M. Horkheimer「歴史への信頼」(1946)
①啓蒙〔Aufklärung〕の思考を前にして社会は、自然における歴史の主張という目的へ人間を同一化〔Vereinigung〕するものとして現れる。「必然性は人間を相互に馴染ませ、人間を同一化する」とモンテーニュは述べる[1]。そのさい、彼は古代の経験主義者を引き合いに出す術を心得ている。「続いて、この思いがけない同一性は、諸法則の中で変形される[…]」。これは、ヴォルテールによれば、情熱〔Leidenschaft〕や理性〔Vernunft〕とともに第一の存在〔Wesen〕を野生性の状態から感知した諸欲求〔Bedürfnisse〕を指している[2]。言うまでもないことだが、この諸欲求は人間を、傾向〔Hang〕を健康にし、その他の自尊心を利益にするのに最も適した人間として、同一化してきた。「それゆえ、早い段階から人間は2つの階級に区分けされた。一つ目は、自身の利己愛〔Eigenliebe〕を公共の福祉のために捧げる、あの素晴らしき人々であり、二つ目は、自分自身しか愛さない、あの哀れな人々である。今も昔も、彼らは第一の階級に所属しようとしてきた。自身の心臓部に基づけば、誰しもが第二の階級に属しているというのに。そして、最も臆病な人々そして最も利己的な人々は、それ以外の人々であるとして嘘偽りなく次のように叫ぶ。すなわち、社会全体の老人のためにすべてが犠牲にならねばならない、と。快感に身を委ねるために尊大の性質、教皇や皇帝のように人目を引く専制君主や村長のもとへと歩み出てくるような性質というのは、なおも人間的活動のための影響のある激励を作り出している。というのも、〔それは〕人間を他の人間へ従属させるためである」[3]。これら暗い欲動〔Triebe〕、人間にある諸矛盾はその諸力を発展させ、生産の強度を高め、文明的進歩を生じさせる。すでにマキャヴェリが指摘しているように、貴族と国民の間にある階級闘争の利益を見損なう人間など誰もいない。「それから、そうした諸闘争のもとで発される喧騒や叫び声は、そうした叫び声の結果から生じるいくつもの良い作用〔Wirkungen〕よりも考慮されるが、どの公共団体の中でも国民や偉大な人々の心的態度が区別され、それら不一致からあらゆる法則が自由の最も好都合な状態へと進んでいくということが考慮されることはない」[4]。対立の独創的な暴力についての理念は、ヘラクレイトス以来、市民哲学〔bürgerliche Philosophie〕を貫いて支配してきた。ヘーゲル論理学は、この理念〔or哲学〕を否定の力〔die Kraft des Negativen〕と名付け、否定の歴史哲学を理性の詭計〔die List der Vernunft〕と名付けた。その最初の歩みですでに示され、理論家が意識へと高めたような社会概念、すなわち社会的な目的〔Zweck〕と個人的な目的の調和、普遍的なもの〔Allgemein〕と特殊的なもの〔Besonderen〕の調和というのは、歴史の客観的なプロセスによって現実化される。マルクスの教説は、こうしたこうした物の見方を資本主義に従って貫徹した。比較的早い段階の社会形式が自分自身のもとから諸条件をより高次に組織化し、人類の大部分を満足させる諸関係を生み出すように、現在の社会形式は、正しい社会の概念と同時に人間の概念を最後に実現するために必要であるあらゆる諸要素を発展させる。労働者階級〔Arbeiterklasse〕による政治は、経済的諸傾向を補強し、転換へと駆り立てる。言うならば、この政治は、産業プロレタリアートの予防策としての労働者法[5]の討議の中で、「巨大な社会的諸段階において結びつけられた労働過程の中で矮小化された物差しの上で分散したその過程を転換すること、すなわち資本の集積、そして労働政権の独裁政治」を「一般化し、加速させる」のだ。「〔そして〕彼らによる政治は、あらゆる古めかしい政治を破壊し、資本の支配がいまだ部分的に隠している裏にある移行形式を破壊し、その支配を資本の直接むき出しになっている支配に置き換えてしまう。いくつかの生産過程の物質的諸条件や社会的結合とともに、労働者階級による政治は、その生産諸過程の資本主義的形式に存するいくつかの矛盾と対立〔Widersprüche und Gegensätze〕を成熟させ、それゆえ、同時に新たな社会の教養諸要素と古い社会の変革〔Umwälzung〕の契機を成熟させるのである」。こうした理論によれば進歩というのは不屈ではありえない。というのも、崩壊そして僭主政治の時代におけるどの変革も先行しているように、社会主義の時代の前途には、資本の直接むき出しになっている支配の時代、すなわちファシズムがあるからである。しかしこの目標〔Ziel〕は、あらゆる退行〔Rückfälle〕にもかかわらず、マルクスによれば、市民的進歩の理論のように歴史の中にはつきものである。この目標は、敵対的な自然〔Natur〕の分析の中で同一化された人類による、合理的な自己保存〔Selbsterhaltung〕であるのだ。
