見出し画像

空気と思考の罠

空気というのはつまり暗黙知です。
見えていないけど、言葉では明確に表現できなくても、それは経験を通じて時間をかけて学習された知識です。

それを信じ込み、疑わないことで、その暗黙知が我々の「真実」であるという認識ができてたのが日本の歴史的・伝統的な思考システムでしょう。それを繰り返すことで日本は長い間安定を保てきたでしょうし、学校現場でも同じような思考が再帰的に行われることで教育の質を保ってきました。

「空気」が生まれるのは、その暗黙知を疑い始めたときです。そうしてはじめてその姿が認識され始めます。

熊本大学の苫野一徳教授は「一般化のワナ」という言葉で個人の経験を課題に一般化することを問題視しています。(こちらを参照)
それもこの空気や暗黙知と深い関係があります。

「一般化のワナ」は単に個人の経験を一般化しているわけではありません。ワナにハマるにはそれなりの土壌が整っているからなのです。

ワナははめる人がいて、ワナにハマる人が必要です。
つまり、日本では個人的な経験を絶対的に一般化する人がいて、それを「真実」(かもしれない)と受け取る人がたくさんいるということでしょう。

歴史的・伝統的思考システムから、日本人の多くは自分の経験が暗に他のケースにも当てはまることを知っています。そうでなければ大声でましてや一般化しようとして言えません。言ったところで威力も影響力もありません。でもワナにハマるのはそれが「真実」かも、と思える(思ってしまう)思考パターンがあるからなのです。

アメリカならば例えば、一般化すると「でもこういう意見もあるよ」とか「わたしこんな経験がある」と言えば一瞬でその一般化の空気は消滅します。そして、私の場合は、あなたの場合はそうだったんだね、という多様なケースのうちの一つとして理解されるでしょう。またそれが多数だったら大体そうなることが多いのかもしれないね、その場合は、という理解になるのかもしれません。

しかし日本では、この思考のワナにハマらないようにするのは容易ではないと思います。ワナにハマらないような思考パターンをする訓練を受けていないからです。

ちなみに一般化することが悪いことではありません。一般化は必要なこともあります。大事なのはそれが絶対であるかのように捉えられることです。「空気」の特徴の一つは「絶対か」だと空気の研究家の山本七平も言っています。

絶対なものはないけど一般化はできる、ということでしょうか。
みなさんはどう考えますか。


Teachers of Japanではティーチャーアイデンティティ (教師観)の発見を通じて日本の先生方がもっと自分らしく教育活動に専念し本来は多様である「教師」の姿を日本国内外へ発進しています。日本の先生の声をもっと世界へ!サポートいただけたら嬉しいです。