
『啓蒙の弁証法』に向けた手記と草稿(仮題)
(1)欲求の問題によせて:A・ハックスリー『素晴らしい新世界』の討議から(1942)
Ⅰ
物質的欲求と観念的欲求の対決は、近くにいる傍観者のもとでは維持することが不可能であると示される。変わることなくこうした区別に固執することは、陰鬱な理論的そして実践的な過ちに通じている。そのとき、ハクスリーやマーデルンクなどの作家が依拠しているような静態的な概念的基礎が受け入れられることになる。
Ⅱ
本書全体を通して語られているように、充足を目指しうる観念的な諸欲求は、社会的な形式、つまり物質的な諸欲求がその中で充足されねばならないような方法様式にほかならない。〔ニューディール政策における〕一滴のミルクへの要求への声が高まってきたとき、この要求はそれ自体、表現されることのない「うわべだけの」数多くの諸要素、つまりミルクがきれいな器の中に入れられ、危険なバクテリアもなく、一定の脂肪含有量を示していること等々、これらを統治する主人の口の中に含んでいる。テキストと厳密に照らし合わせるのならば、このテキスト〔の内容〕は実現するのだろうが、ひとは欺かれることになるだろう。弁証法は、栄養価や容器の性質などは、子どもが欺かれているかどうかといったことに際して役に立つだけではないということを知っているし、例えば、父と母は、無意味な労働や自らを喪失する不安の重圧の下にあるわけではないということも知っている。さらには、子どもが良家に住んでいること、名医がここにいること、そのとき両親やその周りの人々の外見や本質の中で反映される搾取的な支配、そしてありうる長さを超えた不潔な器に入っているミルクを腐敗させるような搾取的な支配など存在しないということでさえ知っている。社会秩序は、脂肪含有量と全く同じようにミルクの一部をなしている。ミルクの代わりにその化学式を飲もうと声高に主張される限り、物質的欲求と観念的欲求の間にある切れ込みをつなぎ合わせることは、全くもって相対的なままでしかない。
Ⅲ
人間が孤立し、単なる動物と見なされるとき、諸欲求は目盛りを刻まれる。簡単に調理された料理があるかのごとく、彼が何も食べないのならば、彼は根本的に昔の状態に戻ってしまうであろうし、青果と交換することで彼が簡単に調理された料理を食べるのならば、彼は根本から昔の状態に戻ってしまうことになる。彼は、耐えうる空気よりも早くに暗く湿った割れ目へと没落するし、労働のもとで移動式の仕事場よりも早く鉱山へと落ちていくし、保護装置付きの工場よりも早くに毎日事故が起きるあばら家へと没落していくし、然るべき休暇や苦労のない老後への展望よりも早くに休憩なしに14時間もの労働時間や仕事場を失うことへの持続的な不安へと陥っていくし、興味深く変化する就業よりも早くに生理学的装置の大部分を消耗させる単純労働へと陥ることになる。もっとも、これらすべては静態的な蓋然性の意味においてであり、これらは巨大な数字に適用されてきた。こうした序列は、決して意味のないことなどではなく、この観点からすれば、社会主義でさえ科学的であらねばならない。だが、例えば、単調で陰鬱、そして望みもなく、苦悩に満ちた終わりとともにある生が、たとえ衛生に関わる最小限の条件の結果として生きながらえたとしても、これ以上の生なくして熱望された生もないような多くの契機によって、この序列は政治への応用の中で複雑化する。しかし、重大な合併症は、人間の社会的な自然の中にある。最も根源的な欲求でさえ充足させる努力は、一般的には幻想である。事実、この努力は、数百万もの人間が没落していく国家的で国際的なカタストロフを引き起こすような状態を維持することと結びついている。こうしたカタストロフの終結への欲求、それゆえこのカタストロフの原因である秩序の変化への欲求というのは、孤立した動物としての人間の考察によってでは明らかになることなどありえないが、生の自然な必然性に比して二次的、三次的、高貴、高次もしくは「精神的」であることなどありえないのである。
Ⅳ
物質的諸欲求と観念的諸欲求の相違がすでに出来上がっているのならば、物質的諸欲求の充足は明らかに要求されねばならない。というのも、上述のテーゼが示すように、この要求において、社会の変化は同時に定式化されるからである。いわばこの変化は同時に理性を閉じ込めてしまうのであり、あらゆる人間に最善の生活諸条件を認めた諸関係にほかならない。すなわち、社会的なものの追放が、苦しみを条件づけたのである。だが、孤立し観念的になっている要求を強調することは、実際には無意味になってしまう。憧憬や超越的な知、危うい生への権利が主張されることなどありえず、それどころか、そこからラジオ広告やドラッグストアの流動化が要求されるのである。大衆文化に対する闘争は、その文化と悪しき支配の連関を暴くことの内にある。この闘争が形而上学への傾向を侵害することについての責をチューインガムに押し付けることなどバカバカしいが、ヴリグレーの利益とシカゴにある彼の邸宅は、人間と悪しき諸関係を宥和させ、人間に批判をやめさせるための社会的機能の中で条件付けられている。チューインガムは、形而上学を害するのではない。むしろチューインガムがそれ自身、形而上学である。このことを明らかにすることが肝要である。我々が大衆文化を批判するのは、その文化が人間に多くを与えてくれる、もしくは人間の生活が安全なものになる(我々はそれをルター派神学に委ねる)という理由によってではない。そうではなく、人間が塵と悪しきものを手に入れ、階層全体が恐るべき貧困の内外で生活し、人間が不正と折り合いをつけることに大衆文化が与しているという理由、要するに、一方で巨大なカタストロフ、他方で極端な平和状態のための狡猾なエリートの共謀が期待されねばならないような状態の中にある世界に大衆文化が固執しているという理由によって、我々は大衆文化を批判するのだ。
Ⅴ
いわゆる物質的なものの形式としての観念的なものは、支配的な社会における物質的要求が削ぎ落とされ、その充足が支配的なものの分裂のための腐敗した偏向手段として利用され、それゆえそれ自体が精神にされてしまうような所で、とりわけ政治的に強調される。これは決して工業支配によって生じるのではない。むしろこれとは別に党派的なギャング団〔Racket〕の支配のもとで同じように生じる。労働運動の中に個人的な利害関心と全体の利害関心との持続的な対立がある。部分的な利害関心を局限的に満足させることによって、社会全体の利害関心を局限的に制限することへと吸収する試みに対して他の人々は、結局のところ社会全体の利害関心を充足させること––これは実際に変化していることを意味している––によってでしか個人的な利害関心を充足させることはできないという証明によって対応せねばならない。こうした観点を強調することは、しばしば直接的な利害関心に抗して、観念的で理論的な契機として姿を現す。それに比べて、実践的な政治によってと同じように理論においても、部分的な利害関心が、少なくともいわゆる精神的な利害関心のように、抽象的で儚く、観念的な利害関心と同じであるということは、明らかにされる必要がある。個々の集団による孤立した物質的要求を独占的に補強することは、キリスト教の科学を引き合いに出すのと同じようにイデオロギー的に歴史的状況の連関の中で失われうる。だが、他方で、憧憬や正義、自由についての演説は、その意味を獲得していく。事実、この演説は、人間的な共同体の形態に関連付けられている。
Ⅵ
ハックスリーの本におけるようないくつもの監視は、それ自体で馬鹿げたものなどではない(その逆である!)。むしろこれら監視は、孤独の中で固持されるとき、一次的なものとなる。いくつかの監視は、それが言うまでもなくハックスリー自身とは何も関係のない現在の政治批判の文脈の中に入り込むとき、虚偽から真理になりうる。独占下の人間のもとで生じる非人間化の特殊な形式と弁証法的思考というのは、全く異なるものでありうる。この形式は、本質的に資本主義の一部であるような物象化を先へ進める。人間は機械の付属品になるという教説は、今日の諸関係に基づいて細分化されうるし、広範に推し進められるし、歴史的な問いへと適用される。例えばこのことは、アメリカの労働者運動は言うに及ばず、ドイツ社会民主主義の歴史のもとでは少しも明らかにされえない。そのため、大衆文化についての個々の現象をその当の文化それ自体のために非難することは、本末転倒である。だからこそ、人間を来たるべき災害のために束ねるような網の中にある結び目として、大衆文化を認識し、規定することが重要なのである。
(2)文学と道徳(1942)
①ブルジョア文学は、その著者の明確な性向であったし、著者のそのつどのテーマは、実験体であり、少なくとも単に外的なものであった。〔ここでは〕反動的もしくは進歩的な心情、つまり著者の意識的な信条は、しばしば叙述の意味と全く矛盾してしまう。怪物の登場などがスパイスになるセンセーショナルな出来事、つまり––『ウィネトー』におけるアヴェ・マリアのような身を焦がす––信仰よりも、むしろ信心ぶった王政復古の道徳が登場する〔バルザックの〕『娼婦たちの栄光と悲惨』が考えられている。カルタゴの虐殺がより読者の恍惚もしくは嫌悪に奉仕するかどうかは見て取られない『サランボ』の実証主義は、それでも絶対に人間的なテーマを実験対象としている『カンディード』の文体様式にすでに典型的に見られる。
②これら著作のすべてにおいて「神的公爵」は典型である。『アリーヌとヴァルクール』における怪物であるレオノーラとカステリナは、ジュスティーヌとジュリエットほど魅力的ではない。だが、道徳は反転している。悪徳の讃歌は、美徳の正当化と同じように、個人と社会の諸発展の具体化に向けた計画の輪郭を描き出し、『ジュリエット』の中で怪物にNoirceuilを差し出す、もしくは『アリーヌ』の中でカール・モールスを精神的な双子の兄弟に差し出すように、筆者はロンパ・テスタの功績を表彰するか否かという僅かな違いを叙述のために作り出す。道徳の表面性は、作品それ自体の内部に示されるのではない。サドの著作における悪徳の分析、倒錯の心理学、無神論と犯罪者の関係性の証明は、サドと正反対の人間であるド・メストルほど情熱的ではない。『ジュリエット』に由来する恐怖大臣たる聖フォンドの残虐な提案が、ド・メストルのサークルに従事する社会的諸理念に広く合致したとき、ネヴァ川のもとでなされた、あのサンクト・ペテルブルグの最初の夕方についての演説は、かの恐怖大臣の宮殿で行われた晩餐会のもとで保持されていた。秩序や刑事司法の讃歌、つまりこちらでは国会議長・王・大臣、あちらでは騎士・伯爵・評議員、つまり全く同じ性質をもつものがその中で発見されるような讃歌は、文字通り、弔事を読む人間のもとでマラーがそうしたように、反革命家であるド・メストルのもとで血に塗れた意図がファンタジー世界の媚薬を使用した後の放埒行為によって無罪放免になるのではなく、陰鬱な実践にむけて固く保持されているということにすぎない。この正反対の道徳は、それ自体の内容をやせ細った合理化のように、両方の場合の中で補填しており、意識が無意識に奉仕するように、あたかも文学における倫理的で教育的な意図が単に異常なものの叙述、そして残忍なものであるというレッテル貼りに奉仕しているにすぎないように見える。
