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新しい労働哲学が難解な理由

※今回の記事は、初学者向けの補講授業のようなものなので、既に理解している人は居眠りしながら読んでくれて結構である。


僕は労働なき世界を目指す「新しい労働哲学」の布教者なわけだが、世間一般に流布する俗流アンチ労働主義とは、似て非なる主張をしている。

だから、「労働なき世界」といった見出しだけを見て飛びついてきた俗流アンチ労働主義者は、僕の議論を読めば読むほど「ん?なんかよくわからんな?」となる可能性が高い。

なぜこのようなことが起きるのか?

僕から言わせれば俗流アンチ労働主義は、労働至上主義的と背中合わせの思想であり、逆説的に現在の労働至上主義を強化している。僕はその両方を批判し、両方の前提を覆す形で、新しい労働哲学を提唱している。

どういうことか?

まず、俗流アンチ労働主義とは次のようなものである。


■俗流アンチ労働主義の主張

人は労働するために生まれたわけではなく、好きな娯楽やスポーツ、趣味、友達との時間を楽しむために生まれた。

もちろん、生き延びるためには最低限の金が必要だし、娯楽には金がかかる。そのため、労働をして金を稼がなければならないわけだが、労働のせいで余暇の時間が無くなるのは本末転倒である。

金のかからない娯楽も多いし、生活に必要な食費や光熱費はそこまで高くはない。最低限働き、最低限の収入を得て、あとは自由に楽しく過ごすのが一番だ。

それなのに、世の中には、タワーマンションや高級外車、結婚式のために余計に働く人もいる。会社での出世を人生の目的にする人もいる。就活生は大企業に入るために躍起になる。

それが楽しくてやっているならいいが、「そうしなければならない」という常識に囚われているなら、それは不幸である。出世もタワマンも真の幸福ではない。

幸福になりたいのなら、洗脳から逃れ、労働時間を可能な限り減らし、自由に生きるべきである。

一見するともっともらしいが、この主張はいくつかの前提の上で成り立っている。

1つは、生命維持と最低限の娯楽を僕たちが楽しむためには、誰かが苦しみながら労働をしなければならないという前提である。

1日8時間ではなく1時間の労働かもしれないし、自分ではなく他人の労働かもしれない。それでも、社会全体として労働を完全にゼロにはできないことが想定されている。

確かに、現代には非効率な会議や、必要があるとは思えない高級車を作る労働が存在し、それらを無くすことはできると、俗流アンチ労働主義者は言う。しかし、それでも絶対に必要な労働は一定数残り、それらの大半は本質的に不愉快であると、彼らは考えている。

これは僕の考えと真っ向から反する。僕は「誰も労働を行わなくとも、生命維持や娯楽を万人に提供することができる」と考える。

※AIやロボットが労働を代替するからではない。それは不可能なのである。

僕は、誰もが自発的に、楽しく行為することで、労働を代替することが可能であると考えている。

僕は労働を他者からの強制によって行う不愉快な作業と定義する。つまり、誰も強制されることなく、不愉快な気分を味わうことなく、それでいて財やサービスの提供が行われると考えている。

さてこの時点で、俗流アンチ労働主義の暗黙の前提2つ目と、真っ向から対立することになる。

彼らの暗黙の前提の2つ目は、人は根本的に怠惰であるという前提である。怠惰であるなら、他者から強制されることなく、老人のオムツを替えたり、街路樹を整えたりすることはあり得ない。

俗流アンチ労働主義者は次のように考える。生命維持と最低限の娯楽のためには一定の作業が必要なわけだが、人はできることならその作業をやりたがらず、自分の三代欲求を満たすことや娯楽ばかりをやりたがる。だからこそ、必要性に迫られた作業は削減し、娯楽の時間を増やすべきである、と。

これに対する僕の反応は、人は怠惰ではない、であるが、俗流アンチ労働主義者にとって耳障りなものに違いない。「あなたは怠惰ではない」という言葉ほど、推しづけがましい言葉はないだろう。