②歴史への信頼〔Das Vertrauen auf die Geschichte〕は、神への信頼を剥ぎ取ってしまう〔ablösen=引き継ぐ〕。この信頼は、中世における概念の実在論を次のような意味で固持している。すなわち、人間は歴史の進展に適当である有効性によって、自身に固有の概念を実現させるという意味において固持しているのである。また、この人間がいくつかのエマナチオ〔Emanationen〕の諸段階によってではもはや最高位の人間と結びつけられることはないとしても、彼は拡大する合理的な文明の審級〔Instanz〕によって正当と認められる。と同時に、無意識に経済的・社会的・心理的メカニズムは進歩を条件付けるかもしれず、そのメカニズムの中で作用する統一的な傾向は、客観的規範を形成し、人間の利害諸関心〔Interessen〕にその主観的事実性を超えた条件を与える。市民にとって、現存する諸関係への適合がそうであるように、革命家にとって、労働というものは彼らの規則〔Bestimmung〕よりもより良い社会の設備と見做されている。啓蒙された個人がそれによって実存〔Existenz〕の無意味さを免れていると思っていたような、こうした物の見方というのは、絶望的なジンテーゼ〔Synthese〕を描き出す。この見方は他律の要素を含んでいる。すなわち、所与のもの〔Gegebenes〕、盲目なものは人間を導かねばならない。そして、その中で人間は運命信仰ないしどの神話〔Mythos〕にも利用される。彼らは行為〔Handeln〕を時勢に従属させ、追従主義〔Konformismus〕は彼らの知恵である。あらゆる行い〔Tat〕とともに人間は、あらゆるものを条件付ける非常に強力なメカニズムに従属し、彼らの偶像〔Götze〕は、黙って事実を表明するものとなる。しかし、その偶像は、歴史の中で人間の現実化を見ることで、その原理は同時に普遍的な原理、すなわちどの人間にも適用される原理の実現となる。単に事実であるものが成されねばならないのではなく、精神的なものが現実化されねばならない。歴史への信頼が人間の概念を基礎づけ、それゆえ理論を実践に全く現れさせないことによって、この信頼は正しい社会への眼差しを留保するのである。主体〔Subjekt〕は、〔任意の〕概念を自身の行為の根底に据えることはできないし、同時に次のような要求なしには生じることもない。すなわち、どの他の主体も―〔すでに〕行為によって自身の生を喪失しているのだが―自身のものとしてその概念を肯定しうるような要求である。これは、カント的観念論にとって基礎であるような真理の単一性についての理念である。概念は、支配の中で個人が固く保持している諸対立を非真理として想定することで、諸個人の偽なる原理を同一化する。支配を現存するものや権威あるものとして断言する同一の判断〔Urteil〕は、その判断がもつ概念性、つまり全てのものに適用される〔判断による〕要求の中で支配の外〔部〕を指し示すことによってのみ、その支配をすでに悪しきものであるとして告発しているのである。そして、この判断は、そうした諸対立の起源を認識することの中で、真なる現実が具体化されうるようなより良い現実への視線を画一的な現実から明らかにする。いつでも概念的判断が人類を否定するところでこの判断は、自分自身と矛盾している。言葉〔Wort〕が話者〔Sprecher〕を告発している間に、この言葉というものは、辱めるのに用いられうるだけである。歴史への信仰が人間の概念を定めるのならば、そうした懸念はなおもこうした信仰のなかに生きていることになる。この歴史への信仰はヒューマニズムの形式であり、究極的には人間の野蛮への移行を遂げることになる。実証主義が死んだように表明しているもの、ファシズムがメッキを施したもの、すなわち言語〔Sprache〕は、そうした信仰の中で呼吸をしている。言語は現実を概念に適用することによって、同時に、その〔言語の〕遂行と、言葉によって適切に表現される形態の間にある深淵を明らかにするのだ。