③外的なもの、不十分な結合が美的に安定していないために、筋や要点もないロマン小説、つまりフロベールの象徴性と即物性には程遠いテーゼを断念することは、偉大な文学作品の関心事であった。この文学作品はブルジョア学問や政治を熱心に見習おうとし、それどころか、民主主義の需要もしくは民主主義の確固とした敵に応じて、その価値を損なうことのない論文を献呈した、かつてのマキャヴェリのように、所与のものを厳格に保持しようとしていた。もちろん、文学がそれをなすのは全くもって容易などではない。クライストの小説は、最高度に中立な実証性を目論んでいるが、どの言葉も集団に対する憤慨を放ってしまっている。裁判が終了した今日、ベストセラーの大衆文学の中で芸術文化を区別する、映画化可能な表現様式についての心的態度の最後の残滓は、このことを手掛かりに与えられる。その結果、どの言葉でさえも、果てしなく公的精神の心的態度を受け入れることになってしまった。公権力の圧力に対する抵抗と根本から一致する即物性は、啓蒙のように〔即物性〕自らが実証的な哲学と結びつくものとして、公権力との完璧な調和を目指していた。芸術家は生を表現し、学者と全く同じように、無責任な弁論クラブの連中や不明瞭な思弁、くだらないおしゃべりに反省を促す。天才と成功者、つまりジョイスとヴェルフェルの間にある差異は、次の内にある。すなわち、前者は自らのあらゆる痕跡を消し去り、それによって反対の形式の中で現存しているものそれ自体の力のために、芸術作品における始まりを遮断することにある。それに対し、後者は力に身を委ね、自らのルーティンの中で道徳を受け入れる。
④そうした発展の中にブルジョア的な職業の道が表れている。道徳は全体の目標・意味・目的を代表している。だが、このことは、まずもって社会の中にある匿名の市場によって規定されているし、そのあと独占を通じて意識されることになる。それに対し、個人は労働せねばならないし、労働の意味と目的よりも優先されうる。個人は事象、つまり機械や橋の建造、ホルモンの研究、そしてガソリンタンクの充満のもとに留まるべきである。人間は専門家であるべきなのだ。しかし、社会全体が辿る道と社会全体の決定は、専門領域の中で分割されることはありえない。すなわち、こうした領域は、ギャング団のボスが支配する領地、工業連盟の秘密内閣の中で、そして世界の進展が終結するところのゴルフ場の中にあるというのだ。芸術家は絵を描き、詩を詠まねばならない。彼らは、専門領域がなおも任意のギャング団の役にしか立たないのならば、恭しく自慢される方法もしくは進歩的に自慢される方法で、あの最高の勢力圏を物語る。事実、他者との闘争の中で政党もしくは労働組合を使用しうる、悪意ある尺度の度合いなどほかにはない。唯一耐え難いのは理論である。芸術が最小限の道徳を救出しようとするとき、その芸術は完全に理論へと移行せねばならないし、この道徳のために芸術〔or理論〕は存在するのである。
⑤18世紀以来、詩の中に道徳と傾向として現れ、最終的に排除されたものというのは、根本的に本質と同一のものであった。芸術作品は、現実からは賃借していない光でもって現実を照らす。芸術作品は、現実の秘密を口に出して言っていた〔aussprechen〕。この秘密に沿ってはじめてこの現実の真なる性格は明らかになったのであり、裁判官となった。その衰退のなかでようやく芸術作品、そして現実の召命が語られ、現実であるようなもの、つまり判決は独立したものとなり、自らにとって道徳及び傾向の外にあるものとなるのである。道徳や傾向を気にもとめず、事象のもとに留まり続ける偉大な論者たちの努力は、叙述と判決が根源的に同一であったという予想に端を発する。彼らは、非芸術的なもの、それゆえ非真理であるようなものとしての道徳を断念することで、こうした衰退を阻止しようとしていた。しかし、啓蒙と進歩によって引き起こされたいくつもの分裂は、芸術においては、それとは別の領域と同じくらい罰せられ、修正されうる。これら分裂というのは、引き止め難く強制された承認である。ウェデキントやシュテルンハイム、ブレヒトは、意図的に道徳を行為の文脈から解放し、シニカルにそうした道徳を予告することで、この分裂に適合した。いずれにせよ、不可能であった芸術的連関に風穴を開けることは、今一度、その連関を救出するという意図に基づいていた。彼らは、サドとバルザックのもとで半無意識的に起こったことを意識的に行った。予言された道徳は、それによって明瞭さが増していくが、深いものにはならない。ひとえにこうした道徳というのは、うわべだけは現実的な物質でさえ近代の詩になおも誠実な証明を与える失われた統一性に、内容と悪しき形で合致した傾向として帰属した。現実が示そうとしたものよりも、諸作品の中で起きた出来事によって現実は解明され、告発される。だが、芸術作品を実質から引き離すことで、反省は単にイデオロギー的になるだけでなく、より明確にもなるのである。分業的な職業として芸術作品ではなく哲学に従属するような、意識的で反省的な道徳は、少なくともうわべだけは多義性を剥ぎ取ってしまい、具体的なものや全体への道へと引き返そうとする試みの全ては、ロマン主義的であり、反動的である。これら試みは神話的なものを芸術的に復活させることになり、それによって人々が回避しようとする文化の全体的な大売り出しへとそれだけ確実に進んでいく。アリストテレスの倫理学は、アイスキュロスの悲劇よりも制限されているが、普遍的でもある。カントの実践哲学は、ゲーテの詩よりも厳密性にこだわるが、自由でもある。今日問題なのは、言うまでもなく、現在までこうした呪縛に奉仕する中で抽象的なものとしてある哲学的概念に対し、その拘束を強靭にすることができるような自然と芸術作品が密かに相性がいいということを伝えることである。
(3)アメリカ労働者の歴史(1942)
①プロレタリアートの歴史的な推移は、とある岐路に通じていた。すなわち、プロレタリアートは、階級もしくはギャング団のどちらかになりうるのだった。国内の領域の内部でギャング団は特権に等しく、階級は世界革命に等しかった。総統は、プロレタリアートから決断というものを引き剥がしてしまった。
(4)〔真理への道など存在しない/言語〕(仮題)
①ショーペンハウアーによれば、時間と空間の直観形式は、主観が物自体を認識するのを妨げてしまう。個体化の原理を打ち破ることでもって、すなわち死において、はじめて人間は真理へと視線を向けることができる状態になるが、まさにそのとき、つまり死に際して、この人間の生命の灯火は消えてしまうのだという。しかし、この教えは生きているものにもすでに適用されている。認識の手段は言語である。だが言語は世界を重複させる。言語が固有の触媒として成立することで、この言語は支配手段か図像のいずれかとなる。だが、図像は嘘を付くし、支配手段は虚無化する。道具というのは、〔道具〕自らがそこにある目的、すなわち認識を無に帰せしめる。カバラの努力、しかし広い意味で把握するならば、言葉を自らのために真理にしようとするユダヤ教神学一般の努力は、たしかに観念論よりも聡明であるが、観念論が主観的意識もしくは客観的精神、いずれにせよ道具を事象にしてしまう限り、観念論と一致する。両者〔支配手段と図像〕は、固有の物神崇拝の手に落ちていく。
(5)法哲学によせて(1942)
①処罰というのは報復に由来している、と言われる。社会は被害者から〔報復という〕仕事を取り上げる。司法権は早い段階から国家が独占しており、権威あるギャング団によって管理されている。そして、諸権力の分裂、つまり法律の制定・適用・執行の分裂は、執行権に対抗した市民の保護装置として生じた。市民は官僚制度を支配下に置き、それが彼らの利害関心に相応しい仕方で横暴を制限しようとしたのだった。今日、権力を分割する必然性は〔社会〕階級の集中とともに消滅し、新たなギャング団は自らの手で権力を一体化し、社会全体の理念は増大する議会の腐敗とともに消え去ってしまっている。
②基本的に国家を構成する報復を国家の手で剥ぎ取ってしまって以来、内在的発展もしくは征服によって国家が生まれていようが、報復の剥ぎ取りが国民自身に関係ある限り、処罰についての多くの理論が存在していようが、奴隷や農奴に対してこうした報復の剥ぎ取りは、明らかに恐怖の手段であった。それは、復讐・原状回復・威嚇・防衛・教育として合理化される。社会は処罰なしては存在できないが、同時に、こうした社会の機能不全の徴候は、〔社会〕自らがそれを超えて優位に立とうとする自然であると烙印を押された、社会の汚点でもある。
③もちろん、全ての社会理論は遂行の中で溶解していく。たとえ、与えられた苦痛の根っこが理解可能であるのかもしれないとしても、苦痛というのは無意味だ。だが、医学とは対照的に、処罰はこうした苦痛を目指している。苦痛は、あらゆる処罰措置の意図なき作用などではなく、その意図的な作用である。これは道徳的な目的によってである、と処罰措置は弁明するかもしれないが、この道徳的な目的の達成は、疑わしいものであるし、〔そもそも〕非道徳的である。無力な人間に対して方法論的に苦痛を利用する権力は、道徳性の背後でだめになってしまった、権力固有の暗い目的の手段へとこの無力な人間を作り変えてしまう。敵が処罰の客体であることなど断じてあり得ない。なぜなら、処罰はいつでも無抵抗の人間のもとで行われるのだから。社会は、どのほかの社会的制度よりも明らかに処罰によって、次のことを示している。すなわち、仮に社会が処罰された者の一人を除いた大多数で構成されているとしても、その社会は社会全体ではなく、その部分性を叙述しているということである。どの人間も、苦痛など必要としないという洞察を通じて普遍性へと至ることができるのかもしれない。苦痛と関連付けることは、法の不法性を認めることである。
