
不器用に歩む人生ほど魅力的なものはない。
人間には、丸い人間とそうでない人間とが存在します。
・・・念のため、体型のことではありません。
何て言うんでしょう、人間性とでも言いましょうか。
丸くない人間というのは、往々にして、四角く尖っているものです。
四角く尖っていると、何だか印象も怖そうだし、本人にその気がなくても、何かの拍子に誰かを傷つけてしまいそうですよね。
だから、人間は古くから、四角く尖ったタイプよりも、人間性に丸みを帯びたタイプの方が好かれてきたのだと思います。
人間というのは面白いもので、人生経験を長く積めば積むほど、四角く尖った部分が徐々に削れ、大抵の人は最終的には丸くなるものだと思っています。
木製品の玩具などが良い例ではないでしょうか。
最初は四角かった物が、手で触れるごとに、また時間が経つにつれて、段々と丸みを帯びてきます。人生で例えると、四角く尖った「自己」というものが丸くなることで、今までは億劫だった人生の歩みも、転がることでラクに進めるようになります。
しかし、それでも尖ったままの人や四角いままの人が存在することも事実。それは一体、なぜなのでしょう?
丸くなって転がっていった方が進みが早いし、もしタイムトライアル方式で他人と競うことがあれば、間違いなく丸くない人よりも進み方が滑らかになるはずなのに。
タイムトライアルは、人生で言えば寿命に例えることもできます。他人の寿命が、自分の寿命と比較して短かったときに、初めて長寿であったといえます。「与えられたタイムが同じなのに進み具合が異なる」というのは、「与えられた寿命は同じでも人生の歩み方が異なる」のと同じです。
四角く尖った人は、たしかに丸くなって転がっていった人よりも、人生を長く生きることはできないかもしれない。だが、彼らの通ってきた道のりには、くっきりはっきりとした跡が残っています。
なぜなら、彼ら自身が四角く尖っているので、通ろうとする道を削り取りながら進んでいくしか方法がないからなんです。そうすると、彼らが通ってきた道は全てにおいて凸凹しているので、誰が見ても「あっ、あそこは彼らが通ってきた道だ」と理解することができるわけです。
逆に言えば、このような生き方というのは、人生の進め方としては不器用の極みかもしれない。しかし、それだけ濃密な人生を送ってきたとも言えるのではないでしょうか。
もしくは、こうも言えます。つまり、濃密な人生を送ってきただけに「1度きりの人生だから、自分がまさにこの世に存在していたのだということを、深く爪痕として残しておきたい」と思って止まない人だけが、丸くなろうとする事に対して抗いをみせるのではないでしょうか?
器用に人生を歩む人、不器用にしか人生を歩めない人、各々善し悪しがあろうかと思います。
器用に人生を歩む人の方が、不器用にしか人生を歩めない人よりも、客観的に、より人生を楽しんでいるように見えたとしても・・・
器用な人生の歩み方に対して抗うことは、決して格好悪いことではありませんよ。
今回は以上です。
最後まで閲覧いただき、ありがとうございました。