レンガを積むことが正しいのか?
三匹のコブタ。という話を知ってることだろう。
長男豚はワラの家を最も早くつくるが狼に食べられる。
次男豚は木の枝で家を次に早くつくるが狼に食べられる。
一番忍耐強く家を作った三男豚はレンガを積み続け、狼に食べられなかった。
私が疑問に思うことは、狼という
"変化への恐怖"だ。
次に述べていこう。
①狼(変化)は悪いのか?
そもそも狼(変化)は悪いことか?
人はその状況にとどまることで安心する。
せっかく得たものを手放すのは嫌だと。
だが、変化に晒すことで平均寿命すらも健康寿命すらも伸びる。
例えば脳にとって今まで受けてこなかった刺激、
例えば代わる代わるやったことのない語学だったりピアノを弾くなど。
そうすると認知症が防げて4年間も自己認識や記憶力が続くといわれている。
これらが続くということは、
認知症になって合併症や人間特有の無感動無関心から遠ざかることで、
無感動無関心から遠ざかることが一番の生存率だといわれてる。
例えばホラー映画やチャップリンの喜劇劇など10の映画が放映されてたら、
一つの映画で三時間だとして、
あわせて30時間。
映画を(感情の動き)見ようとする"意識"があれば30時間もみるだろうが、
そうでなく無感動無関心なら通り過ぎて0時間。
年齢でいけば0歳生きるのと30歳まで生きるのと同じだ。
これはアウシュビッツ強制収容所の話にもつながるが、
人は無感動無関心になった瞬間に絶対ここから抜け出すまで生きてやるという気がなくなり有刺鉄線で自殺を試みるらしい。
同時にそれをせずに感情に動きがありながら"意識"を持った人は当然、
日記を書いて奮い立たせ生きる気力を持ち戦争が終わり、
寿命が来るまで生き延びたことにもなる。
そういった意味でも平均寿命も健康寿命も伸びるのがひとつ。
狼は、死をもたらすものでなく生きることを肉体的にも精神的にも、
また自己啓発的にも与えてもらえる存在なのだ。
②狼は家を作ってる間に来る
むしろ、変化というものは自分を確立(家)する前に訪れるものだ。
だとしたら本当の家とは狼(変化)と共にある
"草原公園"なのだ。
その草原公園から隔離する家を作ったらどうなるか?
"自分が確立されない"や、
"自分が一生今のままで止まってしまう"
ことである。
私からしたら、ワラでつくった長男豚も尊敬はできない。
長男豚→イエロー信号、
次男豚→赤信号、
三男豚→事故死。
のようなイメージである。
③家は作るものじゃなく借りるもの
三匹の豚がいた草原公園は、
狼(変化)→一匹一種類(一つの種類のみの変化)
なのだから、
そこが例えばアリゾナ州なら次はパリにゆこう。
じゃあ次はどこにしよう。
と、狼以外の変化に出逢いたい。
サチでもいい、虎でもいい、
見たことのないものに会いにいこう。
きっとそこには見たことない私がいる。
だから、家を買うなら家を借りていつでもそこを出られる
(決まった結果からの脱出)ようにしておこう。
ちなみに、本は沢山のものを借りて読むのでなく、
たくさんのものを
買って読んだ方がいいと思う。