③しかし、言語というのは社会全体〔Allgemeinen〕に対してアンビヴァレントな態度をとる。言語は、誰に対しても同じような諸概念の下で包摂するのだが、包摂するものであったり、既知のもの、固定されたものであったりと見做されている、こうした述語化された〔prädiziert〕社会全体は、自身が適切に表現せねばならない事物〔Ding〕に相応しいわけではない。この述語〔Prädikat〕というのは、不確実なものを経て規定する抽象的なものによって主観〔Subjekt〕を具体化しようとする。主観の名〔Namen〕は暫定的なものであり、述語は正しい名〔Der richtige Namen〕、すなわち述語の秘密〔Geheimnis〕を解明する名を見つけ出そうとする。判断というのは、存在者の沈黙〔Stummheit〕の中で口に出せないものを、その存在者に〔対して〕表現するのを手助けする試みである。この判断は、言語の意味〔Sinn〕、つまり言語がその弱さにもかかわらず常に目論んでいる意味である。弁証法的否定〔Die dialektische Negation〕は、論証的な思考の弱さに対し、真理の理念を固く保持し、判断の主体、すなわち特殊なもの〔Besondren〕を公平に扱う。というのも、判断があの判断の主体と同一視する普遍的本質は、常に主体にとって宿命であるからだ。どの特定のテーゼも受け継いでいく特殊な否定〔Die spezifische Negation〕は、こうしたコプラ〔繋辞〕を否定する。というのも、この否定は、自身を確立する同一性〔Identität〕のもとで論理的に主体について、実践的に自身を具体化し得ないものを抑圧するからである。その下でこの弁証法がこうした具体化し得ないものを包摂するような概念は、この具体化し得ないものが制限され把握される点でのみ、自身〔or主体〕にとって適切である。それゆえ、ベルクソンはこうした概念を形而上学から完全に追放してしまった。それに対して弁証法は、生一般の表現を否定することもせず、個々の判断の不十分さへの洞察を、その判断の完全さの媒体〔Vehikel〕にしようとしていた。この不十分さ〔の原因〕は述語の完結性〔Abgeschlossenheit〕にある。概念的な普遍性、〔その〕諸特性、そして物理的・生物学的・心理学的形式は、そのつど〔jeweils〕特殊なものが根底にある法則であり、これらは特殊なものの有限性〔die Endlichkeit des Besonderen〕を表現する。主観は動物であり、人間であり、主人〔Mann〕であるのだから、この主観は打ち砕かれねばならない。判断は生命あるものを単に自然として把握し、また、特殊なものを物理学的カテゴリーではなく社会的カテゴリーにおいて思考しているところで、国民〔Nation〕もしくは国家〔Staat〕として把握している。にもかかわらず、概念というのは、従属するものにとっては単に表面的なものにすぎない。コプラがそれ自身に固有の本質としての主観に対置するのとほぼ同時に同一視もするものは、間接的に主観による憧憬〔Sehnsucht〕の秘密、しかしその憧憬が名付け不可能であるような秘密についての何かを述べる。概念において、充足と苦痛は不可分である。また、人間を具体化する概念の不変さが生を抑圧し、歪め、庇護されているものを抑圧する防衛策として祖国だけを識別することによって、この概念の不変さは、生に奉仕する社会を忠実に反映することになる。ヘーゲルの論理学はこうした洞察に支配されており、絶対者の諸カテゴリーを没落の諸形態として発展させた。彼の論理学の裏切りというのは、この論理学がそうした真理の内容とともに処理を行う平和のうちにある。しかし、結局この論理学はアリストテレス的に有限なものと生存者、善と永続的なものをそれぞれ同一視し、そして、失われたものと、それが忘れ去られている諸カテゴリーを同一視している。他の追随を許さないように、この〔ヘーゲルによる〕仕事は判断の不正によって貫徹されているのと同時に、現実の不正によってでも貫徹されているのだが、こうした仕事は判断の体系のもとで静まっており、こうした仕事によって、弁証法の重大さなど虚偽であることが、無を受け入れ、苦痛を受け入れ、理念としての神の国の死を受け入れることによって暴露される。論理の完全さの中で個々のものは、自身に固有の自己〔Selbst〕を再認識し、彼らに全体性をもたらす運命に苦労して自己を宥和〔versöhnen〕させねばならない。彼らは精神によって、その没落のなかに存するまさにあの秩序とともに克服されねばならない。個々のものというのは、真理の目標であるという。特殊なものと普遍的なものの矛盾が、ヘーゲルがなおも『精神現象学』まで政治を通じて期待していた自身の矛盾の克服へと駆り立てているように、歴史の矛盾は、こうした特殊なものと普遍的なものの矛盾を示している。同時代の歴史を眼の前にして、ヘーゲルはこうした希望を失い、充足の基礎としての福祉国家の制限された人間性のもとで慎ましい生活を送った。こうしたことがあってから、彼は歴史的に成されたものに基づいて精神の王国や文化と宥和していく、と心に刻んだ。