④階級社会の中で部分性はまるごと強調される。いくつかの法律は、武器と生産手段を独占している一味の支配との予定調和の中にある。プロテスタンティズムとは全く異なる宗教は、それら法律が苦痛を賛美する手立てであるような悪の協調によって、この支配を幇助することを引き継いできた。権力に抗して権力の人類学は、上を指し示す指と恭しいお辞儀を持ち、無力な人間に抗してこの人類学は、苦痛を貧困や戦争といった神的装置として基礎づける。だが、苦痛に奉仕せねばならない、圧倒的大多数でさえ、未だに彼らを変容させる偽なる人間であり、ルターのような邪神崇拝を行う。ルターは、不安や困窮に由来する肉欲がそのもとで拘束されているような支配への奉仕の中へとなおも精神を置き、歴史がその熱狂を滿足させてきた国家や支配者と同じように歴史自体も神的な意味を持っているのかもしれない、という虚偽を実際の惨めさに付け加えるのである。まずキリスト教とともに世界に入り込み、無論その世界を変化させることもできた精神概念より以前にこうした虚偽は考えられないことだったし、紀元後数世紀を汚染することになるのである。
(6)ユダヤ人の性格(1939/40)
①ユダヤ人たちの最大の誤りは次の点にある。彼らは数千年来、支配というものをしてこなかったわけであるが、彼らは裕福でありえたように、常に庇護というものを頼らざるをえなかったという点である。そういうわけで、彼らは次のことを概念把握することに苦労している。つまり、あらゆる文化の条件は現在まで抑圧であり、威嚇であり、不正であったということである。ユダヤ人は、穏やかに、安心して生活しようとしているが、栄進の可能性と発展の可能性は保持しようとしており、そのために自らが社会的な前提諸条件を作り出してきたことをめぐって、世界の支配者としてのカースト制度を非難しようとしている。彼らは、不可能なものを要求しているのである。
②無数の世代が作り上げてきた鉄のような規律の行使を支配階級の構成員に与え、最終的にこの現実における、あらゆる自由に与えてきた冷淡さとよそよそしさの中に、ユダヤ人の性格と生まれの良い人間の性格の差異がある。ユダヤ人は自由などではなく、圧倒することもなければ、打倒することもない。なおも彼らの歴史が残しているものは、蜘蛛の巣の網目からすり抜け、それどころか、そんなものは存在していないのだという。
③ユダヤ人はユートピアンである。彼らは、自らの意識の中であらゆる上品なものに同化しようと試み、自らの任務が依拠している経験の欠如を否定する。だが、歴史によって定式化されたユダヤ人の本質は、自分が嘘つきであることを明らかにしている。彼らの存在と彼らの言っていることの不一致、彼らの個人的特徴と歴史学的特徴の不一致は、彼らのあらゆる性格の中に現れている。と同時に、これは完全な裏切りに対する保証でもある。彼らは、意志するか否かという不可能性を自ら証明している。
(7)連帯(1939/40)
①連帯というのは、共通認識の中で基礎づけられる。認識の必然的な非完結性から見れば、連帯は必然的に儚いものであるように見える。人間が結びつけられてきたいくつかの洞察は、不確かなものとして証明されえた。ここ数世紀のフランスにある詩や絵描きの養成所の内部で起きている軋轢や原理を超えた友人らの仇敵関係、最も小さい集団と極左集団の分裂というのは、いずれにせよ意図的に構成された結びつきに対する精神分析的で政治的な集団よりも彼らに多くの名誉を与える。
②だが、〔その〕近くにいる傍観者たちのもとで、理論的モチーフとは異なる、あの古きボヘミアンの永遠ともいえる私闘の根についてのモチーフが判明する。認識の比較的初期の状態である否定〔Negation〕は、なるほど抹消されたわけではないが、限定的否定の中で乗り越えられている。このような推移は事象それ自体によって要求されており、その中に置かれている。知的諸力の衰弱は、個々人が独立した存在になることを妨げている。しかし、とある個人〔or衰弱〕から一歩を踏み出したとき、個人的な悪しき利害関心だけが、精緻で豊かな思考から鈍く制限された思考を守るような個人を定めることができるのである。これは固執でも忠誠でもない。というのも、細分化された意識の中でそのつど原始的な意識がその意識それ自体よりも良い形で止揚されてきたからである。歴史学的に妥当する認識と主観との間に壁があるように、機械的な障害がそこにはある。その結果、仮にそうした認識が存在するとしても、主観はその認識を知覚することができないのである。だからといって、知識に合致した古きものと新しきものの両者が、それでも同等の権利を持っているわけではないのだが。
③プロレタリアートの利害関心でさえ、マルクス主義的な洞察に従ってブルジョア階級の利害関心に簡単に対置されるべきではなく、より高次な階級の利害関心に客観的に対置されるべきであった。客観性を理解するということは、市民階級の末裔たちの洪水を闘争中の労働者たちに許容するということであった。プロレタリアートから市民階級への逆転した道は、裏切りであった。真理を裏切るということは、長い間そうしたものと見抜いてきたイデオロギーのもとに残りの市民が固執しているということでもある。この市民は、社会的な出来事によって認識から断ち切られるのではない。そうではなく、彼らは、私益の上にある独特な地平線をしぶとく矮小化させることによって、認識から断ち切られるのである。そのため、残りの市民が私益それ自体のためにあまりに愚かになり、当然ながら小うるさい思慮深さ全てとともにたった今葬り去られることになるまで、ずっと彼らは、最高の価値を持つものとして自らがうわべだけで騒ぎ立てていたもの、すなわち宗教と真理、人間愛と正義の全てを否定し、目を背けると心に決めてきたのである。
④栄達への忖度は、ボヘミアンの紛争に介入していく。連帯のもとで、認識プロセスによって脅かされているものというのは、連帯についての未だに不純で悪しきものである。だが、いくつかの共同体は、連帯が消滅することなく崩壊することはない。しばしば連帯というのは、全てのものから見放されてしまった唯一者のもとで、なおも止揚されていた。
(8)詩の不可能性
①芸術はミメーシス〔Mimesis〕に基づいており、仮にそれが抽象的であるとしても、模倣する〔nachahmen〕。だが、造形芸術だけがそれをすることができる。詩は、自らの言語の示す想像上の形態が事物の本質を模写しているのだと言い逃れをしようとしている。それゆえ、詩というのは、造形芸術の代用品であるのかもしれない。そのさい、詩は恥ずかしがって自らの真なる要求を口外することはない。事実、詩はこの要求を一瞬たりとも忘れてなどいない。詩それ自体は模造であろうとし、造形芸術は詩の具体化された独立要素でしかない。造形芸術は硬直した言語である。言葉は事象を適切に表現する規定があるが、図像にはない。図像は、自らが仮により良く表現されたとしても、常に的はずれである。また、音楽というのは、絵画や彫像よりも言葉、すなわち真理のもとでは失われた要素でしかないが、真理の最高度の現象においては、無力感を表している。諸芸術相互の歩み寄りは、芸術と科学相互の歩み寄りほど退行してはいない。だが、こうした相互の歩み寄りを止揚するための鍵が我々にはない。分裂の根拠についての抽象的な意識も、芸術全般において意識を誤った形で具体化することも、歩みを進めることにはならない。哲学は、このことを口に出すこと以上のことはできない。
(9)犯罪者の理論
①命令が断ち切られてしまえば、それだけ支配は成立してしまうのであった。領主や東洋の独裁者がサトラップや親衛隊、つまり野蛮で肉体的な暴力を単純に継続する者とともにそうするように、個々の所有者は貧乏人たちを押さえつけたりはしなかった。所有者の意志は、当然ながら客体化されねばならなかったし、同時にそのことを叙述する権力の全体性を制限せねばならなかった。支配手段としての法律は、絹織物を送りつけることによってでは支配との矛盾は乗り越えられえないような固有の論理を発展させる。市民社会の中で違反してしまった者は、もはや原始的な連帯に対する無法者のようなタブーを犯しているわけでもないし、反抗的な奴隷や農奴でもない。市民社会の違反者は、単に社会の外にいるのではない。むしろ彼は、社会に必然的に備わる紛争の代表者である。法律というのは社会原理の産物であるわけだが、この原理は犯罪者の中で再生産される。プロテスタンティズムが高らかに歌い出す現世の首切り刀への宗教的讃歌によってでさえ通り抜けて、人間的–非人間的な権利の根源が現れ、多数の形式が屈する少数者の意志が現れてくる。相互に競合はしているものの、支配機関を指揮下に置こうとした多くの支配者は、自らが法律を引き受けることが理由で、固有の経済権力に並行して、競合的で実行力のある権力〔暴力〕と恐怖機構に対する庇護に独立の方途を与えねばならなかった。刑法は市民を犯行から守るだけではなく、同時に市民の仇を取ろうとする国家からも守る。市民的な刑法は、無法者に対する原始社会の措置よりも、原始時代の民法へと後退している。そうした刑法について語りうるならば、という話ではあるが。マリノフスキーは次のように述べている。「原木が生きていくうえで通過するあらゆる段階を貫いて支配しているような」実証法は「政党が法として考察し、他の人々が義務として認知している、拘束力のある責務のコーパスの中に〔……〕ある。そしてこの責務は、社会構造に住み着く相互性や公共性の特殊メカニズムによって効力を得る。〔……〕その責務の明確さは、原因と作用の合理的評価および社会的感覚と個人的感覚の総数の中で原住民によって保証されている〔……〕」のだと。いくつもの原則と法律を定式化することは、交換の一部である。この定式化は、最終的に人間を主体にするような私的な所有権の硬直化と結びついている。市場は誠実さとともにそれとは逆のものをもたらし、金と法律を必要としている。経済のこうした両手段の間には類似性がある。これら手段は、形式に従った普遍性である。つまり、運が良い人間は法律に看取されることはなく、どこから金が奪われようとも、仮にある人間が実際に貧乏人に近づき、他の人間が金持ちに近づいたとしても、運が良い人間は金に看取されることもない。まさしく手段の中立性、つまり手段の外見的な普遍性は、総じて同一であるような主体として市民世界の構成員を決定する。まずこの中立性は人間の概念を創り出す。少なく見積もっても人格性は退化した法律関係を持っているし、前提条件のための普遍性を持っている。犯罪者はこうした普遍性に信頼をおいている。彼は自らのラチオ〔理性〕の手が届くと分かるやいなや、自らと同一となる独立手段の匿名性から流れ出るいくつもの好機にすがりつく。神々と人々を傷つけた、あの忌まわしき存在、聖なる悪徳、貧しい罪人から条例違反者、つまり犯罪者は生まれた。これは人間性の産物であるのだが。
