慶次郎の独白3 ー美紗子視点ー
洋館の窓越しに薄い藍色の夜空が広がっている。
星は名残惜しそうに瞬き、東の空にわずかな白が滲み始めていた。
けれど、廊下の中はまだ夜そのもの――冷たい空気が肌を刺し、吸い込むたび肺がひやりと痛む。
慶次郎の足音が、静寂を切り裂くように「ぎ…っ」と響いた。その音が、凍てついた空間に染み渡り、何度も反響しては溶けて消えていく。
この時間の廊下は、まるで時間が止まっているように感じられる。微かな蝋燭の炎が揺れるたび、壁に映った慶次郎の影が淡く波打った。
美紗子は、息を潜めたまま、その背中を見送る。
「嗚呼、もしかしたらこのまま…この先、あの人は戻ってくることはもう二度とないかもしれない――」
そんな恐ろしい予感が、冷たく指先から心臓にまで伝わってくる。外の空が白み始めるころ、空気がわずかに動いた。
「……お兄様、お願い、行かないで。」
胸の奥で叫びたくなる言葉が、喉元で固まる。
蝋燭の火が一瞬はぜた。
美紗子は立ち尽くし、ただその瞬間を呆然と見ていた。炎が消えそうになるたびに、不安が押し寄せる。けれど慶次郎の背中は迷うことなく進んでいく。
廊下の奥の扉がゆっくり閉まり、音がすべてを閉じ込めるように響き渡った。
美紗子は目を閉じ、胸の奥で繰り返される小さな願いを飲み込んだ。
「あと少し……せめて、あと少しだけ――夜のままでいてくれたら……」
慶次郎との時間を、後幾つ指で数えて行くのだろうか、と美紗子はぼんやりと、奥に閉ざされた扉を見つめたまま、思い馳せた。
扉の向こうの世界――慶次郎が向かう場所は、今この街全体を覆う空と同じように、冷たく容赦ない戦争の気配に満ちているのだろうか、と。
東の空が淡い白をまとい始め、藍色の夜をそっと押し流していく。
街並みは夜明けの光を浴び、形を取り戻しつつあったが、その中に漂う静けさは、ただの朝の静寂ではなかった。
軋む看板には「出征」の二文字が掲げられ、張り紙の文字が風に揺れてかすかに音を立てた。人気のない通りに響くのは、冷たく吹き抜ける風の音ばかり。笑い声も日常も、街から遠く追いやられてしまった。
しかし、洋館の中だけは時が止まったように静かだ。美紗子は扉の向こうに想いを馳せながら、冷えた廊下に立ち尽くしていた。まるで外の変わりゆく世界とこの館の狭間に閉じ込められたかのように。
「お兄様……どうか無事でいて――」
その願いは声にならず、朝の冷たい風が洋館の外を切り裂いていった。