④そのため、彼の哲学は諦念、総じて市民的哲学のようなストア哲学になってしまった。彼は、ショーペンハウアーとユダヤ教とともに個人の孤独への洞察を分かち合い、ニーチェとともにそのことに対して「然り」と述べたのだった。ハイデガーによる超越論的な不安に対するMut-Machenといった近代の実存論的な哲学など、それ自身がストア哲学、つまり古代の運命愛〔amor fati〕の一形式、世界崇拝でしかない。ヘーゲル弁証法の個々の歩みのどれをとっても、この弁証法が未完であるかぎり、不十分な叙述を止揚することの内に存している。単に事物ないし人間として認識される主体は、そうした判断とともに未だ自己自身へと至っていない。しかし、最終的には、こうしたあらゆる否定によって形成された知〔Wissen〕は、絶対的な判断、すなわち十分な〔完結した〕概念であらねばならない。神的な真理というのは、生成の葛藤、そして生成をいくつも規定する全体性への洞察であり、最後から二番目の段階と同時にあらゆる他の段階が概念へと高める最終段階であるという。それに応じてこの真理というのは、あらゆる客観性にもかかわらず、単に知的なものである。歴史では取り戻せず、宗教、芸術そして哲学における思考だけが実行せねばならない歩みが、この〔神的な〕真理を実現するのである。以前から、こうした思考による限定的否定〔bestimmte Negation〕の代わりに、完全性それ自体として思考を向上させることは、あらゆる生物の最奥へと世界の力を変形させることであった。こうした思考の向上は、今一度あらゆる生物の最奥に対して、この最奥それ自身が保持し続ける不正を示す。概念が真理を利用し尽くすとき、もはや生物における他なるものに対する余地は、それが包摂される原因である力〔Macht〕として委ねられることはなく、あらゆる生物は、体系や概念によって占められたものと見做されるし、その残滓は、些細かつ非現実的な偶然として退けられる。ヘーゲルは、他の追随を許さないように言語の精神を適切に捉えた。すなわち、言語が述べる有限なものの規定性は、同時に、有限なものの苦痛や殲滅を意味する。特殊なものは、こうした規定性によって自己を神的なものとして反映するべく、同時に次のような犠牲を払うことになる。すなわち、特殊なものは、普遍的なもの、宿命、自然と歴史における支配諸形態、最終的には戦争と自己同一化するという犠牲を払うのである。存在を述べる者〔=ハイデガー〕は、必然的に力と死に想いを寄せねばならない。彼が判断を利用し、特殊なものを完全に存在の中に残されたものと見做すのならば、彼はこの特殊なものをすでに無〔Nichts〕として、すなわち当たり前に没落していく無として固定してしまっている。言語と真理を同一化する作用は、真理の分裂が言語によって沈黙させられた絶望であるように、残虐的である。これは、言語を貫徹することで行き着く、最高の洞察である。特殊なものを正当に評価するために思考の中で普遍的なものをどれほど規定しようと、特殊なものの表現をより精確に表現するためにあらゆる規定性がどれほど尽力しようと、規定されたものの包囲網は、運命の網目を反映することになる。
⑤言語がこうした〔最高の〕洞察を仲介することによって、はじめて言語は魔法のごときミメーシス的〔mimetisch〕振る舞いから、思考に移行する。概念は、言語にとって現実主義のように神的理念の写像と見做されることもなければ、唯名論〔Nominalismus〕のように意味のない単なる芸当であると見做されることもない。社会全体、すなわち概念の対象は、言語自体を、言語が告発する否定にする。言語が包摂される〔orする〕ことによって、言語は苦しみ〔Leiden〕を詳細に記す。言語が社会全体を記述するとき、人間を結びつけるものというのは、〔人間〕自身が現実のなかに絡み取られる原因である社会全体によって、今一度思考のなかに絡み取られるような可能性にそこまで結びつくわけではなく、すべての人間を支配する力を持つものを人間が述べるまさにそのことに結びつく。そうした機能においてのみ、言語は、その下で同一化されたものが解読不能なものの同一性〔Gleichheit〕と支配されたものの画一性の中で歪んでしまっているような人間の間にあるいくつもの壁を揺さぶるのである。