何が正解?
最近、子どもたちと関わるようになって気づいたことがある。
それは、子どものころの感覚を思いの外忘れていたこと。
思いの外、というのは、過去に人より執着している自覚がある私が、思っているより、なのでかなり思ってるよりなんだなあと思ってほしい。
思ってたよりもずっと、
繊細で脆く、見えている世界も違うし、純粋で、そして激しい。笑
(エネルギー量すごい。力強い。そして痛い。笑)
思ってたよりずっと難しい。
そしてエネルギーが要る。
どうしたら、彼らにとって良い関わり方になるのか、命が関わってくることだってあるのに、いちいち判断に迷ってしまう。
周りへの迷惑を考えるより先に、子どもたちの自由を守りたいと思ってしまう。
自分が抱えたトラウマが邪魔をして正しい判断ができなくなることもたくさんあるし、
子供たちに嫌われたくないというエゴもある。
自分が大人であるということに違和感を感じていて、最初はなかなか叱る、ができなかった。
でも、叱るということには"大人"としてこどもたちを守る責任があって、それを果たすための方法の一つなんだ、と叱る大人を見て思い、ブレーキをはずした。
"心を鬼にして" という言葉の意味を身をもって知った。鬼になる苦しさを知った。
叱るたびに叱らずに済む方法があるなら教えてほしいと切実に願うくらいしんどい。
そもそも人を叱れる程立派な人間じゃないし、何より自分が幼少期叱られることが怖くて行動を制限してきた記憶があったから、どうしてもそれがブレーキとなってしまう。今はそれが自分の責任でしかないことを知っているけれど、やはり怒りのエネルギーは問答無用で人の心を疲弊させるし、苦しませるし、痛ませる。
感じ取るものが違うから、こっちの意志が1mmも伝わってない..!!!! なんてことはザラにある。発する側が、愛があると思っていても、受け取る側が受け取れなければ、残念だけどその愛はなかったのと同じことだ。そういうときは本当に、ただ怖かった記憶だけが残るのかもしれないと思うとやりきれない。
どう思われてもいいけど、彼らの人生に苦しみはなるべく残したくないと思う。
そうやって毎日たくさん間違えてる気がする
過去を思い出して何もできなくなることもある。
ずっとやりたかったことの小さな小さな第一歩、なのかもしれないけど、とても小さなところで躓きまくっている。
そもそもずっとやりたかったことなのかも甚だ疑問で。
自分の過去に意味をもたせたいだけかもしれないし、必要とされる感覚がほしいだけなのかもしれないし、自分自身を癒やす代わりなのかもしれない。
それでも必要なフェーズだと思って、向き合っている。
なんて、格好つけてみたけど、基本的にとても楽しい。やっぱり子どもという存在が好きだなと思う。子どもたちの純粋さ、可愛さ、あどけなさ。でも、ちゃんと一人の人間で、それぞれに大事なものがちゃんとある。そんな存在が愛おしくてたまらなくて、私が元気をもらいに行く。
未来のことはわからないし、まだあまり考えられないけど、子どもたちが息のしやすい世界つくりたいなと、割と大きなことを思う。
でもまずは私が私を大丈夫にしていきたい。
私が息をしやすくなって、自由にならないと、誰かの世界をそんなふうにすることはできないと思うから。
結局そこに戻ってきて、そこが一番難しいので、結局一番厄介なのは自分なのかもしれない。
2023年 7月の記録