼーっと体育座りをしていると、ゴポゴポゴポ……っと音がして、
湖底から何かが近づいてくる。
硝子のネッシー。
みんなが想像するよりは小さくて、せいぜいスワンボートを一回り大きくしたくらいの、透明な"ネッシー"だ。
ネッシーは、私をみつけると嬉しそうに頬擦りをしてくる。
水中で冷えきった硝子の頬が、ツルツルして気持ちいい。
その頬に、私は素早くキスを返す。
硝子のネッシーは、湖面に尻尾を打ちつけて喜ぶ。
水飛沫が目に入る。
「もう……っ!」
って、怒ってみせるけど、ほんとうには怒っていない。
だって毎週、この湖を訪れているのは私だから。
いつか、この湖からネッシーがいなくなってしまったら、と怖くなる。
ここは「湖」で「海」じゃないから、どっか遠くにいくことはない。
きっと、ネッシーがいなくなるのは、
この湖がこれ以上住めなくなるほど汚染されてしまったときとか、
彼の存在に気づいた人間たちが、騒いで、どこかに収容してしまったりしたときだ。
可哀想なネッシー。
どこにも逃げることはできない。
硝子のネッシーは、この湖でひとり、ひっそり生きている。
観測をはじめて3ヶ月弱経つけど、家族や群れの仲間と一緒に暮らしているわけではなさそうだ。
ネッシーは、深夜2時を過ぎた頃、
プカプカとラッコみたいに湖面に身を浮かべて、
グォーグォーと喉を鳴らして眠る。
初めは、どこか身体の具合が悪くて唸っているのかと焦ったけど、
表情は安らかで、やがてそれが彼の睡眠スタイルなのだと知った。
気持ちよさそうに湖をいったりきたりするネッシーを眺めながら、
缶チューハイを煽る、この時間が好きだ。
近くのコンビニで買った缶チューハイは、
ちょうどこの湖の水温と同じくらいで、喉を潤すとやっぱり気持ちいい。
ふと、こちらを物欲しげな表情で見返すネッシーの視線に気づく。
「飲みたいの?」
湖岸に立って、ネッシーに向かって缶を突き出す。
けれど、彼はこちらをじっと見つめたまま、動かない。
飲む、というのがどういう行為を指しているのか、分からないのかもしれない。
口を持ってきてくれ、って、どうやって伝えたらいいんだろう。
少し考えて、それから、缶を逆さにした。
中身のだいぶ軽くなっていた缶から、軒下の雨垂れみたいに細く、液体が流れだす。
月明かりに照らされた湖面に、小さな波紋が広がる。
その時だった。
ネッシーの身体が、赤く光りはじめたのだ。
蛍みたいに点滅するのではなくて、
それこそ蝋燭のような、周囲をぽーっと照らす明かり。
「え……」
その妖しく、薄暗い明かりは、何だかこの世のものとは思えなくて、
もしかして、と最悪の想像に胸が激しく鳴る。
「待って、ネッシー! いなくならないで!」
まさか自分が、ネッシーからこの湖を、この世界を、奪ってしまうなんて思ってもみなかった。
しかも、思いつきで、湖にアルコールを混ぜてしまったばっかりに。
ネッシーも、自分の身に起きたことが信じられないのか、しきりに首を振って、全身を確認しているようだった。
「やだ、やだ……やだよ……」
ネッシーの濡れた瞳とぶつかる。
真っ赤になったネッシーがこちらに向かって泳いでくる。
私の足元までたどり着いてから、横に90度回転し、
そして、手前側のヒレで湖面をバシャバシャと激しく叩いた。
苦しさに助けを求めているのか。
それとも、収まらない怒りを私にこうして訴えているのか。
それとも、手を振って、別れを告げているの……?
毎日のように同じ夜を過ごしていたはずなのに、
私は彼のことを何一つ分からないんだ、とこんなときに知らしめられる。
困惑と恐怖に立ち竦むことしかできない私に、
ビシャビシャと容赦なく水飛沫が飛んでくる。
自分が引き起こしてしまった事態から目を背けてはいけない気がして、
必死に瞼を開けていたけど、そのうち、
込み上げてくる熱いもののせいで、そうも言ってられなくなった。
ぼやけて揺らぐ視界の先で、ネッシーがクルンと反転して、いつものラッコスタイルになるのが見えた。
眠くなったの……?
そういえば、そろそろ眠る時間かもしれない。
いや、少しばかり早いか。
泣いたことで返って冷静になってきた頭で考える。
死に際の生き物が、あんなに元気にヒレを動かせるのか……?
ネッシーは相変わらず、ヒレをペシペシと動かしている。
疲れてきたのか、少し、動きが鈍い。
その様子をみて、ふと思い当たる。
もしかして、彼は手招きをしている……?
「乗っていいの?」
と聞くと、キュイン、と高い声で喉を鳴らした。
YESの返事だと受け取って、私はネッシーの赤くなった右ヒレに、そっと左足をかける。
私のかけた体重の分だけ、グンと湖にヒレが沈んだ。
靴が濡れたけど、そんなことはどうでも良かった。
勢いをつけて、今度は右足をネッシーのお腹にかけた。
後は、腕の力で何とか乗り上げる。
どうにかこうにか、ネッシーのお腹のうえに乗っかった時には、彼自身はもう既に夢の中にいた。
彼の皮膚は、まだほんのりと赤くて、熱くて、ツルツルしていて、硬くて、
生き物特有の脈動で、全身が小さく波打っていた。
ネッシーは生きていた!
*
その後、ネッシーは私が湖を訪れるたびに、酒をせがむようになった。
最近では、自分用とネッシー用と、わざわざ2缶ぶん買っていくくらいだ。
お礼に、ということなのだろうが、時々ネッシーのお腹に乗せてもらう。
酔いのまわったネッシーは、冷たい湖の水と相まって、
寝るのにちょうど良い温かさになる。
狭くて広いネッシーのお腹のうえで仰向けになって、
彼と同じ月を見上げる。
地上にいる時より、月がずっと近くに感じられるから不思議だ。
「今日もありがとう、ネッシー」
私とネッシーの穏やかな夜は、これからも続いていく。