とりとめのない話をするね
新デザインのお札が出回ってから久しいが、手元に来るまでには時間がかかる。先日、やっと新札の千円札を手にした。
しみじみ眺めてみて一回り小さくなったような気がした。あれ、サイズも変わったのかなと思い旧札と重ねてみる。サイズが違ってるようには思えない。なのに、小さくなったような軽くなったような気がする。2枚を並べてみてやっと違和感に気づいた。
以前は漢字表記であった額面が数字になっていたのだ。
壱千円が1000に。
おそらく世界を意識してわかりやすく数字表記にしたものだろう。意図も理由もわかる。納得できる。わかりやすく見えやすく。あらゆる人を対象に使いやすいようにという願いと配慮はわかる。
わかるのだけれど…重みがなくなってしまったと感じた。感じてしまったものはしょうがない。
鉄1kgと綿1kgでどちらが重いかと問われるのに似ている。合理的にはどちらも同じ重さなのだけれど、感覚的に鉄1kgの方が重いように思ってしまう。
いや、同じ重さの箱でも黒い色の方が重く感じるというのと似てるといった方がより近い。
感覚というのは不思議なものだ。旧札を見かけなくなる頃には、この違和感は無くなるのかもしれない。
人は変化を好まない。
アメリカ大統領選でバイデンと同じ路線をとるのであろうハリスと、今までの路線を覆すであろうトランプのどちらに人は票を投じるのだろう。あれほど混乱を生じさせたトランプがインフレを抑えていたとは驚きだ。メキシコの壁も結局バイデンはトランプ同様の措置を取らざるを得なくなっている。
スティーブンキングの本に再度ハマって読んでいるのだけれど、読んでいるとけっこうトランプに対する作者の私見らしきものを登場人物が語っていて面白い。もちろん、ちょっとした言葉でしかないけれど。
緻密に積み重ねられたフィクションの中で足掻く登場人物達の姿に現代社会の病理や情勢なんやかやの現実世界にあるものを織り交ぜているからリアリティが増す。ありそうに思えてくる。たまーに、あまりに嘘くさくてシラけることもあるけれど、これはこちら側がすれてしまったからに違いない。現実世界にどっぷり浸かってしまうとフィクションの嘘が許せなくなる。悲しいことに。
世界情勢のニュースを聞きながら皿洗いをする、とはある占星術のセンセが言ったことだけれど。肉体的にはここにあるけれど心は頭は違う世界に目まぐるしくアクセスし行き来している。嘘のようだが本当のこと。
人とは不思議なものだ。そして世界も。
昔、動揺することがあるたびに歯磨きをする友人がいた。そうすれば落ち着くのだと。嵐のように飛び交う外界の情報の中では、ここに今いるという感覚的な単純作業が必要になる。
そういえば、AIに絵を描かせると「食べる」という感覚的なことは理解できないから奇怪な絵になるらしい。「食べる」ことが感覚的なことなのかという驚きと、それを理解した時のAIとはどんなものになるのかという恐れと。
こんな話が頭の中に詰まっています。読んでくださりありがとうございました。よい夢を。