②あたかも所有者に敵対する犯罪者とは異なる犯罪者が市民の下に存在するかのように思わせる欺瞞は、真の意味でのイデオロギー、つまり諸個人が社会プロセスの中にある自らの役割に基づいて必然的に屈服してしまうような仮象である。おそらく幸福と労働力が不足していた時代のように、窃盗よりも殺人のほうが処罰の度合いは大きいだろう。報復の役目は自らにあると主人が語って以来、国家は報復の様式全てを独占してきたし、個人はこうした様式から次のような釈明の方へと引き剥がされている。すなわち、この報復の様式は冒涜、快楽殺人、横領もしくは盗みを犯しているかどうかの釈明である。国家の経営は、統一的な要綱を必要としている。また、法学の概念は水平化されてしまう。この相対立する矛盾は、同様の尺度に従って違反の数々が推し量られ、懲罰という共通分母を維持することによって抹消される。そうした〔矛盾の〕消滅がなされるための指標である図式は、所有権であった。商品カテゴリーがあらゆる人間の流動性の分肢を把握するということは、所有権のモデルに従って肉体や生でさえ理解され、攻撃され、保護されることの内で効力を発揮する。人間の手が届く範囲にあるすべてのものは、誰もが意のままにできる何か、つまり権利主体の対象になる。団体規約にさえこの権利は参与してきた。実際に苦痛を伴った分離の上であらゆる論理的区分をはねのけるように、おそらく最古の権利保護の上でこの区分は肢体であるのだ。主人や彼の奉公人の違反は、なるほど損害から生じた侵害に応じて彼らの値段が決められた。支配者は耳よりも価値があった。肢体は身体の一部であり、身体は人格の一部である。国家はその構成員を自らの肉体の所有者として保護したし、そうした保護の中で個人は心理学的なものの総体として形作られた。肉体の権利を保護することは、私的所有権を保護することの特殊ケースである。刑法の美辞麗句は、中央国家がそこでの平和を所有権の安全と同一視する時代へと転落していくのだ。
③市民社会が普遍的な利害関心と特殊な利害関心との一致を知っているということは、犯罪者の概念から見れば、市民社会それ自身〔の存在〕を証明している。というのも、市民社会が誰に対しても自己保存を請け負う限りでのみ、この社会は自らが地方分権主義からの帰結であることを同時に理性〔の観点〕から非難しうるからである。犯罪者についての理論的概念は、人間が自らの福祉のために国家に対して最高権利を譲渡したために、人間に国家への服従を強制するような国家契約の開発から引き離されるということはありえない。ホッブズは次のように述べている。すなわち、「福祉の下で生を弱々しく保存することがなんとなく理解されうるだけではない。最も幸福な生もまた、理解されうる。というのも、快適に生活することが人間的自然を許容ことであるからこそ、逆に人間は自発的に集結し、契約に合致するよう国家に義務付けるだけである」と。国家契約の効力があるときに犯罪者は、国家における客観的理性として犯罪者に立ちはだかる、自らの実践的理性を犯す。このことは、犯罪者を無法者とは区別して定義する。市民的思考を前にして、自己の原理に反抗する罪とは異なるような罪など存在しない。無矛盾で組織化された自己保存は、無制限でアナーキーな自己保存にとって有利になるよう、犯罪者によって傷つけられる。犯罪者の思慮深さはあまりに概略的である。彼は待つことができない。だが、すべてを計算する犯罪者に欠けているのは、打算的な知能である。犯罪者は自らの愚かさのために処罰される。処罰についての他のどの理論も、自らの理性性についての社会の疑念を明るみに出すのである。国家契約や理性の諸概念は、市民階級においては等価値である。社会は具体的な理性、つまり自然から自らを共同で守ろうとする、あの〔国家契約や理性の〕諸概念の一体化であると見做されている。社会それ自体は、併合の対価を厳格な服従で支払わない者に対して、今日まで彼が社会を通じて逃れてきた、自然を破壊し尽くす強制を執行する。そして、社会はそうした強制のもとで、無罪の真なる状態として社会から抜け出した残酷さがなおもそれに匹敵するような、意図的で体系的な自然の暴力になっていくのである。
④犯罪者のスティグマは無益である。彼は生産段階をすっ飛ばし、循環する剰余価値を力いっぱい横領しようとする。工業、商人、広告代理店、さらには教授ですらこの循環を頼りにするが、そのために業績を投入する。しかし犯罪者は、戦争が外部で叙述するもの、つまり貿易の排除の下で剰余価値を奪い取ることを内々で代表している。盗賊の首領や傭兵隊長、義勇兵、ギャング団の構成員は戦士と犯罪者の間で彷徨っている。彼らが存在するのではない。彼らがその極に組み込まれているような内的外的な政治状況が存在するのである。犯罪行為とは、貿易なき横領という行為以外の何ものでもない。犯罪行為は、手工業や精神的なそれを作り出すのではなく、犯罪行為それ自体のように善きものを生み出すことはない所有物との愚直な対を作り出すものの、工場での直接的な搾取によってであれ、利息や配当金の不法入手によってであれ、税金は強制的に取られていく。犯罪行為との隠された類縁関係、つまり特権的な人々と永劫の罰を受けた人々という極の社会的親和性は、前者に復讐するように挑発する。後者は武装した力を抱き込み、犯罪者はせいぜい機関銃を持つだけだ。だが、言うまでもなくそれなくして自我や良心など存在しないのかもしれないような財産は、自らと並んだ他の恐喝者を無責任に許容することはしない。財産に固有の生と並んだ体系に尽くすことなく生き延びていく生は、神的な秩序を犯す。犯罪者と資本主義者は単純に利益の上で消えゆき、仕事に関心などない。労働の喜びがすでに流通圏内全体のごとき銀行業者の流動化に移行する時代において、労働の喜びは重工業のイデオロギー、つまり独占的に人間を管理する〔ことの〕概念図式である。資本主義的な行為者は、初めからずっと暴力的であったわけではない。彼は市民として、軍事的な諸活動よりも流血なき利益を優先してきた。階級の存在が問いに付された、もしくは剰余金の利益が獲得されるようになったときに、彼は戦争や戒厳令に手を伸ばすようになったのだ。〔これと〕同じようなものを常習犯は感じ取る。「犯罪遂行の中で「善き」犯罪者は不必要な残虐行為や殺人を回避する。問題なのは「大金」だ。7千ドルもしくは7万ドルが盗まれるかどうかというまさにそのことがリスクであるのだ。「私は誰かを殺すことを欲しているのではない」のである。私がこれを避けることができたとき、私はそれをなすのである。だが、無事に切り抜けるために、10万ドルと呼ばれる大金がそこにあるのならば、私は誰かを殺すことになるだろう」。犯罪者は、国家によって守られている階級の独占に抗する、非合理的で原始的なギャング団を代表している。犯罪者の職業は、初期および前-市民的支配諸形式へと退行していく。そしてこの諸形式は、新たな宗教を前にして悪魔的諸力になってしまった、倒錯した神性のように、引き続き現代では軽視されているマフィアやカモッラとして蔓延する。人間に対して破壊的であると証明されている、かつてはアクチュアルだった支配は、社会的な生が同時にその内部で再生産している諸形式の中で継続している。それに対し、時宜を得ているものの弱者であると自称する犯罪者は、すでに時代遅れになってしまった、あの支配の馬鹿者どもになっている。この犯罪者は、自らの支配のために生の社会的再生産に関与することはない。それゆえ、彼は破壊的なのだ。
⑤市民社会が直接自然と根本的に取り組むような場所で生産と破壊は崩壊していく。屠殺場の中で殺害と食料の産出は一致する。しかし、相対する階級関係の中で諸機能は細分化され、経営者は産出のもとで何もかもを意のままにし、警察官は犯罪者を追い立てる。刀剣や鞭がなおも主人やその取り巻きの手中にある、あの社会諸形式よりも市民階級にとって暴力はさらなる不可欠の要素をなしている。比較的安全な生の可能性やその他の飢餓、不確実性さらには労働がいつも主人の氏族もしくは階級のもとにとどまっているような場所で、洞穴に入ることを棍棒の形をとって異分子に禁じる、もしくは警察署の地下で警棒の形をとって囚人を殺害するかのいずれかという、効果的な暴力が必要なのだ。分業の結果としてこの暴力は、文化を超えて抑圧の機械の内部で結晶する。文化の警察とその刑の執行の中で、あらゆる破壊本能は避難所を見つけ出す。それに対して、犯罪を行うという破壊〔行為〕が、分業によって犯罪行為の手に渡ることはない。この犯罪は、単に生産に損害を与えるにすぎない。一般的には破壊の生産性について、特殊な場合にはマルクスが技術や経済、文化の意義を説明する中で犯罪の風刺的な弁明を通じて補った犯罪と工芸美術の依存関係について、これらについての示唆はマンデヴィルが解明していたにもかかわらず、単なる逆戻りの酵素や崩壊の酵素はそのままである。いよいよ犯罪者は、確実な金銭のために殺人を犯す、信頼できる盗賊になっていく。今日においてヤブ医者や健全な使徒がなおも錬金術師の段階にいるように、この盗賊は自然科学の過渡期と同等にとどまっている。犯罪者は自らの自由を放棄しようとはしないし、自らが屈服する経営に組み込まれることなく利益を着服しようとする。〔ただし〕どれほど努力しようとも、犯罪者は主体になることはできない。『乞食オペラ』に先立って存在したArden of Fevershamに出てくる人殺しブラック・ウィルは、公然と契約した商人のエートスの肩を持っていた。仮にそれが自分にとって不利になる証拠であろうとも。「犬ころを盗み出すために俺は10ポンドもらったが、そこでは俺らは主人を殺したことへの功績になりはしない。だが商売は商売だ」と。彼の理念は、活動する営業部門に対する確実性についての理念である。「ああ、だが俺は一年以上活動していたいし、人が危険も侵さずに法律の側から果たせる職業に殺人もならねえかなぁ。ちぇっ、俺も会社のトップで安心して暮らしてえなぁ」と。意志は邪魔された企業家である。しかし、私的な殺人は悪しき業種であり、それ自体が半分タブーである限りでのみ、正規の商売の対象を作り出せるのである。さもなければ、このことは警察次第になってしまう。追跡者と暴君は、犯罪者とともに職業の不誠実さと残忍さを分け合うが、犯罪者の自立性を分け合うことはない。たしかに許可された暴力でさえ、ブラック・ウィルの利益ではなく賃金としての金のために機能するが、職務のための商談の中で金は受け取らない。警察、検察そして裁判官は、実存やら彼らの職業の内実やらのための解答を持ち合わせているわけではなく、彼らは本質的には道具なのだ。道具として彼らは権力を持ち、公的に第一級の賃金が支払われることで、密かに彼らは三等兵にしぶしぶ同意するのである。犯罪者が市民の不具にされ、取り残された双子の弟であるのならば、警察エージェントはその業務代行人である。この両者の原理は全く同じ、つまり、それなしでは市民の所有権も存在し得ないような暴力である。
