見出し画像

壁とニート

キーボードを叩いて作業するサラリーマンに挟まれた窓際の席からは、大きな工事現場と、そこで働く人々の姿が見える。仮設の事務所でiQOSを吸いながら雑談している作業着の人。産業廃棄物らしきゴミ山を3tほどのトラックに積み込もうと悪戦苦闘する人。台車で荷物をせっせと運ぶ人。

仕事する人々に囲まれながら朝マックを食べている僕は、現在、仕事をしていない。適応障害と診断されて8月半ばから9月末まで休むことになっていたのだ。しかし、10月から働くという周りの人々との約束はあっさりと反故にした。会社には「まだ休みたい」とそっけないLINEを送り、家族には仕事に出かけるようなそぶりを見せながら、マクドナルドに逃げ込んだのである。会社に籍は残しているが、心は残していない。ニートではないが、ニートだ。

周りの人々とは違って、僕にはとりたててやるべきことはない。ぼーっとタバコに火をつけるような手つきで、MacBook Airを開いてnoteを書き始める。

労働はクソだ。労働なんて必要ない。労働なき世界は可能だ。

近頃はそんなことばかり書いている。本まで出した。

僕の目の前にある液晶モニターも、アイスコーヒーも、座っている椅子も、日がな一日接続しているインターネットも、誰かの労働が生み出し維持されているはずだ。労働の果実を僕の身の回りから取り除けば、たちまち全裸で歩き回る羽目に陥るだけではなく、歩き回るための道路すら失うというのに、僕は労働を馬鹿にし続ける。いささか居心地は悪い。夜の校舎の窓ガラスを割って回る中学生が、家で温かいママの手料理を楽しんでいるような、そういう滑稽さを自分の中に見出さずにはいられないのだ。

工事現場で働く彼らが何を作ろうとしているのか、今日これからどんな作業に取り組むのか、僕は全く知らない。隣のサラリーマンたちがどんな資料を作っているのか、はたまたどんなメールを返信しているのかも知らない。それなのに「労働なんていらない」などと言う資格が本当にあるのか?

いや、あると思っている。その理由を説明することはできる。というか、その説明を著書で、noteで、延々行ってきた。僕は説明が得意だ。だが、説明を人に聞かせるのが苦手なのだ。だから、多くの人には理解されないかもしれない。それでも確信している。

労働なき世界は可能である、と。

工事現場を笑顔で横切る40代ほどの男性が見えた。手にはどぎつい黄緑をしたプラスチック製の箒を持っている。彼がなぜ笑顔なのか、僕にはわからない。だが、彼がこれから取り組むのは、彼にとって無意味だと感じるような作業ではないだろうし、「なぜ自分がやらなければならないのだ?」と憤慨するような作業でもない。誰かに命令されているという強い嫌悪感を催しながら働いているわけでもなさそうだ。

彼が笑顔であることは幸いである。笑顔で働く人で世界中が溢れかえったなら、僕にとってそれは「労働なき世界」なのだ。

ぼくら人間について、大地が、万巻の書より多くを教える。理由は、大地が人間に抵抗するがためだ。人間というのは、障害物に対して戦う場合に、はじめて実力を発揮するものなのだ。

サン=テグジュペリ『人間の土地』

壁のない人生はつまらない。悲劇とは、壁が見つからないことだ。そして、最悪の悲劇とは、つまらない壁に囲まれていることだ。

労働とは、つまらない壁に囲まれることを意味する。労働なき世界では、誰しもが愛すべき壁と向き合っている。

近所に借りている畑でうまく人参の種が芽吹かなかったこと。棚を手作りしようとカットした木材のサイズが間違っていたこと。娘のために買ったせんべい布団が洗濯機に入らなかったこと。手作りベーグルの焼き加減がうまくいかないこと。これらは僕にとって愛すべき壁であった。

しかし会社での支配は、僕にとって愛すべき壁ではなかった。支配は僕に挑みかかってきたが、僕は支配に挑み返すことはなかった。僕は壁から逃げた。しかし、再び金という壁が立ちはだかった。

金という壁の前で、情熱的にダンスする人もいる。そうなれたらいいのにな、と僕は羨ましく思う。僕は金が嫌いだし、金儲けも嫌いだ。でも、欲しい。妻が最新のiPhoneが欲しいと言うし、息子は際限なくガチャガチャをやりたがるからだ。

しぶしぶながら、僕はつまらない壁に対峙している。しかし僕が本当に欲しているのは、愛すべき壁である。それはパン屋でオーブンに向き合うことなのかもしれないし、工事現場の掃き掃除をすることなのかもしれない。あるいはハイボールの作り方を練習することかもしれないし、労働なき世界の必然性を人々に伝えることなのかもしれない。

僕は知りたい。つまらない壁から逃れたなら、人はどんな壁と戦うのか?

おお、愛すべき壁よ。きっとお前はそこら中に転がっていたはずだ。それなのに今、どうして宝箱の中に鍵をかけて閉じこもってしまったのか?

鍵をかけたのは一体だれなのか? 鍵を持っているのは一体だれなのか?

いいなと思ったら応援しよう!

久保一真【まとも書房代表/哲学者】
1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!