発達障害は『個性』・・・? (その2)
前回からの続きです。
前回の記事のリンクを貼っておきますので、こちらをご覧になってから閲覧してみてください。
さて・・・
「発達障害を個性とみる考え方」に100%は賛成できないという話でした。
前回の記事でも紹介した通りですが、この考え方で引っかかるのは、個性と捉えてしまうと「発達障害そのものがあまりにも軽くみられはしないだろうか」という点です。
例えば、性格と同じで修正できないものだから仕方がない。
だから諦めて、他の道を模索するしかない。
発達障害者がもつ苦労や悩みは、そんな一言で片づけられるほど甘くないのです。身体障害者の皆さんのように、物理的に障害があることがわかるような障害とは、また別の特徴をもった障害なのです。
誤解なきように一言加えておきますが、これは決して身体障害の皆さんのことを軽んじているわけではありません。断じて、それはありません。
ただ、障害者と一口に言っても、障害の種類によって、その障害の『表への出方』が様々であるということをお伝えしたかっただけです。
話を元に戻しましょう。
発達障害は個性 ⇒ 個性だから修正できない ⇒ 修正できなければ修正しなくても済むような生き方を模索すればよい・・・
往々にして、健常者の方に、このような考えをお持ちの方が多いようです。
発達障害者には、発達障害者なりの苦悩があります。それは他の障害者の皆さんも同じことです。そしてまた、健常者の方にも、健常者なりの苦悩がおありだと思います。
健常者は障害を持っていない分、現代の社会構造の中にあっては、求められるスペックが高くなりがちです。だから、中には発達障害者以上の苦悩を抱えている健常者の方も、少なくないでしょう。
そこは、発達障害者も健常者も、一旦はお互いに認め合うべきところではないでしょうか?
今回・・・私自身、「発達障害は個性である」という文章に穏やかならぬ感情を抱いたのは、もしかすると、健常者自身が「自分たち=健常者たちと明らかに異質な存在をどう定義しようか」という、健常者の発達障害者に対する一種のオゴリのような部分を垣間見たからなのかもしれません。
今思い返してみると、私が就労移行支援事業所を途中でリタイアしてしまった背景には、このような発想を知らず知らずのうちに抱いていたからなのかもしれませんね・・・。
これで【 発達障害は『個性』・・・? 】のシリーズは終わりです。
ここまで閲覧いただき、ありがとうございました。
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