『海に降る』文庫が新カバーになりました
普通のサラリーマンが深海に行くことはできるのだろうか、という問いを持ったのは、1社目の会社にいた頃でした。
江ノ島水族館の売店で買った本で〈しんかい6500〉という潜水調査船があることを知った私は、深海に行ってみたい、という思いに駆られました。でも船を動かすのには莫大な税金が要ります。コスト意識を叩きこまれたサラリーマンだからこそ、わかります。無理なのだと。自分はきっと行きたいところへ行けずに一生を終えるのだろう。
それから2年が過ぎ、私は会社を辞めて専業作家になっていました。
デビュー作は出したものの、その後の注文はなかった私は、一度は捨てたサラリーマン根性を叩き起こし、授賞式で名刺交換した編集者44人に暑中見舞いを送りました。返事があった3人にデビュー作を献本し、感想をくれた幻冬舎の編集者から書き下ろしの注文をもらいました。5つ提案したプロットのうち、「深海に潜る話」の企画が通りましたが、出された条件は主人公を〈しんかい6500〉を保有する研究機関で働く女性にすることでした。
その研究機関・JAMSTECの公式サイトを開くと、そこは想像以上に理系社会でした。書いてあることの半分もわかりません。どうしたら読者に興味を持たせられるかと思いあぐねた時、思い浮かんだのは会社員時代の自分の問いでした。
「普通のサラリーマンが深海に行くことはできるのだろうか」
その一点のみに興味を絞って調べていくうちに、研究機関といっても会社組織と変わらないということがわかってきました。JAMSTECの広報課職員に転職すれば、サラリーマンにも潜航の機会があるのではないか。彼の同僚である〈しんかい6500〉のパイロットを主人公にして、この2人を深海に行かせたらどうか。そう決めたら、物語が走り始めました。
ちょうどこの年、初の女性コパイロット(副操縦士)が誕生したことも明らかになり、希望が見えた矢先、東日本大震災が起こりました。作中で日本海溝で起きた地震を扱う予定だったため「このテーマではもう無理ではないか」と思った矢先に取材許可が降りました。
書いていた時に気をつけたことがあります。それは美談にはしないこと。あとで広報課の方に「朱野さんはうちを全肯定して書いてないよね?」と言われてドキリとしましたが、それも含めて面白がってくれるところが、科学に携わる人たちの懐の深さです。『海に降る』というタイトルがついたこの小説は、2015年にWOWOWで連続ドラマ化され、JAMSTEC全面協力のもと撮影が行われました。
それから4年が経ち、このたび文庫カバーを刷新してもらえることになりました。今までのカバーは理系の人たち向けのものだったので、今度はサラリーマン側の人たちにアピールするカバーを、ということで、『乙飯日記』をはじめ、働く女性を主人公に漫画を描いていらっしゃる、ただりえこさんに新たな装画を描いていただきました。
さて、普通のサラリーマンは深海に行けたのでしょうか。
私のことを言えば、行けませんでした。ドラマの監督を務められた山本義剛さんは撮影のためカメラを持って〈しんかい6500〉に乗りこんでいかれましたが、原作者はずっと陸にいました。
でも、行ったんです。物語の中で、自分の思い通りにパイロットや、研究者や、船を動かして、日本海溝深度6500メートルを旅しました。
そして、小説家として食べていけるようになりました。
たとえ、閉塞した時代であっても、行きたいともがき続けていれば、行けない場所はないのかもしれません。
未読の方はこの機会にぜひお手に取ってみてください。