まごころ写経: 高田瑞穂「新釈現代文」

私は作文が苦手です。意識改革のため、読んだ本から重要だと思った一節を写経します。今日の題材は、高田瑞穂の「新釈現代文」から3章2節までの内容から抜粋したものです。

現代文とは何等かの意味において現代の必要に応えた表現のことです。

p14

すべての公的表現には、自分の立場を読者に伝え、それを読者に認めさせようとする筆者の願いが根底に流れている。

p26

およそ読者を予想して書かれた文章表現にあっては、常に読者の理解と共感を願う筆者の願いはこめられているはずです。そういう公的表現の理解に当たって、どうしても欠くことのできない前提は、筆者の関心する問題について、読者もまた相応の関心をもつことができるかどうかということです。人間の理解や知識は、関心と経験を経ることなしにはけっして育ちません。人間の文化を、その根底において支えているものは、いつの場合でも生活の必要ということなのです。

p36-37

学問に関することはだれにも遠慮もいりません。どんなに欲張っても、そのために他人の分け前がへるなどということは、学問や知識に関する限り、けっしてありません。

p38

Aの意見も、Bの意見も、ともに難解というほどのものではありません。むしろ、常識的なものです。だから、この程度のことばだったら、十分理解できるはずです。少しでも、自分の生活について反省し工夫することのできるものだったら。ここでも、そのようなことを一度も意識しないような、問題意識の欠如は、致命的です。

p50

そういう問題に関する問題意識 --- 解決ではありません --- の有無こそが、度々くりかえしますが、現代文読解の基礎なのです。

p60

そういう様々な経験の中から、今この最初の文の趣旨にあう事実を、上手に思い出すことができれば、それでこの文はわかったということになるのです。ここに働く問題意識とは、想像力・記憶力・連想力等の綜合です。私は先に問題意識をその正統的な面に限って略述しましたが、実はそんなにいつも堅苦しいものである必要はないのです。

p95

ここに示された一文の結論は、もうすでに、われわれには十分予想されたところでした。そういう予想がはっきり立てられ、しかもそれが事実、筆者のことばと一致する場合は、われわれの追跡が正しかったことの証明です。

p104


今日のところはこれまで。

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