【え16】体育教師の優しい嘘
早咲きの桜が咲く、高校3年の3月。
3年生の教室が並ぶ階は、独特の雰囲気に包まれる。
進路が決まっていない者は、ギリギリまで勉学に勤しむ。
その一方、進路が確定した者にとっては「消化試合」そのものだ。
私は全ての受験を終えた後だったので、後者だった。
ちなみに私の席は教卓の真ん前。教師からは完全に死角に位置する。
私は授業の邪魔にならぬよう、ただただボーッと時が流れるのを待つだけだった。教師も、それを黙認していた。
そんなある日。
後ろの教室から大きな笑い声が聴こえた。
何に対しての笑いなのかは分からない。
こちらで受験の最終ポイントを指導している教師の目は、いぶかしげだ。
後ろからの笑い声はリズミカルに耳に入った。明らかにウケている。
自由な行動が許されるとすれば、私は早々に中座して現場に向かっていたことだろう。
授業が終わりの時間を迎える頃。
そんなに長くはなかったと思う。今まで後ろから聴こえていた楽しいノイズが消えた。そしてチャイムが鳴らない内に
「ありがとうございました!」
という大きな声が響いた。それは今までのリズミカルな笑い声とは異なる、腹に力の入った大きな声だった。
その直後、足早に廊下を歩く体育教師が見えた。
彼は、隣のクラスの担任ではない。
普段ならグラウンドや体育館、何かやらかした時に「連行」される場所でしか見ない。
『保健体育』というぐらいなので、保健の授業でもやっていたのだろう。
それにしては笑い声も上がっていたし、最後の挨拶も大きすぎる。
壁一枚挟んだ後ろの教室では何が起きていたんだろう。私は疑問を抱きつつ、廊下へ出て来るだろう連中の様子を机にうつ伏せて待っていた。教師は消化試合の者を叱責する事なく、淡々と授業を進めていた。
後ろの教室から同級生が出て来る。
普段なら退屈な時間が過ぎ去った後の解放感に満ちた表情をするものだが、今回はそうは見えなかった。
男どもは妙にしんみりしている。女子達は目にハンカチを当てている。
私にはその様子が理解できなかった。担任教師から惜別の言葉を贈られたのなら理解できる。しかし、出て来たのは担任教師ではなく「体育教師」。
リズミカルな笑いがあったかと思えば、突然の静寂が訪れ、最後は全員が出したであろう締めの言葉。そして、揃いも揃って涙ぐんで教室から出て来る。どれを取っても、18歳の私は理解に苦しんだ。
やがて授業終了のチャイムが鳴る。そして昼飯の時間に入る。
消化試合を終えた私は弁当を持って、後ろの教室にいる悪友に事の馴れ初めを聞いた。よく見ると彼の目も少し水っぽい。それも含めて「普通ではない何か」がここで起こったのだろう。
この教室を普通でない状況にした者の教員歴は、おおよそ15年ぐらい。
高校時代はラグビー部で腕を鳴らし、花園まで行った男。
大学時代は紫紺のジャージを着て、早稲田と火花を散らした男。
そして今、この学校で体育教師をしている。そこまでに様々な紆余曲折があったらしい。詳しくは知らないが。
その男には体育教師が持つ独特の厳しさはない。だからといって、特段笑いを取るような男でもない。小一時間で高3生を泣かせる人物とは到底思えない。
そのような男が、ここで何をしでかしたのか。悪友は全てを教えてくれた。
この時間は一応、形としては「保健」の授業だったそうだ。
その内容は、18歳ともなると分かっている。多くの連中が既に校外で学んでいる。教える側もそれは承知している。それでも敢えて体育の時間に「保健」をぶち込んだのだ。合同で体育の授業を受けているクラスは、自習という至福の時間を送ったのだろう。
体育教師は、保健とは全く異なる事を話したそうだ。
高校での練習試合の際、ジャージの下に履くスパッツを忘れたまま試合に出て、相手側の激しい守りでケツをさらけ出したままトライを決めた事。
夏の合宿先でマネージャーに告白し、既に彼女と付き合っていた先輩からボコ殴りの目に遭ったこと。
スポーツ推薦で入った大学の入学式の日に、迷わず『明治学院大学』に直行したこと。
