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気の滅入る話をします
この時期、訃報が多い。知り合いから喪中葉書が次々に届き、毎日のように救急車がサイレンを鳴らしながら走ってる。田舎でこんなに毎日サイレンを聞くのは滅多にない。
人が歳をとり亡くなるのは自然のサイクルである、とはわかっている。止めようのない変化であると、頭ではわかってる。しかし、愛した人を失ってしまったという喪失感は薄れこそすれ後々まで残る。近しい人ならなおさら。
死は一つの区切りだ。そしてあまり語られないけれども、人は死ぬ前に必ず衰える。事故などで突然すっぱりと断ち切られでもしない限り。
ここで書いている人は30代、40代が多いのではないかと思っている。いわゆる働き盛りでまだまだ上り調子の人達。若い頃は人はいずれ衰えるものだとは実感していない。
親は衰えるものだ。そして最後は死に至る。その様を見るのは悲しい。それでも思う。これは親が最後に自分に見せる教えなのだと。
『人は最後はこうなるからよく覚えておきなさい。だからあなたは精一杯生きなさい。』
言葉で言われるより遥かに説得力がある。だからといって悲しみが減ることはないし、失った穴はぽっかり空いたままなのだと後から気づくのだけれど。
命が衰えていく時、それを受容する文化はどこにあるのだろう。アンチエイジングとか若さの秘訣とかはよく耳にするけれども衰えを衰えとして受容していく話はあまり耳にしない。
運命に従う、とはあまりに消極的な言葉だけれど、衰え死ぬ運命をどう受容すればいいのか。それこそ宗教的なものの見方が必要なのだろうけれど、まだよくわからない。実感として自分の中に降りてこない。「理屈」としてではなく「実感」として心の底からああ、これこそ本当にそうなのだと思えるまでには。
こういうことは、生活の澱に紛れて普段考えずに済んでいるのだけれど、同様に自分の中の何かとアクセスできていないような気がしてしまう。
年の瀬は、自分が何か見落としてきたのではないかと振り返るチャンスなのかもしれない。能登大地震から早一年。来年は良い年明けになると良いな。