以前から懐疑論と相対論は、心的個人による真理の条件付けのための人間の知とともに、概念の不適切さを確定することによって、意志に反して概念の要求の絶対性を裏付けてきた。これらは否定の方法である。彼らの〔こうした〕簡単な振る舞いは、弁証法を殲滅することの普遍性ないし抽象性によって区別される。こうした抽象性〔普遍性〕は、一定の判断を一定のアンチテーゼによって相対化し、判断自身がそれによって自己を追い出してしまうような、果てしない要求を判断の制約によって請け負おうとする。そうした要求を自己実現〔in sich selbst erfüllen〕しようとすることは、どの芸術作品の意味でもある。そして、芸術作品というのは、判断とは対照的に、全体〔Totalität〕であるのだ。つまり、それ自身の中で芸術作品は、存在を全体〔Ganzes〕であるとして反映する真理を閉じ込めようと考えている。判断と同じように、芸術作品というのは、現実であるものを語ろうとしている。しかし、いわば具体例に適用してみるならば、第九がその部分で音楽的言語から話される言語に転調するような場所というのは、両方の窮地を暴露する。美的手段が不十分なところでは、こうした〔美的〕手段は論理的に拒まれる。それどころか、これら両方の窮地において請け負うことが不可能であるような約束〔Versprechen〕、つまり意図と実現の不一致は、まずもって明らかだ。人間と人間性、親密さと全体といった語の反復は、なおも芸術作品の起源よりもいっそう無力である。弁証法的進展なき概念など、抽象的で無害なユートピアにすぎない。人間の概念を実証的〔positiv〕に把握し、その概念から現実の原理としての他なる原理を獲得する試みに言語はなおもずっと抗っているし、この試みは、単にストア哲学に、最終的には自己主張の理念に戻っていく。そうした形態における哲学を看取する最高の存在というのは、人間の外にいるあらゆる存在の支配をますます安定的に毅然とした姿勢で維持するためにその中でうまくやっていくことができるような社会、すなわちヨーロッパ哲学の理想、あらゆる独占的理想のエネルギー、そして友好関係における理想である。人間の言語は、絶対的目標を指し示したりはしない。ヒューマニズムは現実にあるものに対置される原理を人間概念の中で発展することを信じ、最終的にこの原理の実現を歴史の中に見ていた。こうした原理は、概念によってでは適切に表現されない。名を秘したものは、こうした原理を言語そしてその諸概念にとって基礎になるようにする。概念がこうした現実にあるものに対置される原理を指示するように、社会によって維持されている人間は支配を行使するのである。たとえ実際に国家が崩壊し、周囲を取り巻く自然だけが人間の盲目性を経験するのだ、といったいくつもの助言が申し分なく機能しようとも。人間が行使する力は、自身が人間についての普遍的概念と完全に同一になることによって、そのとき人間〔or力〕の心臓部にさえ反作用を及ぼすことになる。歴史への信仰が真理として包摂していたあの普遍性は、集団などではなく、その集団による強制からの生物の解放であった。苦しみの共同は、概念の中で明確に定式化されたのであった。概念は、具体的に不自由を思考することによって、自由に目を向ける。そしてこの苦しみは、否定によって限定されたもの〔Bestimmung〕の宥和的力である。しかし、歴史への信頼は、そうした否定に移行していく。すなわち、その否定というのは、生物だけを救い出して表現にもたらす言語が、生物を自己と一致する概念にすること、ならびに、司法権が人間をかつて犯してしまった犯罪者と見做し、根絶してしまうことによって、その言語自身が持つ欠如についての意識にほかならない。そうした〔歴史への〕信頼は、進歩における信頼ではない。つまり歴史学的進歩における信仰でも論理的進歩における信仰でもないのである。限定されたものの進展は、言語が信頼しうる処方箋ではない。たとえ、どれほど言語がこうした処方箋に押しやられようとも。人間についての普遍的概念は、ユダヤ人もしくはドイツ人についての概念の中で気化する想起〔Erinnerung〕を包含している。精確な規則のもとにとどまる命題よりも、抽象的な命題のほうがなおも苦しみの撤廃の多くを予告するのである。
[1] モンテーニュ『エセー』1931.
[2] Cf. Traite de Metaphysique, 1879.
[3] l. c.
[4] マキャヴェリ, Itrae libre de Discorsi sopra la prima deca di Tito Livio, 1925.
[5] マルクス『資本論』1914.