⑥しかし、初期発展段階への退行は、犯罪行為の中で、進歩の極限の帰結と一致した。この帰結はタブーを否定する。計画と実行のもとで犯罪者は権力、法律、自らの召使だけを気にかけ、物事は気にしない。事象を前にして怯えつつ乗り越えることは、はじめから市民的精神の歩みをなしていた。だが、事物における自然、無法者を食い止める自然の崩壊に応じて、人間の中にいる彼は権利を留保したままではいられない。彼は無制限に自らの支配を押し広げる。そうした徹底ぶりは犯罪の中で明らかとなる。驚き〔Schrecken〕から自らを解放することを市民的思想が引き出したとき、この思想は犯罪意外何も無いことに恐れおののき、極端に推し進められた思考と行いは崩れ去るのだと示される。つまり、行いというのは、すでに思考によって現実化された事物の無能力だけを実現するのである。犯罪が黙殺している事象の内容と精神は、啓蒙の後には何も残らないような秘密である。そういうわけで、犯罪がその中では神秘的であるような救出、つまり行いと復讐の循環からの救出についての絶望として、盲目的な暴力を賛美することは、同じくらい進歩でもあるのだ。それがもはや自然の中にある内容に捕らわれることもなく、常に自らの目的だけを知っていることが理由で、プロパガンダのために自然を利用することができるような啓蒙の抽象的な自己は、単一のものの中で完全に具体化された自然の無意味さとともに、犯罪の中で析出してくる。無を恐れて後ずさりするような行いが残ってしまったが、原始的なものの臆病な行い、つまりその魂の中で救出の予感など陰鬱な循環から染み出してくるわけがないような臆病な行いは残り続ける。そうした行いは、動態的な社会に向かう市民階級の道において、我先にと彼らを照らし出すのだ。
(10)原罪と繋辞(1942)
①言語の決定的な問題は、繋辞〔Kopula〕をもたらす。基本的に言語は理解不能である。というのも、繋辞が理解不能であるからだ。
②繋辞のある側面は、古きものの硬直したヒエラルキーとすべての新しきものとの関係であり、歴史の停止である。と同時に、言うまでもなく宥和するものでさえ与えられ、全く未知なるもの、孤立したものを前にした恐怖〔Furcht〕は消え失せてしまう。宥和するものは不変的なものの保護の中へと収容されていく。
③第一にこうした反省は、論理的諸カテゴリーにその意味を付与する。「真理とはなにか?普遍的なものや特殊なものとは何か?思考とはなにか?」などの問いは、実証主義によって同時に浄化され、その解答もまた、そこでは定義の内にある。というのも、あらゆる判断は単に分析的であるからだと言う。結局、そうした言い逃れは、これら問いの中で権力への関係がなおも問題になっているという助言によってでしか対処されえない。これら問いは、諸カテゴリーはどのようにして最高神に関与するのか、についての解答を本来要求している。諸概念は神のエマナチオであるという新プラトン主義の理論は、最も洞察力に富んだ時代から言われもなく尊敬されていたわけではない。彼らの理論は、論理学と神学の関係への底しれぬ洞察を明るみに出す。
④存在は権力からは償還できないどころか、ストア派とスピノザは存在を知っていたのである。偉大なるヨーロッパ哲学は関係というものを解消できなかった。カントのア・プリオリな綜合諸判断は、権力の中で真理を固定することなく真理を救い出す試みである。カントは、純粋な根源的統覚の概念の形而上学的難解さ、そして諸カテゴリーの発見のもとでのあらゆる原理の不足という彼の理論哲学における2つもの最大の弱点でもってこの試みに報いている。
⑤だが、存在と権力という深淵は歴史の中で切り裂かれ、それゆえに真理は否定の中にしか存在しないのだ。こうした認識は、ミュンヒハウゼンのように自分の髪の毛を掴んで水から引き上げることはせずに、限定的否定を神のように崇め、絶対者の中にこの否定を加えることでもって、新プラトン主義へと帰っていく。その限りにおいて、〔真理は否定の中にしか存在しないという〕こうした認識は、ヘーゲル哲学の意味である。超越論的論理学は原罪についての教説を黙殺しなかったし、その論理学が存在論的な方法であったにもかかわらず、この論理学は存在論の批判となったのである。それに対して弁証法的論理学は、それでもその方法があの分裂の最も明確な表現であるようなところで、存在論になろうとしたのだった。この弁証法的論理学が、神聖なキリスト教的に歴史というものを真理と救済の確実な媒体にすることによって、この論理学は繋辞を再び自らの不正の中に組み込んだのだった。
(11)敵対者(1939/40)
①キリスト教的な世界秩序の意味に従えば、すべての行為は格率に合致していなければならなかった。つまり、永遠の浄福を危機にさらすものなど、どうにもならないし、エゴイズムにすぎないし、来世に向けられているのである。中世の人間が実在していたかどうかは、今日では簡単に処理されうるものではない。恐怖の中、教皇が霊魂の救いを危機にさらしていることが理由で教皇選挙に従って尊厳から免れようと試みていた初期の教皇についての伝記によれば、あの〔キリスト教的な世界秩序の〕見解は、全くもって正反対になっているようには見えない。
②やはり近代になっても、あらゆる行為は格率に合致していた。つまり、所得を危険にさらすものなど、どうにもならないし、エゴイズムであるし、現世に向けられているのである。こうしたエゴイズムに向かう粘り強い決断からでしか市民的人間は理解されない。自分が他の振る舞いをすれば、自分は軽蔑されるのだと学ぶことが教育全体の結論である。そのときこの市民的人間は軟弱であり、哀れであり、どうかしている。
③現世のエゴイズムの中にある神々のエゴイズムの変化は、現代でひとが褒めそやすことを知っている奇跡を成し遂げた。迷信的なエゴイズムから世界を熟知したエゴイズムへの途方もない進歩が誤解されるはずもない。その後、前進の役に立たないような思考は、どれもがイデオロギーと見なされた。カルヴァンは、低俗な決定として現在の全体的な変革がそれに対抗して姿を現すような変革の実行者であった。それでも、この全体的な変革でさえ、人間学的構造における変化を表している。ヒトラーは、国民・人種・民族を笑い飛ばす。目下のところ、民族が根絶されているような所で、彼らの実体性の仮象は消滅している。彼らは相手自身を論駁しているのだと、ヘーゲルは述べることだろう。つまりこの事態は、飛び交う爆弾との実践的な弁証法なのだ。
④我々が〔現在〕そこにいるような人類の先史時代は、完全に人間の神話的かつ哲学的な外皮を奪い取っている。この世界の終焉の中で人間は、いま生成したもの、つまり自らの極めて狭い目的の外にある全てのものに対して盲目であるようなもの––敵対者として現れている。人間は、以前から無力であり動物であると知られるよりほかはないのだ。
(12)主文と副文(1942)
①いくつかの副文は、思考の法律学的で論証的な段階の一部をなしている。原始的で全体的なものは、いくつかの主文の中で話している。「ユダヤ人が焼き殺された」。細分化された社会システムの中で、少なくとも次のことが言われる。「もしユダヤ人が改宗しないなら・・・盗みを働いた奴隷・・・」もしくは「〔こいつは〕誰であれ殺人を犯した者だ。とにかくその人が誰であろうとも」。人間性と副文は結びついている。たしかに疑わしき社会的実践でさえ、あらゆる領域における精神に自らの烙印を押すのならば、法〔権利〕の普遍性についての概念がそうした諸副文の中で調停されているように、この概念は、疑わしき社会的実践が自己を超え出ていく契機であるようなイデオロギーのあの側面の一部であるだろう。諸副文が転倒するのならば、普遍性についての理念も同時に転倒するのだ。というのも、この理念は調停の中に存在するのだから。
②それにもかかわらず、哲学は主文への傾向から逃れることはできず、この傾向の中でよりも崩壊の他の諸結果の中でのほうが発展の時を戻すことができる。古い言語習慣を固持することは、哲学に無害な性格を与え、存在するものに人間性の輝きを与える。論証や制限、精巧な構成〔Konstruktion〕は、その重さを失う。理論様式はシンプルなものとなるが、それは、この様式についての理論が意識的に野蛮なプロセスの鏡になることを通じて理論様式が単一性を告発することによってでなければなされない。この様式は、ギャング団に憎しみの力を同化させ、それによってギャング団と対立するものとなる。理論様式の論理学は、自らの正当性と同じように簡潔なものであり、自らの虚偽と同じように粗野なものであり、自らの代理人と同じように無責任であり––そして、野蛮とのこうした対立の中で特別なものとなり、厳密なものとなり、良心の呵責に満ちたものとなる。ギャング団の模範としての社会的知識を区別せずに措定することは、果てしなく細分化される。というのもこの措定は、無力な人間に対する無差別な残虐をひとまとめに告発するからである。なされるがままの数百万もの人々が絶滅を乗り越えるような無垢さを、絶滅の向こう側で失念してしまう哲学を普遍化し簡略化することは、自由の欠如を提示しないのである。この欠如は、人類の切断を相対化する副文を省略するのだが、それによって、こうした省略に由来する恐怖に対して絶対性を認めてしまう。哲学にとって敬虔なものというのは、快感の極めて精緻な明暗差であるのだ。しかし、装置の詳細な描写の欠如、つまり疑問や理由、時〔条件〕といったものに対する統語論的結合の不在において、犠牲者と他の犠牲者とが一致する場である絶望の暗闇が哲学の中で論じられている。〔社会〕改良主義は静態的なものに手を伸ばし、認識は十分なまでに強制収容所である。
③住民たちの品位が貶められるどころか、地獄のような社会制度を公式に基礎づけ、統計へと放り込むことを真面目に記述するような精緻な違いを、政治学の研究対象としての住民たちの諸カテゴリーの間で生み出している強制収容所を描き出すことは、宗教裁判の合法性と教会的秩序について詳述するカトリック教会の使用人の中で始まっているように、すでに政治学の弁明の中で始まっている。戦争が始まって以来、––仮にも用心してこう言っておくが––向こう側〔ナチスドイツ〕では、忌まわしい諸行為がさらに省略した形で取り扱われている。しかし、戦争はこの忌まわしい行為のために燃え上がるのではない。支配は戦争を解明する。それは支配が脅かされたからであって、被支配者たちが殺されたからではない。忌まわしい行為は気に触るようなものではなかったし、断じて存在しないものではなかった。むしろこの行為は、資本からの論ずるに値しないような要求であった。いかに多くの喜びのために理性的な暴君、つまり自らの家に籠もっている暴君と統一されてきたことか。ファシスト的実践だけが現実の力を前にして明細に応じ、無力化された競争相手に対しては応じなかったということが忘れられているのは言うまでもない。機能不全を前にして、支配は全般的なものとなる。無力な人間は理屈抜きに包摂されうるし、諸力にとって適切な合意がなおも不可能である限り、対等な競争相手は開放的な仕方でしか闘争関係になることはない。この競争相手は、それ自体で副文を要求するのである。
