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生きるということ

沢雉は十歩に一啄し、百歩に一飲するも、樊中に畜わるるを求めず。神は王んなりと雖も、善しからざればなり。

『荘子 内篇』

10歩歩いては地面を突き、100歩歩いては水を飲む。わざわざそんなことをしなくても、家畜になれば寝ているだけで飯も水も出てくる。それでも雉は家畜になりたいとは思わない。だって楽しくないから。

荘子のこの素朴な格言は、荘子の解説書に載せるには素っ気ない。荘子にはもっと壮大で難解な宇宙論や無常感みたいなものを求められているのだから。

でも、僕はこの一文が『荘子』の中で一番気に入っている。「生きるということ」をこの上なく表現しているからだ。

最近は「生きる」とはなにか?をよく考える。

荘子が言うように、家畜のように飯を食って水を飲むことは生きるための必要条件だとは言え、十分条件とは言い難い。そこで動物保護団体のような人々は家畜に対して清潔さや健康、適度な運動といったものを求めて、成功したり失敗したりする。

立派な心掛けだと思う。しかし、この文脈の中では、「生きるということ」は飢えや病気の苦しみがないことと、死なないことであると想定されてしまう。要するに、「生きること」とは「苦しみのない持続」ということになってしまうのだ。

この結論は奇妙極まりない。苦しみなく持続するようなことは、そこらの石ころの方がよっぽど上手くやり遂げる。地球には何万年、下手すると何億年も変わらないような石ころだって文字通りゴロゴロしているのだ。

かたや僕たちは100年も経たずに死んでいく。そのくせ僕たちはDNAをせっせとコピーしながら赤ちゃんのオムツを替えて、なんとか持続しようとする。石ころという持続の大先輩からすれば、たどたどしく非効率なやり方に固執する頓珍漢な新人に見えるかもしれない。

もちろん「俺は苦しまずに持続すればそれでいい」などと言う人間はいない。人間の場合は生きるための必需品はもう少し多いと考えられている。それでもせいぜい、生活必需品に加えてセックスとYouTubeか何かを与えておけばいい、というのが一般的な見解ではないだろうか。

要するに持続して、かつ退屈を紛らわせてくれる何かを与えてもらえればそれでいい、といった発想だ。

余談だが、この発想を体現した漫画が『チェンソーマン』である。主人公デンジは自分の動機を全て「ジャムパンを食べること」や「胸を揉むこと」に還元する少年漫画らしからぬ性格だが、その性格が一般読者にウケている。

ウケている理由は、ニーチェ的なものだろう。つまり神が死んだからだ。宗教もなければ、大日本帝国という神も、経済成長という神も信じられなくなった日本では、大義を掲げることはむずかしい。大谷翔平や米津玄師になりたいという大義も、成し遂げられるのは一握りである。

だからこそ大義を否定し、手の届く範囲にある娯楽に効率的にアクセスすることが、スマートな生き方であるとみなされるようになった(そして次はコストコや格安スマホ、積立NISAといったものが神となった。どうやら僕たちは神からは逃れられないらしい)。

そしてこれこそが現代における「生きるということ」である。生きるためには、飯と水、清潔、健康、適度な運動、セックスとYouTubeなどなど、こういったものが与えられてさえいればいい、ということになっている。

そうではない、が僕が言いたいことである。

が、「ボーイズビーアンビシャス!」と叫びたいわけでも、「家族や友達との絆こそが‥」と説教を垂れたいわけでもない。

「生きるということ」について考えるためには、改めて生命と非生命の違いに立ち返って考えてみよう。その決定的な違いは、細胞膜があるかどうかなどというチンケなレベルではなく、自己決定と行為にあると僕は考える。

当たり前だが石ころは自己決定も行為もしない。自然法則のままに存在し、土砂崩れでゴロゴロ転がって削られたり、子どもに投げられたりしても、なされるがままである。

一方で生命の場合、細菌のような原始的な生き物であろうが、植物であろうが、周囲の状況から総合的に判断して少なからず自己決定し、行為する。極端な決定論者でもない限り、生命が全て運命に支配されているなどと主張することは馬鹿馬鹿しいと感じているはずだ。僕が昨晩、スクール水着姿のAIグラビアを見てオナニーすることが、ビッグバンの瞬間から決まっていただなんて、誰が信じられるというのか? これは僕による自己決定の結果である。

もちろんこれすらも周囲に誘導された結果に過ぎず自己決定ではないと主張する人もいるだろう。だが、ここまでいけばもう陰謀論のレベルである。完全に周囲から独立した行為は存在しないが、完全に周囲に決定される行為も存在しない。

