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禅仏教と労働哲学

僕が提唱する労働哲学と、禅の思想、とくに曹洞宗は、ほんの少しだけ似ている。

なんてことを書くと、いろんな意味で混乱を招くかもしれない。「働かない勇気」とかなんとか言っている僕は、欲望のままに暮らすことを重視するわけだが、それは禁欲の印象がある禅とは真逆のように感じられるだろう。

確かに、禅に限らずそもそも仏教は、禁欲的な生活と坐禅を経て悟りに至るというロードマップを提示している(そこまで単純な話ではない、という反論もあるだろうが、その点にはのちに触れる。ここでは、少なくともそういう印象を持たれがちであると理解して欲しい)。

仏教の教えを雑に要約すると、こうなる。

自己という確固たる存在は錯覚であり、実際は縁起によって関連し合うだけの空なる存在である。しかし、自己という錯覚に惑わされることで、様々な欲望に塗れ、終わりのない欲望を追求し、欲望がくじかれるという経験を経て、人生は「一切皆苦」という状況になる。だからこそ、厳しい修行(あるいは浄土宗系なら南無阿弥陀仏を唱えるだけで済むが)を経て、色即是空であることを理解すれば、自己を捨て去り、苦しみから逃れられる

細かい部分は議論が別れるし、仏教キッズからすればツッコミどころ満載の要約だろうが、世俗的な理解としては概ねこんなところだろう。

この方針で古今東西、様々な僧侶たちが修行を重ねてきた結果、狂気じみたレベルの「自己の放棄」も実現されてきた。例えば、ティック・クアン・ドックという男は、宗教弾圧に抗議するために、坐禅を組みながら眉ひとつ動かさずに焼身自殺を果たしたという。

彼は長く厳しい修行を経て「熱い」「死にたくない」といった感情を錯覚であると切り捨てることに成功した。ある意味で、仏教にとっては誇らしい成功例だろう。仏教の教えを忠実に守れば、死に至る炎ですら苦しみになり得ないのだから。

一方で、1つの疑問がそこに残る。「一体、焼身自殺を求めた感情はなんだったのか?」という疑問である。

あらゆる感情を捨て去り、欲望を捨て去り、無我に至ったのだとすれば、宗教弾圧すら「どこ吹く風」と鼻歌でも歌いながら横目に見ておけばよかったのだ。しかし、彼はそれに憤慨し焼身自殺によって抗議することを選んだ。

それは彼の「欲望」でなければ、なんだというのだろうか?

ニーチェは、ティックのような禁欲主義的な人物を観察し「人は何も欲しないよりは、無を欲する」と言った。その通りだろう。人間が何も欲しないということは不可能である。何も欲しないということは何も行動しないということだが、何も行動しないときですら、何も行動しないという行動をとっている。行動するということは、それを欲しているということなのだ。

いくら欲望を削ぎ落としても、必ず人は何かを欲している。修行僧たちですら、無を求めて修行する。僕が思うに、そのことをよく理解し、向き合ったのが、禅であり、曹洞宗であり、道元なのだと思う。

禅が提示する悟りまでのロードマップを10段階で提示した「十牛図」というものがある。これは、「無我」の境地が8段目に位置しているという点で、仏教の教えの中でも少し特殊だ。

では9段目、10段目で何をするのかと言えば、無から俗世に帰ってきて人助けをする。というとなんだか良い話に聞こえるのだが、それだけではなく仏教の教えに反して酒を飲んだり、魚を食ったりもする。要はその辺をふらついている気のいいおっさんみたいなものになる。

人助けするのはいいとして、結局欲望を捨ててないじゃん?という印象を抱くことになるだろう。しかし、僕はこの魚を食いたいとか酒を飲みたいとか人を助けたいというのは、捨てても捨てても最後に残った、もともとそこにあった人間の欲望なのだと思う。