(13)意識(1939/40)
①動物よりも人間のほうが死を恐れる。つまり、人間は死の恐怖についての概念を持つ。しかし、もし意識が解放されないのならば、意識は何のために存在しているのか!動物が死を目前にしているとき、彼らは全能な不安を克服しているのであり、死から自らを防衛できるかもしれないような意識など持っていないのである。いわば礼儀上、単純な欲動を凌駕しようと努力した瞬間に、人間は動物よりも簡単に死ぬ定めにある。のどが渇いている子どもは暑い日に多くの水を摂取するのだが、渇きは真面目に受け取られず、その中で多くの経験をする。自らの自然を支配することは重要ではない。その支配の中で人間は確実に成長するので十分である。あらゆる不気味さに対する闘争の中で、教育は内的な諸技術を供給し、科学は外的な諸技術を供給する。勇気を示すことが肝要であるのならば、双方に向けられている大砲に対して、その勇気は不自然なものとなり、死の不安を下に向かって押し付けることになる。必要なのは支配などではない。配慮に起因する容易な諦めの身振りが必要である。かつて、勇気を示すということは、非力な人間に全体を展望することの断念を強制しえたのかもしれない。人間は自らの意識によって、死を前にして諦めの身振りをする能力が与えられねばならないのかもしれない。
(14)闘争と非暴力性(1942)
①革命的思想は現存する社会における不正義を攻撃する。革命的思想の理想は、豊かさよりも正義にある。誰も自分で責任を追うことなく他の人よりも悪しき存在になってはならない。共通の決議に従って人間は自らの生を制御しなければならないし、より多くの閑暇もしくは豊かさのどちらを選択するのかを自らで決定することになる。その決断は支配グループの手の内にあるべきではない。その決断は実際に被支配者のもとにあるべきであり、実行者の地位は平凡な市民の単位で、つまり他者の下で活動する人間であるべきだ。社会の重荷、惨めさ、不安、最悪の労働がそこにあるような階層が社会に存在する必要はない。つまり、今日まであらゆる社会を貶めている、陰鬱で不快な労働と悪しき生すら結びつけられてきた装置というのは、消えて然るべきである。陰鬱で危険に満ちた労働がすべての人間によって交互に取って代わられることがない、もしくは良き諸条件の結果としてその労働が消滅する限りで、快適な機能を果たす利益などもたらさない、陰鬱で危険に満ちた労働は利益によって均一化されることになる。誰も外部や谷底にはいるべきではない。大多数は幻想的な物質的存在諸条件を満たしたのだろうが、たとえそれが少数であったとしても、個々人にとっては意味のある苦しみが続くだろう。仮にそうだとしても、社会の構成員全体は特権を有するであろうし、全体はギャング団であるだろうし、不安や虚偽、犯罪は社会を一貫して支配する。
②革命的思想は、階級社会それ自体へと向けられている。この思想は、自然が自らの無知の中で到達できないもの、つまりすべての人間に対する生と幸福が人類の中で実現されるよう意志している。この意識はそうした実現の器官であり、今日では憧憬や空想、目標としての器官であるが、明日は人間が自らの生に適合させる基準であるような合意の総体としての器官となる。この意識は、公正な生を目指して規定される人間の自由である。仮にこの意識がこうした〔自由の〕目標を否定するのならば、この意識は止揚不可能な矛盾の中と一緒に置かれることになる。力や偉大なもの、超個人的なものが自由な人類の契機の代わりに適切な価値であると見なされるのならば、これらは自らに抗する人間の永遠の憤激を告示するものに含まれることになる。思考と支配は相容れない。だが支配の否定は、人間を存在するものと革命の対立の中へともたらし、人間が手放そうとした力をめぐる階級闘争に人間を巻き込んでしまう。権力者と大勢順応主義者は自由と名声を手に入れ、生産的な存在を導く。〔他方で〕革命家は、野党もしくは党派の紛争の中で戦い、消耗する。抑圧への参入や卑しい行いは調和し、意志は汚辱と敵対関係の中へと調和していく。
③他の原始宗教と同じように、福音についての諸教説は、矛盾を無抵抗によって乗り越えようとしたが、不正と実践的に戦うことなく当の不正に関与することを拒絶した。この諸教説は、現世か来世のどちらかにある正義が暴力によってでは実現されえないことを告知し、苦しみを引き受けたが、力をめぐる争いを受け入れることはなかった。当然ながら使徒のヒエラルキーは、暴力の肯定の中に向かう根源的精神の受動性を捻じ曲げてしまった。彼らの神学上の代理人は、神を仮定したお役所と共同して、世界支配と教会領土の間に協定を結ぶ動機を与え、無力な人間に対して力を結びつける動機を与えてしまった。彼らは言葉の明確な意味を偽造し、〔それに人々を〕同調させ、解読不能にしてしまった。腹をすかせた人間に食事を与え、裸の人間に服を着せ、捕まった人間を解放し、それでも殺さないと誓わせ、身を守ること、使徒の代理人たちが主張したこれらは言葉通りに理解されえないらしいものの、それらは説明され、強められ、制約されねばならないらしい。そして、もし〔彼らの主張が〕他に何の助けにもならなかった場合、彼らはそれらを象徴的なものであると説明したのだった。(今日キリストの山上の説教は聖書の筆者に対して至るところで愚か者もしくは犯罪者という烙印を押しており、そこでの評価すべては聖書の筆者に対して一致している)アナーキズムのパンフレットに書かれているように、すでに1ページ目のすぐ後に自由・正義・非大勢順応主義のプログラムが悪しきものとともに明言されている本の中で、坊主どもは、通則や監獄の管理者、そして彼の最良の友人たち、つまり鞭とナイフのためにキリスト教を台無しにするべく、文字通りに受け取った言葉を迅速に発見したのだった。書かれた書物が暴力への無抵抗を教えているとき、実際、聖職者たちはその書物に対して他に何も反対していなかったし、その書物が聖職者自身に対してのみパンと栄光を与えている限りで、彼らは現存するものを基礎づけ、推論し、正当化し、支持し、祝福したのだった。支配のためにひどく消化に悪いキリスト教をお膳立てし、支配の道具に改造することは、彼らの世界史的な機能〔役割〕であった。だが、彼らがそれを行ったにもかかわらず、言葉は革命的思想を暴力廃絶の思想として保存していた。どれほどユダヤ教の法律学者らが、材木の山や絞首台とともに言葉を、つまり不正を撤廃する思想を抑圧したとしても。
④思想に存する、人間の状況に対する闘争と暴力の廃絶〔非暴力〕の間にある矛盾は、現在のところ、うわべだけは強固な二律背反のために硬直してしまった。暴力の廃絶は、権力を熱狂的に渇望している諸国家や集団に対して公然と世界を提供するし、僅かな希望もなくあらゆる悪人たちの勝利に向かっていく。それに対し、反対派の政党や運動に参加すること、つまり国際的もしくは国家の前線側に参入することは、仮にも制限された形式の中で支配を促進することを意味する。権力政治は諸君に悪影響を与える。今日それでも良く見える国家や政党は、明日にはすでに悪しきものとなっているだろう。実践的な闘争は、厳格でヒエラルキー的な組織・人類の後退・悪党との契り・道徳的に異議を申し立てることの抑圧を要求し、チャーチルとスターリン、フィリップ・マレーとロード・マウントバッテンとの同盟への服従に行き着く。無慈悲な運命にあらゆる個人を貸し出すような逃げ道は、受動的援助もしくは能動的援助の間に広がっているようには見えない。
⑤だがしかし、そうした二律背反は誤りへと行き着く。この二律背反はそれ自身で悪しき現実の一部なのだ。理念から実践を一義的に基礎づけようとする論理〔学〕は、党員たちにとっては二律背反のように揺るぎないもののようには見えない。強制収容所の中に非暴力の殉教者として遠くまで輝く証明を置いていく原初の聖書研究者、そして、権力の制服に向けて日々幾千もの死を直視している党の構成員、彼らは両者とも現実にしか正しい名を与えないのだが、その限りで彼らの間に大きな違いなどない。彼らは他なるもの〔das andre〕、すなわち真理を明確に示している。彼らが自らの実存を個別のものの中に基礎づける様式は必然的に混乱し脆いのだから、そして、なおも主観性の契機は明確な認識の一部であるのだから、彼らは互いに近い距離にある。彼らは思想を表現する。真理を表現するための道など存在しない。ただし、真正な認識に従った適切な認識であり、不正に対して具体的に抵抗するような形式においてでは話は違うのだが。この諸形式がどれほど理念から導き出すことを強制されていないとしても、真実を表現するのは、たった一つでも具体的なものを実現する者だけである。真理と実践の分裂は永続的な変化の中で概念把握され、それぞれの極はこのプロセスの中で変化する。党の実践の下に従属することが前提条件を意味するような時代、そしてそれが理論の死を意味する時代は〔たしかに〕存在する。今日、宗教的離反者と政治的闘争者の両者は、自らが世界の権力や固有の総統のために思考を捧げるのではなく、世界に抗して光を照らし、世界のために光を照らす限りで、人類それ自体を支えている。恣意に委ねられるものはなにもないが、処方箋も存在しない。真理を口に出す要求でさえ、他の犠牲者ほど確実に導出されえない。明確な形式の中で思考が要求するのは、虚偽が告げられるべきではないということだけであり、また、これを拒絶するということは、存在するものによってでは魅了されえない眼差しの中で、つまり戦士のごとく平和を好む者たちの中で思想は光り輝くのである。彼らが惑わされることなく善きものの可能性に対する信頼を自らの内で支えること、つまり彼らが精神を不正に適合させることも価値のために虚偽の価値に向けて祈りを捧げることもないということは、次のようなことを唯一保証する。すなわち、いずれ人類はもはや真理を保存するだけでなく、真理を現実のものとすることの唯一の保証人であるのだ。