現在、俗流アンチ労働主義者にとって、怠惰であることはカッコいいことである。社会の中で狡賢く立ち回り、労働を避け、めざとく利益だけを得る。そんなひろゆき的ライフスタイルが理想であると考えられている。なぜなら人は最小のコスト(なんらかの作業・行為)で最大の利益(おもに娯楽や余暇を意味するが、それらを手にするための金を意味する場合もある)を得ようとする利己的な存在だからだと考えられているからであり。怠惰なまま利益を得る行為こそスマートなのだ

(これを僕は厨二病的価値観と呼ぶ。)

しかし、人が怠惰であるという前提は、支配者側に都合の良い言説であり、僕たちを労働に縛り付けるためのプロパガンダとして機能している

なぜなら、人が怠惰なのであれば、労働者を鞭打ち管理する支配者の存在が正当化されるだけではなく、彼らに莫大な報酬が支払われることも正当化されるからである。

実際のところ、人が怠惰であるという勘違いが生じた原因は、労働が不愉快であることにある。

労働は、単に他者の支配されなければならなかったり、理不尽であったり、過剰であったり、無意味であったりすることが原因で不愉快なのであり、田植えをしたり、卵焼きを作ったりする作業そのものが不愉快なのではない。

もちろん、この発想は突き詰めていけば「仕事を楽しもうぜ!(キラキラ)」という労働至上主義者の主張に到達するように思える。しかし僕は、労働至上主義者の主張に与するつもりはない。

どういうことか? 順を追ってみていこう。


■労働至上主義の主張

労働至上主義とは、次のような主張である。

娯楽やスポーツ、趣味も悪くはないが、その喜びは薄っぺらい満足感しか与えることはない。人は仕事を通じて他者に貢献し、お金を稼ぐことで真の喜びを得られる。

もちろん、生きるためには金が必要だ。だが、金のために仕事をするのは本末転倒である。仕事にはそれ自体の喜びが存在するのだから、自己の能力を高めることを楽しみ、仕事にやりがいを見出すべきである。

もちろん、僕が言いたいのはこんなことではない。

ただし僕は労働至上主義者を批判しようとは思わない。彼が仕事を楽しんでいるのであれば、それはそれで良いことである。初めは強制されていたものを、自己決定の範囲を広げていけるようになり、楽しめるようになったのなら、別にそれを止めようとは思わない。

繰り返すが僕の労働の定義は、他者からの強制によって行う不愉快な作業なのである。本人が楽しんでいるなら、それが仮に周りから見てブルシット・ジョブであろうが、構わないのである。

では僕が労働至上主義者を批判するポイントはどこなのか? 大きく分けて3点ある。

1点目は、労働至上主義者は、労働至上主義の価値観を他者へと強制しようとする点である。

そもそも労働とは不愉快かつ無意味なものである。労働至上主義者はたまたま労働に取り組む中で、そこにやりがいを見出すことに成功したわけだが、そのような苦労は無ければ無い方が好ましい。できることなら、労働ではなく、楽しくて、意味のある作業にやりがいを見出す方がいいのである。

それに、労働至上主義に適応しようと努力しても、労働を愛することができず、精神を病んでしまう人もいる。

労働至上主義者は、労働至上主義に適応できない人物を「怠惰である」として批判する。この点においても僕と意見を異にする。なぜなら、労働至上主義者は「人は怠惰であるが、労働を通じて自己研鑽することで初めて怠惰ではなくなる」と考えているからだ。

繰り返すが、僕は人はそもそも怠惰ではないと考える。怠惰に見えるのは、労働を強いられているからだ。


2点目は、労働至上主義が金銭獲得をモチベーションにする人を増やしてしまう点である。

現代の労働の大半が金銭の獲得を目的とする政治活動と化している今、労働にモチベーションを持って取り組むということは、情熱的に金銭の獲得を取り組むことを意味する。

営業成績トップを狙う営業マン。朝から晩まで営業電話をかけ続けるコールセンターのバイト。わかりにくい広告を作ってクリック率アップを狙うWEBマーケター。ややこしい金融商品で年寄りからふんだくろうとする保険会社。