完全に決定された行為は行為と呼ぶ必要すらない。反応とでも呼ぶべきだろう。

では、なぜ僕たちは自己決定し、行為するのだろうか? 持続するためだろうか? そうだとすれば、なにを持続するのか? 先述の通り、物質として持続することは生命の苦手分野なのだ。

ならば答えは明らかである。それは自己決定と行為を持続することである。自己決定と行為は手段であり、目的なのだ。そしてそれは同時に生命の定義そのものなのだ。

行為の真髄は、自然法則そのままではない形で、周囲に影響を与えることにある。なにか行為したとして、周囲に対してなんの影響も与えないのだとすれば、それはもう行為とは呼べない(逆に、なんの影響も与えない物質もまた物質とは呼べないのだが、物質による反応と生命による行為との差は、やはり自然法則を超えた自己決定にある)。

影響を与えると、僕たちはその結果を受け取る。結果を受け取り、それを踏まえてまた自己決定し、次なる行為を行う。そしてまた結果を受け取る。

自己決定は、情報収集をもとに予測してから行われる場合もあれば、予測もなしに当てずっぽうで行われる場合もある。

自己決定をすればするだけ学習し、当てずっぽうの範囲が狭まると同時に、予測や行為の精度が高まり、コントロール可能になっていく。そしてコントロール可能な行為は必然的に増えていく。

そこでコントロールが最も容易な対象こそが身体である。生まれたての赤ん坊は当てずっぽうに手足をばたつかせながら徐々に手足のコントロール方法を覚えていき、僕たちが身体と呼ぶ対象を認識する。

しかし、身体の能力には限界がある。そこで、ある人は道具を使って能力を拡張し影響を与える範囲を広げていく(ある意味では身体とは自己に最も密接に接続された道具である)。またある人は仮説と再現を繰り返す科学に邁進し、予測の精度を高めることを求める。またある人は権力を使って他者を動かすことで、能力の範囲を広げつつ他者を予測可能にする。

自分だけの狭い庭の中で予測された結果を得続けることを重視する人もいれば、予測不可能な当てずっぽうを好む冒険家もいる。しかし根本にあるエネルギーは同じだろう。ニーチェが「権力への意志」と呼んだもの、あるいはベルクソンが「エラン・ヴィタール」と呼んだものは、おそらく自己決定と行為のサイクルを駆動する素朴なエネルギーなのだ。生命はナチュラルにPDCAサイクルを回している。それこそが生命の定義そのものだからだ。

さて、自己決定にはもう1つ重要な問題がある。それは、価値である。その行為自体や、行為から引き出される結果に価値があると感じているかどうかが、自己決定や行為の指針となる。何に価値を感じ、何に価値を感じないかは個体によって異なる。カロリーの高い食事や、金儲け、国家への奉仕、コスパやタイパ、セックスアピール、遊戯王カードの大会で優勝することなど、さまざまであるが、一様に価値の評価基準は過去に得た情報から紡ぎ出される(紡ぎ出すこと自体も1つの自己決定と行為である)。価値を感じるから自己決定し行為するという前提は変わらない。

さて、ここまでの議論をまとめるよう。生命とは次のようなプロセスを意味する。

‥‥‥→なんらかの価値を感じる→(予測する→)自己決定する→行為する→周囲に影響を与える→(予測と照らし合わせる→)情報収集する→行為能力が増大し、予測の精度が高まる→なんらかの価値を感じる‥‥

これこそが「生きるということ」だと僕は考える。

しかし、ここで問題が発生する。他者をコントロールすることで行為能力を増大させ、予測精度を高めようとする人がいた場合、その人にコントロールされる人は自己決定ができなくなるという問題である。

自己決定できないということは、その行為や、行為が与える影響に価値を感じていないとしても、その行為を行わざるを得ないといった状況である。あるいは、価値を感じる行為に全く取り組めないことも意味する。

※言うまでもなく、僕が定義する「労働」とはこれである。

さて僕たちの多くは権力に支配されている状況にある。自分の意志とは関係なく、やるべきであると考えられる義務の一群を押し付けられているからだ。学生なら学生の、社会人なら社会人の、母親なら母親に特有の義務の一群がある。これが初めから自分の価値と一致していることは稀だろう。

しかし、ニーチェが言うように人はどんな苦行にも耐えられる。義務に従うことそのものに価値を感じるように、自己を調整することは常に可能だ(これがニーチェのいう畜群道徳である)。そうなれば義務に従うという価値を感じ、義務に従うという行為を選択し、金や権力者による賞賛といった情報を受け取り、義務への効率的な従い方を学びらさらに価値を追求する、という学習プロセスが駆動し始める。

