人は利他的に生きられるのか
急に固苦しい題で恐縮なのですが。
今日インターンの会議をしていた際に思ったことです。
利他的な思考や行動を身に着ける、という団体のバリューとしての案が出たのですが、私は利他的という言葉そもそもに違和感を覚えていて。
何故なら、
自分自身は自分自身を幸せにするための行動しか取れない。
そう考えているからです。
ただし、自分勝手に自分だけの幸せのために他人の幸せを考えないという意味ではありません。
ではどういうことなのかというと、
自分自身を幸せにするための行動として、他人の幸せを考える
ということ。
これは、またポジティブ心理学の話なのですが。
私たちの脳は、他者との共生ということを大きく志向しており、人を愛し、人のためにつくすことに大きな喜びと幸福を感じるのだそうです。
お金や社会的な地位よりも、ずっとずっと深く、「社会的報酬」を欲していて、そのために、他者を利する行動をするようプログラムされているんだとか。
人間が今まで生き延びてこられたのも、社会的報酬を求めて生活した結果、ともに助けあうことができたからとも考えられます。
さらに、他人との接触により放出される、脳内の幸せホルモンとよばれるオキシトシンが多幸感に結び付くのだという科学的裏付けも。
すべてのエクササイズの中で最も確実に一時的な幸福感を高める方法は
「他人に親切にすること」だ。
ポジティブ心理学の父、マーティン・セリグマン氏 (昨日も登場しました) はそう言います。
なので私は、「自分の幸せのために利他的に行動している」ことになる訳ですが。
「自分の幸せのため」「利他的」
なんだか矛盾しているような。
結果的には人の利する行動をするわけですが、それは私のため。
それは利己的なのではないか。
じゃあそもそも純粋に利他的に生きるのって不可能なんじゃないか。
それでタイトルに行きつくわけです。
もちろん利他的な行動をと思って動く人を尊敬しますし、かっこいいし素敵だと思います。
でも、本当に他人のためだけとなっていることってないんじゃないかなって思うんです。
誰かに電車で席を譲る。
そのことで感謝されるという社会的報酬を無意識のうちに望んでいるが故の行動であるし、
だれかにプレゼントを贈る。
そのことで、自分の好きな人 (恋愛的な意味以外にも) が喜ぶ顔が見たい、という自身の欲求に基づいているし、
自己犠牲という言葉がありますが、これだって、
「あの人が苦しんでいるという状況に自分が耐えられない。この苦痛を覚えて生きるなら自分がその苦しみを背負う方がましだ」
という、根本的には自分の利のための行動だと思ってしまうんです。
でも、上の例を、人は基本的に、利他的な行動であると定義します。
私のように、「社会的欲求を求めている自分」に気づいて、いわば打算的に行動するとすると、同じことをしていても、その利他は少し薄れてしまう気がするのです。
他人のためを思ってする行動やその思考は素晴らしいはずであるのに、打算的な自分に嫌気が差してしまうし、この言葉のうまい自分なりの定義が見つからなくて、もやもやする。
…という心の雨雲を整理と精査するために今日は書きました。
読んでくださった方、なにか思うことや自分なりの定義を持っていましたら教えて下さい。
というわけで、今日はこのへんで。
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