金銭の獲得競争とは、通常、人類社会に対して有益な貢献をすることは少ない。むしろ害を及ぼすことの方が多いのは、ビッグモーターの件からしても明らかだろう。車をゴルフボールで殴る行為や、街路樹に除草剤を撒く行為が、金銭の獲得につながるような欠陥ある社会システム上では、金銭を獲得するための行為は社会悪となる可能性が高い。

もちろん「金銭の獲得」ではない部分にモチベーションを持つ労働者も一定数存在する。しかし、彼らにとって金銭を獲得しなければならない現在の経済システムは、足枷として機能する。彼らは本来、金銭を度外視してやりたいことに集中したいにもかかわらず、必要最低限の金策を行わなければならないのだから。

※逆に言えば「これは確実に売れる」という確信はベーシック・インカム的に機能し、金のことを度外視してクオリティアップに集中できる状況が生じる。


僕が労働至上主義に反対する理由の3点目は、労働至上主義が喜びを定義する点である。

労働至上主義は、労働を通じて何かを達成することを肯定し、そうでない活動を否定する傾向にある。

僕は真の喜びを定義しようとは思わない。彼がそれを喜んでやるのなら、たとえそれが高齢者を詐欺にかけることであれ、ベッドに転がってTikTokを眺めることであれ、耕作放棄地を耕すことであれ、肯定されるべきだ。

新しい労働哲学は、労働を否定し、自由を肯定する。そして自由をKPIにする。

ここでもし、人が怠惰であると考えていたなら、みんながみんなベッドに転がってTikTokを眺めている社会を想像してしまうだろう。が、先述の通り、僕はそうは考えていない。

社会機能の維持は、自由な意志を動員することで可能になるはずだと、僕は考える。

もちろん、ここでいう「自由」には注意が必要である。

例えば僕が妻から「朝ごはんにベーグルを焼いてよ」と依頼されたとしよう。そうすると僕は大抵ベーグルを焼くわけだが、このとき僕は自由だろうか? それとも不自由だろうか?

潔癖症的に「自由」の定義にこだわるなら、自由ではないように見えるかもしれない。他者からの働きかけによって、その行為は生じたのだから。

しかし、完全に自発的な行為など存在しない。多かれ少なかれ周りの人や環境に影響を受けて人は行為する。

では、僕が重視するのはなんなのか? それは「断る選択肢があるかどうか」である。自由とは「断る選択肢を持っていること」である。

仮に僕がベーグル専門店の店員だったとして、ふてぶてしい客にベーグルの注文を受けたとしよう。そのとき、僕は拒否権を持たない。拒否すればその客は本部にクレームを入れ、僕の昇格は絶たれる。それを何度も繰り返せばクビになるかもしれない。ならば、そんな行為はしないのが普通だ。

賃労働においては断る選択肢を放棄することを強制される。つまり、労働とは自由の切り売りである。

拒否権を持っているなら、他者からベーグルを焼いて欲しいとお願いされることも、不愉快ではない。トイレ掃除をしなければならないことや、田んぼに水を入れなければならないこと、椅子を拵えなければならないことも同様である。

拒否する選択肢さえあるのなら、必要に迫られることは不愉快ではない。難題に立ち向かうことですらそうなのである。僕たちは誰かに頼まれた難題でも、ワクワクしながら取り組む。そうでないなら、誰がハードモードでゲームをプレイするだろうか。


話が壮大になってきたのでまとめよう。

俗流アンチ労働主義(僕はこの思想を信じる人を「意識低い系」と呼ぶ)は、人が怠惰であることを肯定して、労働量をできるだけ減らそうとする。しかし、人が怠惰であるということを前提し、最低限労働は必要であるという前提を有している点で「新しい労働哲学」とは異なる。

労働至上主義(僕はこの思想を信じる人を「意識高い系」と呼ぶ)も、人はもともと怠惰であることを前提としているが、怠惰を克服するための労働に勤しむことを推奨する。そして、労働以外の行為を蔑む傾向にある。

「新しい労働哲学」はどちらとも異なる。人はそもそも怠惰ではなく、労働は必要ないと主張する。そして、どのような作業であろうが、彼が自由にそれに取り組むのであれば、肯定する。


ご理解いただけただろうか。

わからない方は、補講授業を行うので、居残りするように!

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