俳句はそろそろいいかなぁと思いつつ続けてるという謎
俳句に関わって三年。昔の作品に比べれば少しは俳句らしくなってきたように思う。少しは俳句らしい形になったような気がする。俳句は慣れでしかないと思う。仕事を覚えるのと同じ。
俳句には、心から感嘆し共感するものもあればよく意味がわからないものもある。作者によって個性がある。抒情的だったり現代風だったり。激しかったり穏やかだったり。古めかしかったり尖っていたり飄々としていたり。こういうところが面白い。
作品はその人そのものなのだろう。個性的であるということは面白みがあるということだ。個性がない作品は正直言って面白くない。誰もが作りそうな句は退屈で新鮮味がない。
中にはこちらがぴりりと背筋を伸ばしたくなるものもある。恐い先生に対峙した時のような。特別なことは言ってないのに、あのぴしりとした感じは何なのだろう?と思う。そこがわかればもっと上手くなるかもしれないのに。
ああ、すごい句だと感心するものは、弓矢が的の中心を射るごとくピシリと定まっている。ブレがない。ぼんやりしていない。あの無駄なく高い品位を感じさせるものは一体何なのだろうと思う。よくわからない。
俳句を眺めていると、正直ものすごく退屈する。少ない言葉数に共感を求められるからだ。というより、共感を強いられるような気がする。超有名な俳人の句でも共感するのはほんのわずか。あとは「だから何?」「同じようなのばかりでつまんない」と思う。これがちゃんとわかるようになるのが「鑑賞力」なのだろう。というより、相手への敬意なのだと思ったりもする。
好きなものには好んで関わる。俳句は学ばなければ、という強迫観念じみた義務感から続けている。どうも宜しくない。きっと主体的に関わらないと理解できないものだからなんだろう。そう易々とわからせてはくれない。
やってもやってもわからない。だから楽しい、と言える日が来ればいいな、とは思う。今はあちこちにぶつかりながら、自分が何を望んでいるのかを模索中。どこかにぶつからないと本当に望むものがわからない。思春期の子供のように厄介。
新しいことをするのは楽しい。けれども、上手くなるためのお勉強なんて目的がないとやるわけがない。興味がないと続くわけない。刺激的でわけがわからなくてわくわくして生活の足しになるものなんて他にゴロゴロ転がっている。
ただ、俳句には季語があり郷愁があり言葉の美しさがある。そんな蜘蛛の糸ほどの微かな美しさへの憧憬が繋ぎ止めている。いつでも切ってしまえるような。
やっぱり俳人にはなれそうにない。続けている人は凄いと思います。