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裏切り者に書く手紙

その者に裏切られたと知ったのは、それが起こってから、かなりの長い時が過ぎた後だった。
長すぎたその時間の間に、彼女はほかの沢山の裏切りにあっていたので、そんなことはすっかり忘れていた。

思えば彼女が1番不幸だったのは、彼女が誰かの腹に宿った時ではないかと思う。
その瞬間、誰からも祝福されず、誰からも望まれなかったかもしれない命は、少しずつ育っていった。

その腹の主は彼女にいった。
幸せだったわあなたが宿って。そう言ったけど彼女は全く信じなかった。
もし彼女が母親になったとし、自身の母親と同じ状況だとしたら、それを喜べないのはもう分かり切っていたから。

そう思うのは彼女も母親になったからで、彼女の母親の苦悩は、どうしようもなく簡単に想像できてしまっていた。
彼女は、その母親の答えについて全く釈然としなかったけど、その母親の唯一絶対に正しい愛は、彼女が歳を取れば取るほど、苦しいほど真っ直ぐ胸に届いていた。

あの時、彼女がこの世から消えてしまっていたらと考える。
おそらく彼女は何も感じる事がなかった。
痛くもなく辛くもない。
だったらそれでもよかったのではと思う。
痛いのは嫌だけど、無なのは別に構わない。
彼女はいつもそう言っていたから。

裏切り者に何か伝えたい?と私は聞いた。
彼女はいう。
「そうね、でも言いたいことはないわ。あの人はもう幸せで、とても長い時間をかけて私のことも裏切った事も、何もかも全部忘れてしまったわ。」
そういう彼女はとても綺麗で、随分遠くを見つめていた。

裏切り者よ。私は許さない。
私がそういうと、彼女はそれを窘めた。
「やめなさい。みっともない。」
でもね、私は覚えていないの。だって私はまだお腹の中だったから。と彼女は言った。
「だから恨むことはできない。不思議ね。あの人が1番の裏切り者なのに、私はちっとも恨めない。他にも嫌な人はたくさんいて、それはあの人に比べたら大したことないのにね。」

「どうして他の人の方が、憎いんだろうね。」
そう言った彼女の顔は、ほんの一瞬ひどく恐ろしい顔をしていて、私は目を逸らしてしまった。

「手紙はなんで書く?」
私は努めてその言葉を発した。その言葉通りの重さで、その言葉以外の感情は加わらないように。
「もういいわ」
彼女がいった。
「どうして」
私は聞いた。ここまで全て用立てたのに、全部無駄になったようで私は悲しくなった。
「もういいの。この紙もペンも全部無駄になるわ。それを書く時間も全部無駄よ。もったいないわ」
そういうと彼女は、もうぎこちない動きしか出来ない手で、それらを引き出しにしまった。

「どうするの」
私は再度聞いた。
あの裏切り者の居場所は突き止めたのだ。
閑静な住宅街で、何不自由なく幸せに暮らす裏切り者は、今日も元気に動いている。
「そうね。でもただ待つだけでいいわ。それにあの人の裏切りはもうすぐ明らかになるわ」
そういうと、彼女は笑った。
「引き金はいつでも引けるの。それは私が持っているから。でもずっと引けなかった。それでよかったのよ。もうすぐ思い切り引けるわ。」
そう言って自らの震える手を見つめていた。
窓から日光が眩しく照らす。
逆光で彼女の手はとても黒く見えた。

じゃあね、と私は彼女と別れた。
でもまた明日も会うだろう。明日は彼女の誕生日だった。お祝いは何にしようかと考ようとした。
でもダメだった。
彼女は本当に引き金を引くのだろうか。
私はそればかり考えてしまった。

彼女のかわりに手紙を書こうと思った。
けれども何も思いつかなかった。
幸せの絶頂にいる時に何も考えられないのと同じで、それなりに満たされた私たちはそんな事する必要はないのだ。私はそう思っていた。

あの裏切り者が死んだ時、家族は、もっと大勢の人が、やっとその裏切りに気がつくだろう。
誰も予期せず誰も望まないその事実が、色々な人を動かすのだろう。
彼女はそれを待っているのだ。
ずっとずっとその日まで。

「引き金はこうやって引くのよ。」
その黒い塊の操作の仕方を教えてくれたのは彼女だった。
そう確実に定めるの、慌てなくていいから。
彼女はいつも言った。 
やり方は全て彼女に教わっていた。だからこの手で何もかもできるのだけど、彼女はそれを許そうとはしない。でも私はいつかそれをしてみたくて、もう随分と前から準備をしていた。

朝、彼女の元へいくと、もう彼女はいなくなっていた。
あの身体で遠くに行けるはずなかった。
裏切り者のいる町には、遠くていけないはずだった。

裏切り者のいる町で、大きな爆破事件が起きた。
裏切り者は即死して、その配偶者も亡くなった。
子どもたちは無事だったけど、皆大怪我を負っていた。ほかに怪我人はいないはずだった。
たった1人を除いて。

その日、裏切り者には一通の手紙が届いていた。

忘れたことはなかったわ。
ずっと覚えていたのよ。あの日からずっと。

震える文字で、それだけが書かれていた。

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