実際のところ、悟りを開いた人間が本当に捨てたのは欲望ではなく、苦しみなのだ。人はわざわざ欲望を抑え込み苦しむ。しかし、欲望はずっとそこにある。悟りを開こうが開かまいが、人はそれに向き合うことになるのだ。

道元は恐らくそのことを理解していた。彼はそもそも人は仏(悟りを開いた人)であるという発想からスタートし、「身心脱落」を説いた。これは様々な思考の束縛と苦しみを脱落させることを意味する。しかし、脱落させたとしてもそこには自分の中にある欲望が残っている。

この欲望はなんなのか? 「諸悪莫作」という言葉を見れば、理解できる。「諸悪莫作」とは「悟りを開いた人ならば、悪いことをしたいなんて思うことは無くなるよ」という意味の言葉だ。これは「そもそも人が欲望することは悪いことではない」という意味にもとれる。つまり道元は人間が初めから持っている欲望を肯定している。

そもそも道元は禅を広めることを欲望したし『正法眼蔵』を書くことを欲望した。全く欲望を捨て去っていたのなら、壁の前で手足が千切れるまで坐禅を組むか、さっさと死んでいただろう。そうではない彼の生き様そのものが、欲望の肯定だと考えられる。

「生活禅」という曹洞宗特有の修行スタイルも、欲望という角度から解釈できる。道元は飯の作り方から食べ方まであらゆる生活のスタイルをマニュアル化し、それに従うことを推奨した。この手のライフスタイルは一度軌道に乗り始めれば、やめることの方が苦痛になるのは、誰しもが知っていることである。禁欲的で規則正しい生活というものは、それ自体が欲望の対象になる。それは決して無理をして維持するようなものではなく、自然に欲望することができると、道元は生活禅を通じて教えてくれるのだ。

(そして、そもそも仏陀も人間の欲望を肯定していたのではないかと考えられる。なぜなら、人生が一切皆苦なのであれば、さっさと死ぬこと以外に解決策はないからである。仏陀がさっさと死ねと言わなかったことは、極めて重要だ。これは死んだ人間と、無我となった人間を、仏陀が区別していたことを意味する。生きるということは何かしらのの行為をすることであり、何かしらの行為をするということは欲望することでおる。生きることを肯定する仏陀は、そもそも人間の欲望を肯定している)

道元が行った欲望の肯定。これは僕の労働哲学とも一致する。

決定的に異なる点は、道元は坐禅などの修行を通じて欲望を解放しようとしたのに対し、僕は支配からの解放を通じて欲望を解放しようとしている点だろう。つまり、個人のレベルでの解決を図るのが道元で、社会のレベルで解決を図るのが僕だ。

禅の教えはともすれば、禁欲そのものを欲望の対象とすることで、欲望と向き合っていくという修行の性質上、現状維持に利用されやすい。現状維持に利用されるということは体制に利用されるということだ。禅の導師たちが太平洋戦争を礼賛していたことは有名な話だろう。現状維持に利用されるということは、結果なにもかわらないということだ。我慢を強いるだけの宗教なら、別に必要ない。

僕はベーシック・インカムをトリガーとして欲望をいきなり解放することで、誰しもが仏になれると信じている。そして社会のあり方を根本的に変革できると確信している。

プロセスは違う。だが実をいうと根本的には似ているのだ。

ただし、僕の道元解釈はかなり異端だと思われる。実際のところ、道元自身に僕の話を伝えても、キョトンとされるだろう。しかし、道元が意図せず意図していたところは、僕の労働哲学と重なっていたように思えてならないのだ。

そして僕は道元を乗り越えたい。人は初めから仏であるとかなんとか言いつつも坐禅を組ませる道元も、結局のところ人間そのものを信じきれていなかったのではないだろうか。僕は支配さえなければ、人は仏であると信じたい。そして、あとは欲望のままに生きればいい。そうすれば世界から労働が消え去る。労働が消え去れば苦しみは消え去る。

やっぱり宗教やろうかな。仏教の新しい宗派でも始めようかな。

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久保一真【まとも書房代表/哲学者】
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