⑥革命的思想は堕落しているということは、固有の人格を従属させることに対する鋭敏さが存在するということである。革命的思想は支配的秩序を否定し、幸福と苦しみの矛盾という社会にあてがわれた矛盾を否定する。この思想は権力を否定するのだ。しかし、従属それ自体に対する鋭敏さにおいて、いま人類を屠畜台へと駆り立てる意味、つまり権力のための意味は完全に隠れてしまっている。この思想は生への愛に基づいている。生を別の方へと切り落とすことは、革命的思考や抵抗一般を生み出すことになる。我々の幸福を誤魔化し、他のものを仕向ける器官は、現存在の慰めが感じ取られるような場所でしか発展しない。飢えや寒さ、屈辱や過度な労働によってでは引き裂かれないような単なる実存、つまり剥き出しの実存はすでに、まさに自らの心臓からすれば、人類にとって楽園よりも同時に満たされるような恩寵であると見做されている。自己の権利に固執する者、扱いにくい者、反抗的な者、諸原理や恨みから直接的に自分の威厳を守ろうとする者は、たとえ自らがその思想を広めようとしても、思考そのものに敵対している。自らの無知の中で、時間を顧慮しない過去の世界の時代に仕える忠実な女中は、思慮深く数分を惜しむ組織化された賃金労働者よりも、社会主義がそれ無しで狂気の新たな形式となるような生に対するへりくだりにおいて勝っている。労働に対する彼女の愚直な心構え、彼女が幸福になる可能性、正義に対する彼女の無知なる意識、これらはより良い未来を指し示す諸要素である。彼女は恨みからは無縁なのだ。革命的思考が進んで保持する上層階級の人々の過剰が、この思考を燃え立たせるのではない。革命的思考が乗り越えようとする下層階級の人々の困窮が、この思考を燃え立たせるのである。言うまでもないが、革命的思考は社会主義をも生き延びる苦しみ、自然全体の苦しみを前にして、恐怖の真ん中でいつも味気ない幸福だけを満たしている豊かさの上にではなく、今日豊かさと結びつけられるテロの消滅の上に自らの〔利害〕関心を置いたのだった。非暴力性は、闘争ではなく思想に住み着くのだ。
(15)〔観念論的弁証法の転換〕(仮題)
①概念は事象そのものの内部にあるというヘーゲルの教説が精確に熟慮されるとき、この教説の実行、つまり観念論的弁証法は、それ自身によって唯物論的弁証法となる。それはまるで、定まった判じ絵のようなものである。つまり、観念論的弁証法が長い時間じっと見つめられたとき、この弁証法は前述の唯物論的弁証法のような図像である他の形態に転換するのである。ヘーゲルを頭から足先まで立たせるということは、ヘーゲルがすでに足先で立っていたということが理由でのみ、説得力のあるものであった。
(16)ギャング団と精神
①支配の基本形はギャング団である。何人かが仮定しているように、原初的な群衆の中で僭主だけが全体を導き、庇護することはありうる。だがこの場合、僭主と群衆の最も非力な構成員の間にある強度の区分によってヒエラルキーは設定されてもいる。力関係が最も近しい男たちは、族長に対する男たちと同じように、劣った力を持つ男たちに対して嫉妬深く自らの特権を監視している。道具の発明以来、序列というのはもはや心的な力によってだけでなく、道具の本性を通じて人間に提示してきた生活様式によってでも同じくらい決定されている。より良い兵器、つまり国家を適切な性質に結合する中で領土を整理する方法は、実り豊かな現存在を可能にする。新たな段階を達成したとき、初期の段階への逆転は、概して新たな慣習や欲求によってだけでなく、新たな方法に基づいて生じる利害諸関心の分裂によってでも妨げられる。特定条件やその条件に相応しい性質が形成されるどころか、それらは少数の個人や集団が新たな分業の中で保持しているいくつもの立場に応じて他の社会とは対照的に、少数の個人や集団によって発展していく。彼らの能力、つまり社会装置の中で重要な立ち位置を占有することによって、自然のポテンシャルの上に根源的かつ純粋に基礎づけられた権力のヒエラルキーは修正されていく。ただし、それはそのヒエラルキーが発展の過程で最終的に第二の自然、つまり社会的自然に相応しく、もはや強度ではなく立場に相応しいまでに限られるのだが。また、さらに社会が依然としてそれに基づいているような第一の自然は、損なわれ、奴隷となっている。
②上下の区別、つまり支配と被支配は、自らに存するあらゆる個別の権力集団の組織とさらに下の方にある権力集団に抗する組織に基づいている。どの集団も比較的無定形で上へ向かっていくのだが、それというのも、長続きする組織は下へと滑り落ちることがないよう努力することを肝に銘じているからである。上へ向かう幹部と組む諸組織は、既存のヒエラルキーの中に居場所はなく、正規の居場所のない経済的機能であるが、革命的活動における不法な時代の後に息を吹き返す。これまでの歴史の中では、そうした試みの勝利とともに役員と彼らの依頼者からなる集団が、修正されたヒエラルキーの中で占める自らの陣地を即座に占拠し、下へ向かって硬直する必要があった。この集団は、自らの社会的機能を先に進めるか、自らがその後に独占することになる新たな社会的機能を不当に占領するかのいずれかしかない。この硬直化は、社会プロセスの中で一定の規則を持つ能率に基づいて強制されうるような諸利益の独占と呼ばれる。生産諸手段の私的所有は、とある機能の決定的な硬直化、つまり工業時代とは反対に、商品生産の命令を決定的に硬直させたのであった。
③集団によって行使された諸機能の最も普遍的なカテゴリーは庇護である。諸集団は、自らが特権的地位を占める分業の持続のための諸条件を維持しており、自らの独占を危険にさらしうる諸変化を暴力的に防ぐ。これら集団とはギャング団である。これらギャング団は社会の最下層を公約数的に保護・弾圧するのだが、その限りでそのつど支配階級は、一定の生産様式に基づいたギャング団の構造であると呼ばれている。その他の点でギャング団は、自らの物質的利害関心を形成する経済的ダイナミズムに応じて上下に分裂しうる。それどころか彼らは、自らの保護機能がそれによって強化される限りで、意識的無意識的にこの分裂を維持・増大することができるのだ。支配階級と支配の単一化の関係は、いつでも複雑であった。中世における皇帝と教皇のアンヴィヴァレントな関係は、企業連合よりも好都合な時代においても遠心的な諸力を弾圧していた。ここ数世紀の国民国家を維持しようとする動きでさえ、ほんの一部では〔なおも〕国家的な官僚制の特殊な利害諸関心に奉仕していたし、全体的な体系としてギャング団のシステムの役に立っていたのだった。
④ギャング団が下に向かって硬直化することは、ギャング団を構成する諸個人の硬直化と同じである。歴史全体の中でこうした硬直化は意識的に行われてきた。特定の子供にとってこの諸個人の硬直化は、教育の中にある。ギャング団の一部が経済的基盤に基づいて拘束力を持つ諸性質を欠く必要などなかった自由主義の時代の中でのみ、この硬直化は人間的な一連を享受していた。それ以前の硬直化は、それでも無慈悲さのもとで、それ自身ギャング団であるような原始的な部族の加入儀礼と同じであった。すでに血筋に基づいてではギャング団に加入する要求の権利などない諸個人にとってこうした手続は、部族の若者を受け入れることと同じことではなくなり、むしろ特権的地位にあるギャング団に魔術師を献納することと同じになっている。人格を完膚なきまでに破壊すること、つまり議論の余地がないほど説得的に未来の確実性を請け負うということが要求されている。個人はあらゆる権力を放棄し、過去とのつながりを断ち切らねばならない。真正なレビヤタンとしてギャング団は無条件の社会契約を要求している。スライド式に時代が変化することの豊かさは、未来の確実性がギャング団にもたらさねばならないような固有の母親の犠牲から、自らの思考や知覚、言葉は最終的にアカデミックなギャング団の諸形式を受け入れることになったことを錬金術師が証明する証拠である大学の博士論文へと行き着く。能力は一定の状況の中で刺激を生み出すが、ギャング団に対してはアウトサイダーを受け入れる権原を形成することはありえない。当局の権原は、ギャング団に従属していることを単に立証しているだけだ。あらゆるものの名の中に手負いの印をつけている国家は、そのことによって、所有者がギャング団に従属しているのと同時に、彼らのシステムの中に組み込まれていることを立証してしまっている。包括的な組織が世界によって意のままにできるという事実でもって、合法および非合法な肩書とこの世および冥府の一部であることは区別されるし、世界の代理業を追放する人間は、世界による庇護を免れることなどできない定めにあり、消えていく。上部機構でさえ剥き出しの対立関係にあるのに、一方の上部機構がそれとともにきわめて重大な障害を持っていたような個人は、もう一方の上部機構を疑うのである。適応力の欠如ではなく、本質的関係から遠く隔たっている状況がこっちの収容所からあっちの収容所へと移行する動機であるということは、きわめて明白でなければならない。歓待〔歓迎/Willkommen〕は、ヴォルスカー族にして見れば、支配との彼との親和性が遠くで輝いているような恐ろしいコリオラヌスであった。彼は生まれの良いギャング団の人間であったし、いつでも紹介されるような最高司令官の素質を持っていた。脱走した奴隷は、それとは正反対の象徴である。
⑤住民全体に対する関係性の永続的な規則として自らの意志を地理的な領域で維持するような組織がありうるのならば、人格の支配は全体の形式に染まっていく。このことは、相対的な権力関係を固定してしまう。その他の調停のように、法は固定された媒体として固有の自然や抵抗力を手に入れる。この法は精神の実体的要素になることで、必然的な理念として普遍性と特殊性の調和を吸収する。社会的生の中で要綱に奉仕する法の意義と目的は、特定の個人や過去からの見通しを条件付け、特定の日時から公的な無効宣言までのあらゆる見通しに対する妥当性とその見通しに抗する妥当性を条件付ける。支配手段は、この妥当性が正体を現す反省としてこうした妥当性に反対するのである。下へ向かって隔離が増大し、独占が硬直するとともに、全的に展開する社会は、法に対する、すなわち固有の生を獲得しつつ言語形式の中で存在するようなあらゆる調停に対する闘争を敢行ことになる。精神の矛盾の中や、ギャング団が合法というだけでなく法律の背後にいるような場所にさえ、ギャング団の根本的な違法性がある。合法性というものが存在して以来、これは違法的なものの一連を支えている。ギャング団は自らの外部にある生の憐れみなど知ったことではないが、自己保存の法則だけは熟知している。独占下で言語というのは記号体系へと硬直し、捕虜のモールス信号やノッキングシステムよりも沈黙し、表現を欠いたものとなっている。この言語は、表現の意味を完全に失うし、ハンドルやケーブルのような生産物における機械であり、管理の計算機であり、暗示的な策略の総体である。諸個人の精神的な交流は、認識標の表示と発見へと還元される。演説〔発話〕は、発話者をギャング団たちにとって信頼できるものとして証明するか、ナイフの鋭さを経験させる共謀者のように発話者を暴露するかのいずれかである。硬直した言語は、見捨てられた戦場にある剥き出しの切り株の如く、天空に向かって告発することを指し示しているし、この言語が奉仕せねばならないギャング団の世界を公然と告発する。飛行機が投げ出す20個ほどの小型爆弾を自らが放出し、1度のみならず20回も母の果実を粉砕する母なる爆撃は、まさに母の名によって自らが下した地獄のような決定の罪で裁かれ、その決定を宣伝する。この時代が過去のものとなるとき、この時代の無数に積み上がった死んだ言葉は、なおもこの時代に抗して生まれてくることになるのだ。
