血縁というフィクションを破壊し、フリーセックスのように子育てをしよう
最近、妻とコスプレセックスするのにハマっている。どんなコスプレなのかを書くと性癖がバレるので書かないが、とにかく人様には見せられない格好でセックスをしている。
付き合って8年。結婚して5年。子どもが2人いるとなると、セックスは月に1回かそこらになる。だが、コスプレという起爆剤を導入することで、ここのところ4日連続でセックスすることに成功した。やはり新鮮味は大事らしい。
昨晩、2回目の射精を終えて、スクール水着を着せられたまま横たわっている妻を冷静に見つめていると、マンネリ解消のために涙ぐましい努力を重ねる僕たちのような夫婦について考えを巡らせてしまった。
8年前、出会ったばかりの頃は一日中ベッドの中にいて、狂ったようにセックスしていた。いまでも僕たち夫婦はそこそこ仲が良いのだけれど、同じ相手と同じようなセックスをしていると流石に飽きる。これは生物として本能的な反応だろう。あのときめきと情熱をもう一度味わおうと思うなら、コスプレをするか、不倫をするしかない。
コスプレには限界があるし、恥ずかしい。となると普通は不倫である。
雑に検索したところ、不倫経験率は…
とのこと。
男性の方は風俗も含まれているが、それにしても半分近い人が不倫をしているという結果を見て、結婚というシステムに疑いの念を抱かずにいるのは難しい。
半数近いプレイヤーがボールを抱えているサッカーゲーム見たら、「もうお前らラグビーしろよ」と言いたくなるのが普通である。
不倫を社会的に許容したときに生じるのは、財産の問題と子育ての問題である。誰と誰がセックスしたかわからないなら、誰が誰の子かわからず、誰が誰を育てるべきなのかもわからないし、誰の財産を誰に継がせるべきかもわからない。だから、僕たちの先祖はどこかのタイミングで一夫一妻を貫き通すことを決めて、権利&義務の関係を確定したいと考えた。
そのメリットと比べて、デメリットは大きかったのではないだろうか?
新鮮な気持ちでセックスしたいという欲望が抑圧されただけではない。子育てにおいても、デメリットはあっただろう。
誰が誰の子かを確定させて、子育ての責任を負わせる個人を特定したということは、逆に親以外から子育ての権利を奪ったのだ。
子育てをしたことがある人なら共感してもらえると思うが、自分の子よりも、他人の子の世話をしている方が楽しい。なぜかと言えば、自分の子どもとは四六時中一緒にいるからである。要するにマンネリするのだ。逆に、他人の子ども新鮮な気持ちで世話ができる。
だから自分の子どもに対しては食べ物をこぼすような些細なミスでもイライラしがちな一方で、他人の子どもが食べ物をこぼしても、むしろ微笑ましいくらいの気持ちでテーブルを拭けるのだろう。もちろん、その子どもを養子に取ったならまた話は変わってくるが、週に1日か2日くらい面倒を見るくらいなら、子育てで鬱を患うようなことはないのではないだろうか?
だったら、もっとフリーセックスの要領で、子育てをシェアリングすべきではないだろうか?
「自分が自分の子を育てなければならない」という思い込み(仮にこれを「専属育て親制度」とでも呼ぼうか)は、ある意味で一夫一妻制と同じような社会的構築物である。むしろ、一夫一妻制よりも根強い。一夫一妻制がしょっちゅう議論の対象となるのに対し、専属育て親制度の是非についてX(旧Twitter)が盛り上がることはないからである。
おそらく、血縁という概念はフィクションである。血縁関係があるから思い入れがあると僕たちは思い込んでいるわけだが、氷のように冷めきった親子関係は枚挙に暇がないし、殺人事件の40%以上は親族間で起きている(と、法務省のHPに書いてあった)。僕たちは夜道を歩くときよりも、家の中にいるときの方が危険に晒されているわけだ。逆に、血縁がなくとも強い絆で結ばれたベルメールさんとナミのような関係も、数え上げればキリがない。
血縁という概念は、一夫一妻制と家族制度を維持したいなんらかの社会的な思惑によって、構築されたプロパガンダなのではないだろうか?
血縁という概念は、血縁者の世話をすることは自然であると定義することで、血縁者以外の世話をすることは不自然であると定義するが、よく考えればこの定義は怪しい。
確かに利己的遺伝子論の観点からすれば、血縁者は自分と近い遺伝子を持つが故に、血縁者を助けて、血縁者の遺伝子拡散を助けることは自分(を乗り物とする遺伝子)にとって望ましい。だが、実際のところ、人間に限らず例えばボノボが、血縁者に限らず他の生物にまで親切にするような事例は数多い。
そもそも遺伝子の拡散、複製だけを生命の原動力と見なすのは無理がある。そのように考えたなら、僕たちはいつまで経ってもアメーバのような姿のまま分裂していた方が効率がいいのだ。ベルクソンのいうエラン・ヴィタールなのか、ニーチェのいう権力への意志なのか、なにかよくわからないが、とにかく僕たちは遺伝子拡散以外の動機で行動することの方が多い。故に、遺伝子論の観点からみて的外れであっても、血縁者以外に親切な行為をするのだ。初音ミクと結婚する男がいるくらいなのだ。遺伝子論や血縁という概念で全てを説明することは不可能なのである。
なぜだかわからないが僕たちは視界に入った生き物を親切にしたいという不可解な欲望を持っている。だが、それを血縁至上主義が、血縁関係の中に制限しようとしたのだ。
これは市場というメカニズムにとっても好都合だっただろう。なぜなら市場とは、無条件に親切にする人たちの間では成り立たないからである。自分はできるだけ労力を割くことなく、他人から最大限の利益を引き出そうとするのでなければ(あるいはせめて自分だけが損することをしないようにするのでなければ)、市場や金は存在し得ない。
市場とは国家が生み出した。金も国家が生み出した。おそらく血縁至上主義も国家が生み出した。そして血縁至上主義と市場と金はシナジーを発揮し、手を取り合った。
僕が嫌いなものが、ぜんぶ繋がっているようだ。革命とはフリーセックスのことだったのである。
嫉妬なんて些細な問題にすぎない。幼少期から大人たちが誰彼構わず乳繰り合っているのを見ていると、嫉妬の感情なんて抱かないだろう。フリーセックスをし、誰が誰の子どもかわからない状況で、誰も彼もがみんなに優しくする。そうすれば市場も金も必要なくなる。
もちろん労働も、だ。
このように考えていると、僕たちがいかに「飽きる生き物」かがよくわかる。同じ人とだけセックスすると飽きるし、同じ子だけ育てていると飽きる。そして同じ仕事を延々繰り返していると飽きる。そのことを根拠に人は罪深いと考えるのではなく、飽きることを前提に社会を作り直すといい。
飽きないようにすれば、勝手に人は親切にするものである。
血縁は飽きる。もっと自由にやってもいいかもね。