親に借金してまで買った『トヨタ・ソアラ』に彼女を乗せ、首都高を爆走していたら覆面パトカーに呼び止められ免停を食らったこと。そして彼女の運転で寮まで送ってもらったこと。挙句の果てに御法度だった車の所持がバレて、卒業するまでコーチに愛車を没収されたこと。
社会人ラグビーの名門・東芝府中の練習の見学に行くと嘘をついて、その近くにある東京競馬場で帰りの電車賃まで使い果たし、歩いて寮まで戻ったこと。
大学4年になって「ここを卒業しても体育教師になれない」という事実を知り、大学卒業と同時にライバル校だった日体大に入り直したこと。
そこでもラグビー部に所属し、つい先日まで母校だった大学との練習試合でキョトンとされたこと。
体育教師は授業とは名ばかりの話で、教室中を笑いの渦に巻き込んだ。ちょっとした芸人の単独ライブだ。こちらにまで大爆笑が聞こえるのも分かる内容だ。
ただ気になったのは、どうして突如として全体が静寂に包まれたのかだ。今までの話を聞いたところで、とてもスベった話をしたとは思えない。今度はそちらの理由を聞きたい。
悪友は思い出したのか振り返ったのか、水っぽさを増した目で話した。
体育教師曰く。
「俺は高校から今まで、人をあやめる以外の事は全部やってきた。酒もタバコも高校の頃に覚えた。他の高校とケンカもやった。10代で飲む打つ買うは一通り済ませた。それでも、ラグビーだけは真剣にやってきた。練習中に楽しいなんて思ったことは一つもなかった。辛い思いばかりしてきた。ただ、監督の『前へ』『前へ』という言葉を信じてやってきた。馬鹿の一つ覚えと言われればそれまでだけども、今も『前へ』の気持ちは忘れていない。お前らは俺より遥かに頭が良い。ただ、こんなロクでもない人間が言った『前へ』という言葉は忘れないでほしい。大学に行くとしても浪人するにしても専門(学校)に進路変更するにしても、各々に山はやって来る。その山はデカいかもしれない。険しいかもしれない。絶対に乗り越えろ。前へ進め。逃げるな。前へ向かっていけ」
教師から語られた事を一言たりとも忘れず。
そして目を潤ませて話す様子を見て。
教室が突然の静けさに襲われたのと同時に、最後に力強い感謝の言葉が響いた理由は充分把握できた。
私は弁当に手など付けられなかった。呑気に昼飯を食いながら聞く内容ではなかった。私は、弁当と一緒に食べる筈だった菓子パンを彼に渡した。礼としては余りにも粗末だったが。
後日。
詳しくは覚えていないが、何かの際に担任教師に話したと思う。
体育教師の話は真実なのか。今で言うところのフェイクなのか。
あまりに出来過ぎている。山下真司に感化されてるんじゃないのか。
体育教師の人となりも含めて、事の真相を聞いた。
「あぁ、今年もその話をしたの?その話はね、あの先生の『テッパン』なの。この時期に必ずする話なの。ですよね?◯◯先生」
「そうそう。毎年するよ。ちょっと膨らまして話すけど、大体は本当の話」
「日体大に入り直した話は嘘っぽいなぁ」
「凄く真面目だったらしいよ。スポーツ推薦入学なのに、成績は良かったらしいから。ラガーマンは総じて頭が良いんだけど、あの先生は特別」
「生徒からはいろんな噂は聞くけど、あの人は酒もタバコもしないよねぇ?」
「そうそう。懇親会の時も見た事ないよ。酒は飲めないんじゃないかな」
「あの先生、元は別科目の(教員)免許を取ってるのに、なぜか体育を教えてるんだよ。それは聞いた」
「田中君、社会には『裏ルート』があるんだよ」
当時の世に裏ルートが存在して、それが紆余曲折の本筋だとしても。
彼は「今年」も40人近くの生徒の心を鷲掴みにしたのだ。
紫紺のジャージを身にまとい、秩父宮ラグビー場を駆け抜ける為に学んだ事の全てを、この時期になると彼はどこかの教室で必ず語るのだ。
日課表に消化試合が並び、別の体育教師からしっかりと体育を受けさせられた私には、後ろの教室の連中を羨ましく感じた。
今は他校に転任されたらしいが、そこでも旅立つ者への「優しい嘘」が混じったエールを贈っていると思う。
この季節が来ると、思い出す。