⑥どのギャング団も精神に対して心を砕き、すべての人間はこのギャング団と重なり合っている。普遍的なものと特殊なものとの宥和〔Versöhnung〕は精神に内在しており、それらが宥和しえないような矛盾や統一と共同体の理念における矛盾の覆いは、ギャング団に内在している。支配それ自体が悪なのではない。ギャング団を定義する支配の中にある自己完結した硬直化が悪なのだ。原始的な民族の最年長者による助言の中でなされる密談からクラブおよび忠告部屋にある工業や兵士の合意に至るまで、歴史的支配は悪しき良心でさえ持つような悪しき支配として記録されてきた。統治の秘密がそれを前にして維持されねばならないような下層階級の人々の残虐さは、原始的に発生するのではなく、社会的に発生する。人類史を恐ろしい形で貫徹する血に飢えた共同体は、排除的なギャング団のもう一つの顔にすぎず、意識的もしくは無意識的にギャング団から生み出される。貴族階級の使い古された舞台衣装は民族衣装として死後も生き続け、支配階級のギャング団は弱者に対する強さの残虐性として、そして無力な者たちに対する暴徒の筆舌に尽くしがたい卑劣さとして死後も生き続ける。このギャング団は小さな男たちのギャング団であり、落ちぶれた文化財である。常にギャング団たちは、自らによって生み出され統率された恐ろしい出来事を、自身に固有の必然性の基礎として引き合いに出し、信仰心のない歴史家の愚鈍さは、大衆の歪んだ顔を剥き出しの自然として受け取った。今日までギャング団は、あらゆる社会的仮象に自らの烙印を押し、聖職者・公共施設・所有者・人種・主人・成人・家族・警察・犯罪者のギャング団として支配されてきたし、勢力圏の残余に対する個々のギャング団におけるこれら手段それ自身の内部で支配されてきた。人間、つまりラディカルな意味から遠く離れてそうした意味としての人間に敗れた者がギャング団の一員でない限り、ギャング団は至るところで内的手段と外的手段の矛盾、つまり人間の矛盾を保持している。だが、散逸的な頭の中でなおもギャング団は、概念や判断図式、つまり自らの世界に由来する思考様式と内容を用いて統治していた。内外を分かつ境界線を犯すことは、世界がその充足のために変わるような政治の目標である。排除され隠された現存在を大衆の中に導く民主主義の真なる理念の中で、ギャング団から自由になった社会の予感が完全に消えることはない。無論、この理念を具体化することは、ギャング団への真なる批判をなおも自らの使命とする大層な暗示を打ち壊すことを意味するのだが。
(17)時代遅れの問題(1939/40)
①ある主人は裕福であり、19世紀の市民的な婦人の生活は慎み深い贅沢の中へ吸い込まれていた。彼女はどこかで金銭的に報われるようなことを何も成し遂げていない。彼女は朝になると配達人のもとへ注文しようとする女中のしつけを行い、折に触れてどのようにきれいにせねばならないかを女中にやり方を教えるために部屋を掃除する。子どもたちは女の子である。午後は買い物やお茶、他には娯楽を楽しみながら過ぎ去っていく。主人が夕方に彼女たちに出会うとき、彼は時の経過とともに増大し激しさを増す彼女の悲しみに驚く。彼は自らの義務である、経済的なことやさらに性に関することを果たす。婦人に対する秘密の怒りは主人の中に広がっていく。たいてい彼はこの怒りをなだめるか忘れてしまうのだが、殊に彼の婦人が、全く理由もなく自然に、知人である若い婦人に嫉妬心を見せるとき、この怒りは肝心なタイミングで戻ってきてしまう。彼女は恩知らずであり知能が低い。彼女のためでないのならば、なぜ自分は苦労をするのか!しかし子どもたちに対してはそうではない。子どもたちは良い教育を受け、自分の世話はあとになってからしなければならない。無意識的かつ執拗に、彼は事務的な煩わしさのために婦人への恨みが募ってくる。
②いくつかある自動メカニズムの一つは情動を鎖で固く結びつけ、人間を相並んで鈍化させるし、他にも市民社会の均衡を作り出すのだ!怒りの中でこの主人は、自らと婦人を台無しにしてしまうような社会的機械装置と同一化してしまう。彼は犠牲者に対する主観的な復讐心を客観的必然性の野蛮へとつなぎ合わせる。婦人による世界に対する認識の欠如、世間知らずなエゴイズム、主人自らが彼女の行為によってそうなったように、彼女が遠くまで及ぶ命令〔≒社会〕からの遮断を通じて描出されている歪んだ化粧、これらの下で社会がもうすでに子どもの中で窒息させている果てしない要求はひたすら生き続けている。このことは主人から免れている。後年に生理学的なものによる援助とともに女性的な辛辣がときおり増大していく狂気じみた悪意の中でなおも諦念の欠如は、悪しきもの、つまり人間の力を制約するものや儚いものに隠れ潜んでいる。ユーゲントシュティールのヒステリーは、ストア派哲学、つまり市民時代のこうした退屈な産物と矛盾しているのである。
③主人に対する命令はこうだ。婦人の実現不可能なトラウマに対して卑劣な現実と結びつけないこと。業務上の失敗の代替を愚かにも常に婦人に押し付けるような現実を、この現実が持つものよりも巨大な憎悪とともに憎むこと。そして、主人が婦人を愛する理由である彼女の若さという実現不可能な期待をも見捨てること。事実として、この期待が彼女のもとで絶望に転換しているのだとしても。
(18)骨相学(1939/40)
①金の中で受肉した支配の市民的形式の没落は、支配の担い手の顔に現れている。それら顔は世界に向かって嫌な目つきをし、気分を害されており、人間が嫌いである。この顔は他人も自分も好きではない。このことは、ずっと前から市民階級について回っていいた。聖フランチェスコの愛が始めから伝説であったということは、なおもこの愛から看取される。だが、これからの時代に成功を約束されているルネッサンスの貴族である油絵師が、野蛮な粗暴さを明るみに出しているのは事実である。このとき、19世紀のダゲレオタイプやフォトグラフィーは、憤懣や嫌悪の立ち上る表現をさらに見せつけている。この表現は権力の所持と必然的に結びつけられるものではないし、確実に権力の遂行と結ばれるものでもない。〔ここで〕考えられているのは、戦前ドイツの将校についてである。しかし、この将校は20世紀の商人の顔に描かれているのである。
②後期自由主義者たちのひねくれ、いじけ、ひしゃげた表現は、彼らの弱り果てた影響力と関係している。彼らは成果以外の信仰は持っていないが、機会があるたびに軍事的な力などに助けを求めねばならない。自由主義者たちによる直接支配は、いよいよますます簿記係を叱りつけ、労働者を解雇することに限定される。ここ半世紀から支配者の大多数は、自らのイデオロギーを語るための寄生者であり、密かにこのことを予感していた。彼らは、自らの単純な直接支配の痕跡を身体と精神に引き受けている。技術者と管理者という再台頭する種族は、すでに支配の他の形式の一部である。
(19)宗教心理学
①ユダヤ人たちは自由・愛・正義についての教えを彼らの預言者の口から受け継いだ。たしかに彼らは文句を言い、この教えに背いたのだが、演説を人間的なものとして敬っていた。
②キリスト教において預言者は神へと高められることとなった。未知のものや憎悪、嫌悪についてのいくらかの尺度は、ヨーロッパ民族のもとではあの諸原理を呼び起こさざるをえなかった。事実、彼らの師が、あの諸原理を軽蔑して脇に追いやらないようにするために、自分自身を越えて立ち向かう必要があったとしたら、それはキリスト教神学における悪の形而上学的な永遠性を示唆する、激しい欲望にほかならない。キリスト教の神的な喜劇作品の魅力を放つのは天国ではなく、––罪業に関係するものと同様に、処罰にも関係しているもの、すなわち地獄であるのだ。イエスの教説が奴隷ではないすべての人間のもとで遇する嫌悪は、なおもイエスの神聖さによって感じ取られる。サタンが創作〔発見〕されたことで、嫌悪だけが養われることになった。いわばサタンは、処女受胎に対する埋め合わせである。経済的および社会的な理由から、イエスを自ら公式にベルゼブブに仕立て上げることができなかったため、彼に与えられた役割はせめて代役によって演じさせ、その人物に対して、イエスが絶えず引き起こしていた憎しみを解き放つことができるようにした。
③しかし、ドイツその他の未開の民族にキリスト教を伝導したユダヤ人はそうした〔憎しみの〕増大の苦労をはじめに引き受けることはなく、直接サタンと同一視された。率直に言えば、ユダヤ人たちは悪魔と見做され、あのヨーロッパ人による文明の打刻を引き起こし、キリスト教によってはじめて感じることができた、あらゆる激昂する怒りを経験しているのだ。この怒りは地中海から広く伝播していくため、反ユダヤ主義は増大したうえに、東欧諸国にまで広がっていった。ドイツではサタンがユダヤ人の連中を身ごもり、ユダヤ人は愛・ロゴス・真理に課された屈辱を引き受けたのだった。
④人々の多くは、フロイトやライク、サミュエルなどを読んだことがある。彼らは、キリスト教それ自体の性格に際してよろめく。反ユダヤ主義の宗教的基盤は、異化や呪いの他の側面が存在する文明の美徳を神の如く崇拝するキリスト教それ自体におけるように、回心した大衆のもとで見つけ出されることはほとんどない。そのため、福音の教えそれ自体でさえ真でありうるし、それが変化することによって、この教えは宗教へと姿を変えていく。サタンは多くの精神分析的な起源を持っているのかもしれないが、サタンが自らの永遠の生命力を覆い隠す原点である虚偽は、人の子〔イエス〕の偶像それ自体である。この偶像は直接的ないし間接的支配の一連の中で生まれてしまった。偉大なカール大帝の刀剣と並んで、商売が言うまでもなく時代の流れの中で悪しき商売として証明されたユダヤ商人の階級は、このことに関係がある。それゆえ文明の恐ろしさは、文明が虚偽とともに贖われねばならないことを揺らがせ、最終的に反ユダヤ主義は、キリスト教に対する憎しみの変装というより、キリスト教がすでにこうした変装を叙述している状態の帰結である。神に対する憎悪は副次的なものであり、真正な憎悪は神聖化の中にある。告げられる代わりに忌み嫌われた十字架というのは、すでにヨーロッパ史を忠実に請け戻すという拷問用機械の不名誉な誓いである。十字架が神聖なものとなって以来、絞首台や薪の山のために自然から物質となったあの材木は、決定されているように思えるのだ。