とはいえ、これは妥協の末にある適応であり、抑圧されていることには変わりはない。規律が厳しい部活の方がいじめが生じやすい理由や、厳しい家庭に育った子の方が不良になる理由は、ここから説明がつく。自由な自己決定がほとんど禁止されている場では、自由な自己決定の余地が自分よりも弱い他者をコントロールすること以外に存在しないのだ。また企業が権力争いの場になることも同様である。自由は自己決定の余地がないのであれば、他者を支配する立場を欲するくらいしか、自己決定することがなくなるのである。

この状況を見て、人は根本的に悪であるとか、権力欲にまみれているとか、フロイトのように暴力的欲動があるといった結論を下すのは早計だろう。なぜなら、そうなるのは、彼の自己決定と行為へのエネルギーが暴力や権力を求めることしか許されていない環境にいるからなのだ。狭い水槽の中でしか魚同士のいじめが生じないことは有名な話だろう。

さて、他者に強制される行為とは、基本的に他者に奉仕することである。例えば食事を作ったり、掃き清めたり、ジャニーさんのチンチンを咥えたり、といった行為だ。他者に奉仕することを強制される人は、他者に奉仕することを嫌悪していく傾向にある。なぜならそこに自己決定の余地がないからだ。

※自己決定のない行為を人は嫌悪することは、以下の投稿からも明らかだろう。

そして以下の記事でも書いた通り、他者に奉仕することを強制させられた結果、人間は根本的に他者に奉仕したくない生き物とみなされるようになった。

現代では自己決定によって他者に奉仕するなどということはほぼあり得ないことになっている。だから金で人を雇い半強制的に労働させなければならない。そして、さらに強制が奉仕への嫌悪を生むという悪循環に陥っている。実際のところ、人は他者の役に立ちたくて仕方ないことは明らかだというのに。

人は他者への奉仕を嫌悪しているという自己認識は、逆説的に、他者を奉仕させることばかりを人が望むという自己認識をも生み出した。

その結果が、『チェンソーマン』へと繋がるのである。ジャムパンを食べることやおっぱいを揉むことは、基本的に他者を奉仕させることによって成り立つ。あたかも人間は、こういった行為しか望まないかのように、人々は思い込んでいるのである。だから『チェンソーマン』は流行ったのだろう。

人がゲームを好むことも、それは他者がドーパミンをドバドバ出してくれるように丁寧に設計するという奉仕を行ったから面白いのだと解釈される。しかし実際のところ、ゲームは自己決定が存在するからこそ面白いのだ。自己決定の余地が大きければ大きいほど、そのゲームにのめり込む人が多いことは、マインクラフトやどうぶつの森、ティアーズオブザキングダムの流行を見れば明らかではないだろうか。

そして先の引用Xの通り、ゲームですら自己決定の余地を奪われると苦行と化す。人が自己決定による行為を渇望していることは明らかだろう。

結論は変わらない。「生きるということ」とは、自己決定と行為である。

しかし、それを奪われてしまったが故に、社会は娯楽で溢れ返った家畜小屋のようなものに成り下がってしまったのだ。

荘子の言った通り、歩いては地面を啄み、水を飲む雉も、それが自己決定だからこそ、楽しいのである。黙っていれば飯と水が出てくる家畜小屋よりも、一見大変そうだとしても自由を選ぶのである。

自分が望むものを自分で決める。そして行為する。気まぐれにやめて、また始める。そうして行為の能力を高めていき、また新たに行為する。それが生きることである。そうでないとき、生命は苦痛を感じる。家畜が苦しんでいるのは殺されるからではない。自己決定できないからだ。

初めから飯や水、娯楽といった結果だけを求めているわけでは決してない。パスカルの言う通り、狩人は獲物を求めているのではなく、自己決定によって狩りをしたいのである。誰かに「あー、自動狩り機作ったから、そんな無駄なことはやめなよ。毎日イノシシ分けてあげるからさ」などと言われたら、狩人はこの上ない屈辱と退屈を味わうことだろう。

さて、僕の結論は相変わらず、「労働なき世界」である。人が自己決定と行為を望むのだとすれば、この世界から金による強制(つまり労働)がなくなったとしても、社会に必要だと感じる行為を誰にも強制されることなく自己決定することは、十分に期待できる。

つまり、ここまで書き連ねてきた人間理解によれば、労働なき世界は可能なのだ。

少しばかり小難しいことを書いたという自覚はある。が、間違ったことは書いていないという自負もある。この理論は、僕たちの日常的な経験と一致しているという確信もある。

さてあとはどうすればこれを理解してもらえるだろうか。僕はこの次、どんなふうに行為しようか。それを繰り返すこともまた、「生きるということ」だろうか。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!