田中泯さんの『名付けようのない踊り』を見ながら、自我とアートについて考えたこと(その1:ワタシがいない話)
俳優としても有名な田中さん。どの演技を見ても、役者が演じているのではなく、演技ではなくて、役柄の本人がそのままただいるかのように見えちゃう。
以前、その田中さんの本業(?)が舞踏であることを知った時に、舞踏についてのインタビューでこんなくだりを読みました。
「踊るときはカラダの中からこの「私」を外に出すというのか…。コンディションのいいとき、「私」というのは踊っている間、カラダの正面や後ろや上方から、自分のカラダを見ているような状態になります。」
https://corp.netprotections.com/thinkabout/2483/
これを読んだ時、あ、その経験ある(一度だけだけど)!って思ったのです。
高校生の時のピアノの発表会でのこと。
小さい子たちの部のゲストとして最後に弾かせていただいた時に、私が弾いているのに、「ワタシ」は弾いていない!という経験をして。
自分の指がくるくるよく動いて、弾いているのをただ眺めているだけ。
いつもならミスタッチするから気をつけなきゃーというところも勝手にミスタッチなく進み、「へー、ミスタッチしなかったよ、すごいね」って頭の中で冷静に考えている感じ。
いつもなら、体の中に私がいて、指の先まで「ワタシ」の意識が満ち満ちていて、コントロールをしていると思っているわけですが、なぜかその時は体の中に「ワタシ」がいる感じがなくて、体が勝手に演奏をしていて、そこに「ワタシ」は関与していない(関与もできない)感じ。
演奏が終わると、両親や先生、知らない人たちからも、素晴らしかった、感動したと言われまして(そんなにいつもは言われない)。
でも、自分で弾いた感じはなかったので、達成感とか一切なし。
へー、そうだった?確かにミスタッチは少なかったけど〜、みたいな感じ。
その経験があったので、アートの世界ではこの「ワタシ」がいなくなるっていうのがめちゃくちゃ大事なんだなと思っていたわけです。でも、それを再現する術を持っていたわけではなく、経験の一つとして埋もれていたわけなのですが。
そこから数十年経ち、キャリアカウンセラーの資格を取ろうしたり、フラを習い始めたり、ピアノを再開したりして再燃した、この「ワタシ」がいると邪魔でしかないという件。
色々試行錯誤していたら、「ワタシ」がいない状態に日常的にシフトすることが突然できるようになり、それぞれの師から教えられたことの意味が、そういうことーー!!っていうのがようやくわかるようになりました(しかし、それができないと前には進めないけれども、それができたからといって必ずしも一気にパフォーマンスが上がるわけではないみたい、というのが残念な発見)。
ただ、その状態の方が、通常営業の「ワタシ」が自分の人生をコントロールしていると思っている状態よりはるかに幸せであることは事実。
映画の最後に、田中さんが踊り終えて、その深い「ワタシ」がいない状態から個として言語を使って機能できる状態に戻ってきて一言、
「幸せ」
と言っている時のこの幸せ感が、何を達成したとか、何が得られたとか、そういうところではなくて、根源的に満たされたところから出てきているのが想像できるなぁ、と思いながら帰ってきたのでした。
つづく・・・